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花酔い2

 甘い匂いが漂っていた。
 バターや砂糖をたっぷり使った菓子の焼きあがったにおいではない。福田は頭を巡らした。何の匂いだろうか。
「花の香り?」
 なんの花の香りだろう。全く花には詳しくないので、見当がつかない。
 一面の花畑にいるような感覚。空気のとてもすんだ、高原に広がる花畑。温室に大切に大切に育てられたバラの噎せかえるような濃い香りではなく、クリアで、けれど包み込むような柔らかな香り。たくさんの花の香りが複雑に混ざりあっているのに、不思議と透き通った香りがした。
 まるで計算されつくした高級なパフュームのようだ。
 香りは優しく身体を包んで、もう少しだけ、温かなこの場所に留まっていたい。
 柔らかな何かに鼻を近づけて、すん、と吸うと、柔らかな甘い香りに身体中が満たされるようだった。
 花の香りに癒されるなんて、全く自分らしくない。
 けれど、この香りに、温もりに、柔らかさに、甘さに心が安らいだ。
 好きだな。
 純粋にそう思った。

 意識が急激に浮上した。自然と目が覚めて、福田はぱちくりと瞬きを繰り返した。随分と身体の重みが消え、疲れが取れたようだった。
 夢を見ていたような気がした。どんな夢だったか、あいにく覚えていない。夢を見た、そんな気がしているだけだ。
 寝返りをうつと、部屋の入り口が開けっ放しだった。部屋のドアを毎回閉めるようなことはしない。部屋をオープンにしておくことに対して、全く気にならない。
 一人暮らしだったし、スタッフが入るといっても男ばかりだ。だから余計に気にしなくなった。
 ぼんやりと見つめる開かれたドアの向こうで、何度か誰かが横切っていった。
 それは女だった。
 誰かなんて一人しかいない。寝ている間に、別の違う誰かが部屋に入っていなければの話だが、違う誰かがなんてまるで思いつきもしないほど、女との交流はない。違う誰かだとすると、泥棒ということになってしまう。
 が、その可能性はほとんどない。
「……何を見ているんですか」
 福田が目覚めたことに気づいた蒼樹が、ぼんやりと焦点の合わない虚ろな目で、開かれたドアの向こうを見つめている福田に声をかけた。
 欠伸をすると、自然と出てきた涙を親指で拭った。
「いや、別に」
「視線を感じているんですけど」
「気のせいっしょ」
「うそばっかり……」
 はあ、とため息と共に言われた言葉を無視する。何を見ていたのかと聞かれても、何も見ていなかったと答えるほかない。
 正確に言うならば、目には映っていたが、脳で認識されていない。要するにぼんやりとしていた、ということで、何を、と言われても答えようがない。
 嘘ではなかったが、蒼樹の言葉を否定する気にもなれない。一を言うと、十で返ってくる女だ。福田はもう一度、くぁ、と欠伸をした。
「今何時?」
「七時です」
「……ん?」
 確か、彼女が家に来たのが夕方六時頃である。仕事が終わって一緒に食事でもしようということになって、蒼樹が食材を買ってきたところだったはずだ。
 福田は疲労がピークに達し、仮眠を取るといって、ベッドに入った。
 カーテンを閉めた覚えはなかったが、ここ数日、開けていなかったのかもしれない。
 なにしろ、締め切りが明けるまでの修羅場中の記憶が、すっかり抜け落ちてしまっているからだ。
 けれど、完全に閉じられていないカーテンの隙間から漏れてくるのは、どう考えても光だ。
 そう、明るい光なのだ。
「朝ですよ。」
「うそっ!」
「本当です」
 勢いよく起きあがって、カーテンを開ける。蒼樹の言ったように、外はさんさんと輝く太陽があった。
 ああ、なんてさわやかな朝なんだろう。
 完全に蒼樹のことを放って寝入ってしまったのか。蒼樹と一緒にご飯を食べる約束を、完全に反故にしてしまった。福田は慌てて謝った。
「悪い」
「もういいですよ」
 蒼樹の口調は多分に呆れが入っているようで、「もういいですよ」の意味に、呆れ以外の意味が含まれているような気がして考えてしまう。心なしか青ざめた福田を、ベッドサイドまで来た蒼樹は見下ろしていた。
 さすがにこれはまずいだろう。福田は顔をひきつらせて、見下ろしてくる蒼樹を見上げていた。逢えば些細な言い争いをしてしまう。周囲から言わせれば、バカっぷるで、ケンカっぷるらしいのだが、なんだかそれは心外だ。認めがたいが、確かにつまらない喧嘩をしている。けれどそれは、喧嘩や言い争いというよりも、蒼樹と福田の二人にすれば、恋人になる前からの癖のようなもので、そもそも正反対の性格をしている為に、ぶつかってしまうのが当たり前になってしまっている。
「そんな顔をしないでください。怒っていないですから、大丈夫です。」
 どんな顔をしているか、福田自身にはわからなかったが、相当情けない表情をしていたのだろう。
 困ったように眉を八の字に下げた蒼樹の表情をみて、福田はようやくほっと息を吐いた。ひきつった頬を両手で擦っていると、蒼樹がころころと笑った。
「福田さんを慌てさせるなんて、私も成長しましたか?」
「俺は、蒼樹嬢関連で落ち着いていたことなんて、いろんな意味でないぞ。」
「そうですか?」
「そうだよ。悔しいことにさ」
「そうだったんですか。てっきり、私ばっかり慌てているものだと思っていたのですけど」
「それはないだろ?俺は慌てさせるようなことは、見に覚えがないんだけど?」
「それはお互いさまということでしょう。私だって、福田さんを慌てさせるようなことをしているとは、自覚をしていませんでしたよ?」
「よく言うよ」
 人を好きになるということが、福田にとって蒼樹がほとんど初めてに近いことと言えた。だから、自分の嫉妬深さや、執着心を、蒼樹と関わるうちにことあるごとに、初めて直面し、困惑している。
 蒼樹に振り回されっぱなしだ。
 そういえばと、ふと福田は疑問に思って、それをそのまま口にする。脈絡のない話のせいで、蒼樹は少し眉間に皺を寄せた。
「寝た?」
「はい?」
 福田が寝入ってしまってから夜が過ぎ、朝が来てしまったわけだが、その間、蒼樹はどうしていたのだろうと、気になったのだ。
 まさか一晩中起きていたわけではあるまい。蒼樹だって、福田同様に仕事明けなのだ。
 彼女は女性だから、福田のような無茶はあまりしない気がした。けれど、漫画家として彼女が再スタートを切るきっかけとなった作品──青葉の頃で、寝る間も惜しんで描け、手を休めるなと教えたのは、紛れもなく自分だ。
「ちゃんと寝た?」
「寝ましたよ」
「どこで?」
「言わなきゃだめですか」
「うん、だめ」
 言いよどむ蒼樹に、福田は間髪入れず即答する。それでも口をもごもごと動かしている蒼樹に、「早く」と急かすと、蒼樹は観念して目をつむると口を開いた。
「……ベッドをお借りしました」
 福田は、はぁ?と聞き返したくなったが、結局その言葉がでる前に、蒼樹の言った意味を理解してしまった。おかげで、は、の形に口を開いたまま、蒼樹を凝視するという、かなり間抜けな表情になってしまった。
 要するにそれは、福田の寝ている隣に滑り込んだということだ。
 こちらが意識のない間に、隣に蒼樹がいたということになる。
 これは、随分と美味しい魚を逃がしたものだ。
 意識がなかった自分を呪いたい。好きな女が隣で寝ているのに、爆睡していたなんて、それでは蒼樹も呆れるというものだ。
 それに何より、男が廃る。
「……っ、そういうときは起こせよ!」
「気持ちよさそうに寝ているのに起こせませんし、起こすのだったら、一緒になんか寝ません。」
「とんだツンデレだな」
「ツンデレなんかじゃありません」
 彼女がツンデレでなかったら、他に彼女を形容する言葉が思い浮かばない。かなりのツンデレ具合に、福田組の面々がかつて、一様に驚き、とある小さな事件に巻き込まれたことを彼女は忘れてしまっただろうか。
 普段ツンとしたクールビューティーが、デレるという破壊的な状況を福田は蒼樹という人物に出会って初めて経験したことだ。
 彼女のデレで、何人の男が破滅的な運命を背負ったかわからない。
 彼女が与える破壊的、破滅的な影響とは必ずしも悪いものばかりではないが、男の心境としては、関わらなければよかったのに、と思うところもあるのだ。
 彼女は知らず知らず、他人を自分の魅力にはめてしまう。
 自分のその中の一人の人間なのだ。
 認めたくないとあらがいていた時期があったが、今はもう、認めてしまった方がいいような気がしていた。明らかに、誰が見ても、自分自身を客観的に見ても、自分は蒼樹に惚れているのだ。
「起きてくださいよ。十二時間は寝ているのですから、寝たりないとは言わせませんよ。」
「……うるさいなあ……堪能してんだよ」
「何をです?」
「言わなきゃだめ?」
「だめです」
「でも、言わない。」
「なんですか!もう!」
 周囲にはもうちょっと優しいはずの蒼樹が、なぜだか福田には少し冷たいのは、それが実は照れ隠しだった。強がりを言うのに、本当は弱いところを気づいてほしいと思っている。抱きしめると良い匂いがする。
 そうして心底蒼樹に惚れているなんて、彼女に言ってやらない。
「ちょっと、またど触ってるんですか!」
「足」
「わかってます!」
 ベッドサイドに立つ蒼樹のきれいな足を撫でた。
 そこに蒼樹がいたら、自然と手が伸びてしまう。蒼樹のきめ細やかな肌に触れていたいと思う。触れて、抱きしめて、首筋に顔を埋めて、匂いを嗅ぎたい。変人ではない、と言い切りたいが、大変な癖がついてしまった。
「もうちょっと寝ていようよ」
「はあ?」
「こっちこいって」
 約束を反故にしてしまったお詫びをしてやらなきゃ。今日はせっかくのオフだ。買い物をしたり、遊びに出かけたり、いろいろ予定は考えていたのかもしれないが、ベッドの中でごろごろしているのも、いいじゃないか。
 非生産的で、無計画的だと蒼樹はぷりぷりしているけれど、ベッドにひっぱりこんで抱き込んでしまおう。
 そうしたらきっと何も言えなくなってしまうに違いない。
 蒼樹の右手を取ると、女性特有の柔らかさと、職業柄できたペンだこがある。その手が愛おしくて、福田は知らず笑みをこぼした。
 だめだ。何かもが愛おしいなんて、この甘い匂いに酔ってしまったんだ。
 心地よい酩酊感に、福田は笑いながら蒼樹をベッドに引きずり込んだ。

...end

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花酔い1

 鍵が開く。
 ガチャリと大きな音がして、ドアノブが下ろされる。音を立てないようにゆっくりと入っているのか、ゆっくりとした音だった。カツとヒールが玄関のたたきにぶつかる音と、カチリと再度ドアの鍵をかけた音がした。
 誰かが来たんだな、ということは朦朧とした頭でもなんとか分かった。そしてそんな頭でも、部屋に入って来た人物が誰であるかは、はっきりと分かった。
 合鍵を持っている人物は片手で十分に足りるほどしかいないし、靴音や、漂ってくる雰囲気で誰だか判別できた。
 入って来た人物がこちらにやってくるのがわかる。部屋の構造をもう十分に理解しているようで、仕事部屋に住人がいないことを見て取ると、迷わずにベッドのある部屋にやってきたようだ。ガサガサとやたら音がなるのはなんだろう。
「福田さん、生きてます?」
「死んでるように見えるか」
「ええ、見えます」
「そーかよ」
 部屋に入るなり不躾に蒼樹は聞いてきた。
 今週はかなりハードスケジュールだった。本誌と同時進行でNEXTの原稿、アニメの脚本のチェック、グッズのチェック、イベントのチェックとめまぐるしく働いた。アニメやイベント関係については雄二郎のチェックを済ませたあとに廻ってくるが、それでも自分の作品だからちゃんと確かめたかった。連載二作目にしてようやく掴んだアニメ化だ。気合が入らないほうがおかしい。
 雄二郎の読み通り、バイク漫画ということで各方面からメディアミックスがなされる予定になっている。
 うれしい悲鳴だったが、如何せん今週は立て込みすぎた。スタッフを増やしたはずなのに、仕事量はKIYOSHIを連載していたころと変わらないどころか、増えているような気さえする。
 題材はバイクだったので取材にいくことも増えた。実際作中で描かれている技や見せ方は完全なフィクションだ。実際にそんなライディングはないという走法も描かれているが、そこは少年漫画の夢を詰め込んでいるわけで、リアリティにこだわる必要はないと思っている。
 もちろんレースの迫力や登場人物たちの心の動きには、リアリティと迫力を持たせたいと思っている。
 読者が作品の中の登場人物内の誰かに、自分を重ね合わせられたらいい。そんな風に思えるような作品になるなんて、福田自身も思わなかった。得意のバイオレンスよりも、これは完全に少年漫画の王道をいくような作品だ。
 題材はバイクと稀有だったが、最近ついぞ出てこないスポーツ漫画の部類に入るかもしれない。
 だからこそ編集部はこの作品に期待を寄せていたし、福田もこの作品に賭けていた。
 だから、手抜きはしたくない。
「疲れてます?」
「そう見える?」
 質問を質問で返せば蒼樹は怒る。分かっているけれどやってしまうのは、蒼樹が怒る姿がかわいいからかもしれない。本人にそれを言ったことはないけれど。
「つ、か、れ、て、い、る、ん、で、す、か?」
 案の定、蒼樹はイラッときたらしく、とげとげした口調で、言葉を一つずつ区切って再度聞いてきた。そうやってムキになるからからかい甲斐があるのだけれど、本人は至ってそれに気づいていない。気づいてしまったら、かわいい姿が見れなくなるから言うのはやめておこう。
 それよりも、今は泥の中に身を沈めているように身体が動かない。
 意識は朦朧として、実際蒼樹のこともぼんやりと霞掛かって見える。
 そう、確かに疲れている。睡眠時間は二時間足らず、夜も昼もぶっ通しで締め切りに間に合わせた。
 雄二郎は福田のことを心得ていて、原稿があがる一時間前にひょっこり表れて少し仕上げを手伝って、いい笑顔で原稿を掻っ攫うように持って行った。
 担当の編集者が変わることはよくあることだが、良くも悪くも初めて原稿を持ち込みしたときからずっと雄二郎が担当だった。今は師匠と慕っている新妻エイジにしても同じで、同じ担当者であることと、年齢が近く、新妻と唯一まともに会話のできる作家仲間として良く食事に行く仲だ。
 修羅場の度に、師匠の新妻を思い浮かべては、「師匠に出来て俺に出来ないわけがねー」と、自分を鼓舞する。
 実際には新妻の領域に達するにはまだまだだと冷静に判断してしまう。師匠ではあるが、それでも負けられないライバルであり、超えたい壁である。福田の漫画に対するモチベーションの高さは、確実に新妻エイジという存在だ。
 同じように新妻の存在を常に意識して漫画を書いている亜城木は、福田にとっては完全な同期で、新妻以上に負けたくない相手だった。
 新妻は特別な存在だった。年下のくせに天才と評されて、その評価に値する成果をあげている男。ライバルだと思っていた存在が、いつのまにか師匠になっていた。
 新妻はことあるごとに、CROW連載当初の福田がしたアドバイスのことに感謝の礼を示すが、福田も新妻には感謝していた。
 新妻は画力も高いし、話を作るのもうまい。漫画の構成の仕方も上手く、新妻から学ぶものは多かった。と同時に能力と才能の高さに嫉妬することもあったけれど、そのたび、新妻は真面目なのかふざけているのかわからない言動で、「僕には福田センセーみたいな作品は描けません。」というのだ。
 新妻はどうも人たらしなんじゃないかと思う。
 新妻にそう言われた自信が出てきてしまう。彼の漫画に対する評価や推測は、ほぼ当たっているのだから。
「そうかもな、眠たい……」
「せっかく来たのに……」
 口を尖らした蒼樹の姿にくすりと笑った。拗ねるなんて珍しいこともあるものだと思った。
 前に二人きりで会ったのはいつだったろうか。何せ二人して同じ雑誌に連載しているライバル作家同士である。お互いにお互いの仕事がどういったものだか理解しているというのは、心強いものでもあると同時に判り過ぎているための弊害もある。どちらも毎週締め切りに追われる日々なのを判っているから簡単に会うわけにもいかない。
 漫画家は安定した職業ではない。自営業者と同じく自分がやらなければ他には誰もやってくれる人間がいないのだ。毎週の締め切りは大変な苦労だったが、それがない日常は無職と変わらない。
 余程のことがないかぎり、一週でも休むわけにはいかない。
「ちょっと、どこ掴んでいるんですか!」
「たぶん、足」
「たぶんでもなんでもなく、足です」
「そこにあったから」
 ベッドの上で寝返りを打つとベッドの脇に立った蒼樹のほっそりした足が見えて、思わず手を伸ばしてしまった。
 蒼樹は怒ったが、それでも福田の手を足蹴にしないのは、育ちのよさのせいなのか。それとも福田の手を足蹴にすることに抵抗があるのか。
 逢えない代わりに電話とメールのやり取りが多いが、やはり直接会うほうがうれしいのは福田も同じだった。
 耳にする声も、表情も、直接触れることのできる肌も、覚えてしまった感覚は、次に逢う日まで恋しさが増してしまう。
 ふくらはぎの丸みを確かめるように触っていると、呆れたような声が頭上から降ってくる。
「もう……動きますから、離してください」
 足に触れていた手を素直に離すと、力を無くしてベッドの端から腕がだらりと垂れた。
「ん……どこ行くの」
「キッチンです」
「……何をしに?」
「スーパー行ってきたので、食材を冷蔵庫にいれようかなと思いまして」
 蒼樹はガサリと足下からビニールの袋を掲げた。ベッドの死角になっていて見えなかったのだ。玄関から歩いてきたときに聞いた音は、スーパーの袋だったのかと合点がいった。中からシメジとマイタケのパックが見えた。
「あ〜……マジ」
「マジですよ。一緒にご飯でも食べようかって言ったの誰ですか」
 そうだった。蒼樹の仕事の進捗状況と予定を聞いて、この日だったらと都合をつけたのだ。そのために、今日のために仕事を終わらせたのをすっかり失念していた。
 原稿が上がったことで、真っ白に燃え尽きてしまったからだ。
「マジとか言うな、似合わねー。外に喰いに行くのを想像してた……」
「まあ、こんな状態じゃ食べに行くこともできませんけどね」
 はあ、と溜め息をつかれてしまった。
 図星なのでぐう音もでないが、落ちそうになる意識を必死につなぎ止めて言った。
「大丈夫、ちょっと寝れば……」
 一時間、いや三十分だけ寝かせてくれと、言ったつもりだった。けれど、その前に意識は沈み込みはじめていた。だから、蒼樹が呆れたような、少し寂しそうな声で言った言葉は、福田には夢のどこかで聞いた気になった。
 蒼樹が何といったか、全く覚えていない。
 ああ、彼女はなんと言ったろう。

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デリカテッセン~コミュニケーション~

「おはよう。今日の朝食は──」
 で始まるポストイットをこだわりの無垢のダイニングテーブルから、ぺり、と剥がして、ほあ、と欠伸をする。日は既に高く上っていて、時刻は間もなく九時になるところだった。剥がしたポストイットをもう一度丁寧にテーブルの上に置いて、キッチンへ向かった。
 これまたこだわりの白とターコイズブルーのタイルが印象的なキッチンが「おはよう、お寝坊さん」と、まるでキッチンを我が城とする主の変わりに挨拶しているような気さえする。
 冷蔵庫を開けると、几帳面にストックされた下ごしらえ済みの食材たちがタッパーに入れられ、さらに何が入っているかわかるようにタグが貼り付けられている。いつ見ても整然としていて感心してしまう。ドアポケットから牛乳とポット型の浄水器を取り出して、肘でドアを閉めた。ぱたりと閉じたドアから、ぷすっと中の冷気が小さく飛び出す。
 手に持った牛乳パックとポットを台の上に置くと、ミルクパンを手に取った。ミルクパンにポットの水を入れ、火にかける。お湯が沸くまでの間に紅茶を計っておこう。そう思って棚に手を伸ばすと、おや、と気づく。籐籠の中に昨日まで入っていたレモンがなくなっていて、はて、彼は何に使ったのだろうと思いを巡らす。
 再び冷蔵庫を開けると、ドアポケットに小さなビンが二つ入っていた。あめ色の物体に、ああ、これかなと手に取った。蓋を開けて匂いをくんくんと嗅ぐと、甘い匂いがする。指につけて指につけてぺろりとなめると、甘酸っぱく、どことなくほろ苦い味がして、にやりと思わず笑ってしまった。
 これはおいしい。
 今日のおやつはクラッカーにこれを塗ろう。クラッカーはあったかしら、なんて考えているうちに、鍋の中の水がぐらぐらと揺れて沸騰しかけていた。
 ああ、いけない。茶葉を計ろうとしていたんだった。
 慌てて棚から茶葉を取り出した。小さな耐熱容器に茶葉を計りいれてミルクパンの中へと落とす。同時に火も消して蓋をした。ピンク色の砂時計を逆さにした。
 じっと砂が落ちるさまを見ながら、蓋の隙間から香ってきた紅茶の香りを胸いっぱい吸った。よしよし、大分頭がはっきりしてきた。
 ピンクの砂が完全に落ちるのを待って、蓋を開けるとミルクパンの中は見事なガーネット色だ。牛乳を入れると優しいベージュ色になる。ボーンチャイナの優しい白い色と相性抜群だ。
 カップをダイニングテーブルへ運んでようやく朝食である。ラップをとって、これでもか、というほどに野菜の入ったサンドウィッチを見てくすりと笑みを落とした。ぴりっとしたわさび菜とトマト、かりかりに焼いたベーコンとチーズ、オリーブオイルとブラックペッパーで和えたサラダが、どんっ、と固めのパンに挟み込まれていた。
「いただきます」
 手を合わせて頬張った。
 食べ終わったらシャワーを浴びて着替えよう。仕事をして、お昼になったら外で食事をとろう。そのついでになければクラッカーを買っておこう。午後からスタッフが入る予定だから、今日は冷蔵庫の例のものを振舞おうではないか。

 自宅は三階建てで、仕事場としてその三階を専用にしている。三階の仕事場へは外階段から入ることができ、スタッフや仕事関係者は外階段から直接仕事場にアクセスしてくる。外に仕事場を借りても良かったのだが、できるだけ自分のパーソナルな空間で仕事をするほうが昔からはかどった。もちろんそのことについては同居人である旦那様のご意向を伺った上での決定だったわけであるが、唯一彼が注文をつけたのが、パーソナルスペースと分けることだった。
 旦那さんは決して無断で仕事場に入ったりしないし、許可が無い限り入ろうともしない。そもそも、私が仕事をしている間、ほとんどの時間は彼もまた仕事中であるし、たとえ夜中の泊り込みの作業になってしまったとしても、三階は防音フロアにしてあるので、迷惑が掛からないように配慮している。
 自宅で仕事をしている私に迷惑がかからないかというよりも、外で仕事をしている旦那さんのほうに迷惑がかからないか、私は考えてしまうのだ。
 なにしろ旦那さんは私が起きるよりもずっと早く起きて仕事にいくわけで、私の生活サイクルとは異なっているわけだ。朝早く仕事にいく旦那さんを見送ることも食事をつくることもできない私はなんて不甲斐ないのか、と落ち込むのだが、何せ起きられない。なるべく旦那さんの休みの土日には仕事をいれたくないから、月曜から金曜に全ての工程を仕上げなくてはいけなくて、どうしても旦那さんと生活サイクルが違ってくる。夜中三時寝の人と、朝五時起きの人ではどうしたってすれ違う。
 お昼に買ってきたクラッカーを少しだけトーストして、冷蔵庫に入っていた例のもの──レモンマーマレードを塗って、庭から取ってきたミントの葉をのせた。ああ、写真を撮りたいぐらいにかわいい、そう思って思わずケータイを取り出してピロリンと間抜けな音を立てた。お盆にクラッカーと人数分のカップとポットをのせて、仕事部屋に入った。
「みなさん、休憩にしましょう」
 そういうとがりがりと原稿に向かっていたスタッフたちが一斉に振り返った。
 お盆に乗せられたものを見て一様に「うわあ」と声を上げるので、私もそうでしょう、そうでしょう、と頷いてしまう。
「かわいい、おいしそうですね」
 今も出来る限り女性のスタッフをお願いしているおかげで、一気に仕事場は華やいだ。ポットから紅茶を注いだ。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」
 美味しいものを食べるのは幸福感に満ち溢れる。これは万国共通、男女の違いなんかない。
「このマーマレード、先生の旦那さん作ですか」
「あ、うん、そう。朝、冷蔵庫見たら入っていたの」
「器用ですよねえ。女の子の好み分かっているって感じですよね」
「……クラッカーに塗ったのは私よ?」
「先生、旦那さんと意地張っても仕方ないですよ」
「だって、全部あの人の手柄みたいじゃ、悔しいじゃない」
 言いながらクラッカーを口に入れると、ああ、やっぱり悔しいなんて思ってしまう。おいしい、おいしすぎる。悔しいというか、狡い、のほうが近い感情かもしれない。おいしいもので私を懐柔させる。満ち足りた気分にさせるなんて、狡いではないか。
 そんなことをスタッフに言ったら、惚気ですか、と言われた。
 そんなことは決してないのだけれど、そう聞こえたのならそれでもいいか、と思った。

「おかえりなさい、今日の夕食は──」
 で始まるポストイットをこだわりの無垢のダイニングテーブルの上にぺたりと貼った。
 ランチョンマットの上に筑前煮と菜の花のおひたしを置いてラップをかけた。時刻は八時になろうとしていた。一時間もすれば帰ってくるだろう。
 さて、もうひと頑張り仕事をしよう。
 階段を上がりかけて、ふと、思い出したように足を止め、もう一度ダイニングテーブルへ歩み寄る。
 電話の側にあるペンを手に取って、ポストイットに書き足した。
 本当に直接言いたいけれど、たぶん今日も直接会話をすることは難しいだろう。
「よし」
 ぱちん、とペンの蓋を閉めると、今度こそ階段を上がった。
 明日の朝のポストイットにはきっとこの返事が書かれている。そう思ったら、嬉しくなって足取り軽やかに仕事に向かうのだった。

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ぬるま湯な日々

 まるで囚われてしまったかのように、抜け出せない。
「青木先輩って、どういう基準で好きになるんですか?」
 そう言って、後輩である気の強い女の子は、やはり蒼樹を強い目で見ていた。
 秋名愛子は目力の強い女性だ。態度や言動も強いが、それ以上に目力が強い。彼女の目は常に何かを挑むように他人を射抜く。そこには絶対的な自信と自尊心が隠すこともせずに存在しているのだが、最近はそれだけではない何かが彼女の瞳の中に宿るようになった。それは一見すると今までの自信と同じもののように感じるのだが、やはりそう断言するには違うような気がするのだ。でもそれが何であるかは蒼樹にはわからない。
「えっと、何が……?」
「だから、男の人のどういうところを好きになるのかってことです」
「あ、そういうこと」
 日頃の担当者との打ち合わせも激しいらしいと、蒼樹の担当編集者である山久に聞いたことがある。秋名はその癖が出ているのだろうか、初めて出会ったときよりもより一層、感情をストレートに強く押し出してくる。だけれどそこに、以前のような子供じみたものはあまりない。秋名は彼女なりに仕事をしていくなかで確実に成長しているのだということがわかる。
 そういえば秋名同様に、福田も担当編集者にストレートに自分の思いの丈を言い放つ作家だなと蒼樹は思いを巡らせた。
「先輩、聞いてます!?」
 テーブルをばしっと叩かれて、蒼樹は思わず肩を竦めて秋名に向き直った。
 蒼樹のその様子に秋名は目を丸くして、すぐに小さく「ごめんなさい」と言った。
 何も謝ることはない、話に集中していなかったのはこちらのほうだ。
 こういうところが変わった。一体彼女に何があったのだろう。
 通っていた大学の付近を歩いていたら、たまたま秋名と遭遇した。もちろん秋名は現役の大学生なのだから、学校のそばで出くわすというのは十分考えられる。
 初めての出会いは、秋名のほうから声をかけてくれたが、それ以降彼女をお茶に誘ったり、声をかけたりするのは決まって蒼樹のほうからだった。
「要するに、どういう人を好きになるかって、ことだよね?」
「まあ、そうですね」
「やっぱり、優しいところかな……」
 とにかく暴力的でなくて、優しい人が好きだ。身体的な暴力行為はもってのほかだが、言葉や態度が粗暴な人もできれば遠慮願いたい。スマートで、優しい人。
「随分と抽象的ですね。具体的にいうと、どういうところなんですか?」
「具体的……えっと、例えば……?」
「例えば?例えなんて必要なんですか?今付き合っている方がいらっしゃるじゃないですか。その人のどこかが好きで付き合っているんですよね。どこが好きか考えればいいんじゃないですか」
 秋名は一度で話のつかない蒼樹に次第に苛立ってきているのか、いらいらとした口調で言った。眉間には皺が寄り、難しい顔をしている。
 なんだか秋名と他愛ない会話をしたいのに、いつもこんな表情をさせてしまうな、と蒼樹は思った。
 今付き合っている人。平丸一也を思い浮かべて、蒼樹はむむっと唸ってしまう。
「ええっと、だから、優しいところなんだけど……。あとは……そうね、かわいいところ?私より年上なのに、妙に子供じみているっていうか、甘えてくるっていうか、そういうところかな」
「母性をくすぐられる人が好きってことですか?」
「母性かぁ……それとも違うような気もするけれど。私がいなくちゃこの人はだめなんだ、なんて思ったりはしないし、むしろもうちょっとしっかりして、とは思うけれど」
 なんというか、平丸は、仕方が無いなあと思ってしまうことが度々だ。平丸は基本的に優しい。付き合う前から空回りのしている人だけれど、それは付き合ってからも変わらない。思い込みの激しい人で、どんな切欠でテンションがあがるのか、いきなり下がってしまうのかよくわからない。だけれど、どれも周囲の人間からすれば「つまらない」もので、本人からすると「重大な」ものなのだ。
 そういうところが、仕方が無い人だなあと思うのだ。蒼樹はただそれに笑っているだけで、笑っている蒼樹を見て平丸はうれしくなっているのだということだけは分かる気がする。
 スマートで優しい人というには些か語弊があるかもしれない。
 甘えたがりの仕方の無い人。いつも蒼樹を喜ばそうとして空回りのする人。
 平丸についていなければダメになってしまう、とは全く思わないが、仕方が無いなと放っておけない気持ちがあるのも確かだ。それを母性と言うのだろうか、言うのかもしれない。
 そうか、これは母性というのか。
 だから嵐のような激情も、夏のような熱い熱もないのだろうか。
 平丸との付き合いは、縁側に出て丸まった猫を撫でているような、ぬるま湯に浸かったような感覚に似ているかもしれない。
「私は才能のある人、才能を認めてくれる人です。お互いが刺激になって、お互いが成長できるような、切磋琢磨できる人が好きです。そうでなければつまらない」
「好きな人っていうより、ライバル……のような感じなのね」
「男であるとか、女であるというより、人間として好きになれるかどうかです。私は私が認めた人しか好きになれない」
「認める……」
「この人には才能がある、能力がある。その力を出しつくせる人かどうか」
 秋名の瞳はやはり力強い。
 今やその力強さは、我儘でも独占欲や酷い自尊心などではなく、清らかに燃え続ける炎のようだった。
 強く語る秋名に圧倒されて、蒼樹は二の次が出なかった。
 何も言えずにいる蒼樹をじと目で見ながら秋名は言った。
「先輩は男の人を見る目がないです。他人の趣味に口を挟むのはナンセンスですけど、私には一体どこに魅力があるのかさっぱりわかりません」
 愛子がきっぱりと言い切った相手はやはり平丸のことだろう。
「でもすごく私のこと好いてくれるのよ?すごく嬉しいじゃない?だから私は、彼の気持ちに応えてあげたいの」
「……先輩って、すごく雰囲気に飲まれやすいタイプの人なんですね」
 秋名はわからないと言った風に首を横に振った。
「先輩には負けたくないライバルっていますか」
「ライバル……」
 そういえばライバルと良く口にした作家がいた。ライバルであり仲間であるから、放っておけないのだと、いつでも他人のことに口を出すような人が。
 あの時、初期のキャリアの蒼樹にとって彼らは──彼は完全にライバル、いや敵だった。絶対に負けたくない。自分自身とは対極にある彼には絶対に負けられないし、負けることは蒼樹の自尊心を、蒼樹の自己証明を覆されるようなそんな激しい思いでいたものだ。
 結局のところ、彼には負けたということだろうか。自分の作品は打ち切りが決まって、彼の作品は連載を続けたのだから。
 他人のことばかり考えているのかと思ったら、自分自身のことにはもっと強かで、もっとストイックで厳しい人だったのだ。一度目の連載に自分で区切りをつけ、対外的に言えば円満終了ということだ。一度も打ち切り候補に挙がらず、なおかつ終了直後から次回作の連載が決まっていたのだから。
 考えれば考えるほどに、彼は本当に自分に厳しい人だ。今の立ち位置に甘んじない。常に上を目指そうとし、周囲にも同じ舞台に上がれるように手を差し伸べる。
 福田も秋名も似たようなところがあるのだと思った。
 そしてそれは、蒼樹には持っていないものだ。
 しかしそこで、はて、と思いとどまる。
 本当に持っていないものなのだろうか。かつて蒼樹は同じようなものを持っていたのではないだろうか。上を目指して、人気作家を目指して粉骨邁進しようとしていたときがあったのではないだろうか。
 いつからこの現状に甘えるようになったのだろう。
 適当に、適度に、打ち切りにならない程度に頑張ればそれでいい。それなりにやれれば、それでいい。そんな考え方をするようになってしまったのは、一体いつからだろう。
 漫画を描くことも、漫画を読むことも、本気で楽しんでいるのだろうか。
 本気で楽しませようと思っているのだろうか。
 蒼樹はそれに気付いて愕然とした。いつからこんなぬるま湯に浸かるようになってしまったのだろう。
「青木先輩」
 知らず俯いてしまった顔を上げると、相変わらず熱の篭った秋名の瞳が蒼樹を射貫いていた。
 瞳の中にゆらゆらと揺れている静かな炎も、挑戦的な言動も、秋名の姿に福田が重なって見えた。

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ネバーランドの夢物語

 久しぶりにあの人に逢いました。
 逢うまで私はあの人のことを忘れているのではないだろうかというぐらいに、頭の片隅にも思い出すこともしなかったのですが、いざ逢ってみるとどうしてそんな風に思い出すこともしなかったのか不思議でたまりませんでした。
 それほどに私はあの人のことが気になって仕方がなかったのです。
 気になって気になって、目で追わずにはいられなかったのです。
 久しぶりに見たあの人は幾分痩せたように見えました。
 アニメ化が決まって漫画の方も順調で忙しいのでしょうか。またカップラーメンばかり食べて野菜を食べていないのでしょうか。まるでどこかの漫画の主人公みたいです。
 とんこつラーメンが好きで、そればかり食べている人。
 スタッフもそれに巻き込まれてとんこつラーメン漬けの日々を送っているのでしょうか。
 それにしても、もともと細身のあの人が痩せていることに私は心配になりました。
 倒れられては困ると思ったからです。
 しかし、なぜ?
 倒れられては困ると、誰が困るというのでしょう。
 編集部?スタッフ?
 ……私が?

 相変わらず重そうなシルバーアイテムを身に付けていました。
 側によったらじゃらじゃらと音がしそうでした。
 首にも、腕にも、指にも、腰にも。
 私があの人と良く逢っていたときと同じように、同じ場所に身に付けていました。あの人の指は、思いがけず長くて綺麗な爪をしていました。あの人はそれが嫌なようで指が綺麗なことがコンプレックスのようでした。
 女性の私からすれば贅沢な悩みです。
 だけどその綺麗な指であっても、あの人の手は男の人の手でした。
 大きくて私の頭をぽんぽん撫でた感触を思い出しました。
 あの人のアドバイスを受けて改善して行く私の漫画を、正確にはネームを読んで、あの人は「いい子だ」と言うのです。

 思い出したらなぜか涙が溢れてきそうになって、思わず息を詰めました。
 目を閉じることも、視線を下に向けることもできません。
 少しでも動いたら涙が零れてしまいそうな気がしました。
 見ているだけで辛い気持ちもあるのだと、私はようやく理解した気がします。
 恋愛漫画を描いていながら、恋する人の気持ちが理解していなかったのでしょうか。
 恋とは辛いものです。
 私はどこで、間違ったのでしょう。
 間違ったというより、何を見ていたのでしょう。
 一時期、私はたぶん誰よりも、あの人のスタッフの安岡さんを除けば、誰よりもあの人のそばにいた時期があったというのに、今は遠くて話しかけることもできません。
 あれはなんだったのでしょう。
 ネバーランドの夢物語?
 私は何を望んでいたのでしょう。
 「好きだ」と言ってくれたら、どんなによかったことでしょう。
 「好きです」と言えていたら、どんなに幸せだったことでしょう。
 辛いことも、嫌なことも、嬉しいことも、いろんな感情をあの人にはぶつけられたのです。ぶつけることができたのです。
 なのに、「好き」という感情だけは、一体心のどこに隠してしまったというのでしょうか。
 心の奥底にあったものが、今更どうして出てきてしまったのでしょうか。

 今更、どうしてですか……?
 今更、私はあの人に「好き」とは言えないのに。

 見ていることしかできない恋は、辛いものです。
 いっそ過去のものにできたらいいのに。
 いっそあの頃に戻れればいいのに。
 戻れたら時間なんて止まってしまえばいいのに。

 だから私の漫画はお花畑なんて言われてしまうんだ。
 現実は痛くて辛い。

 背中を追うことを許されるでしょうか。
 今繋いでいる手を離してもいいでしょうか。
 何をしているんだって、怒られてしまうでしょうか。呆れるでしょうか。

 結局私には一歩踏み出す勇気はいつだってないのです。
 あの人のひとことがないと、私はいつだって前に進むことができないのだと、私はつくづく思ったのです。
 つくづく馬鹿だと思ったのです。

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