SLOW LIFE 【3】
「おじゃまします」
「どうぞ。」
何度も来たことのある福田の部屋で以前と明らかに違うところは、出迎えてくれる部屋の主が一匹増えたところだろうか。
門番よろしく、客人を迎えるように、ぴっと凛々しく座っている黒猫に、蒼樹は笑顔で挨拶をする。
「こんにちわ」
ヘーゼルの丸い目は、ひたと蒼樹を見据えていたが、みゃあとも、すんとも言わず、特に目立った反応をすることもなく、むしろしれっとした様子で、立ち上がり部屋の中へと入ってしまった。
そんな冷めた住人の対応に、蒼樹は少なからずショックを受けて、しばし反応出来ずにいた。
「……私、嫌われてます?」
「なんだろうなあ……」
同じように飼い猫の様子を見ていた福田は、苦笑して肩を竦めた。
福田が猫を拾ってから福田の家を訪れるのは、その日以来のことだった。お互いに連載作家であるため、締め切り明けに逢うのが、暗黙の了解になっていた。
拾ってきたその日から、黒猫は福田に懐いているように見えたが、蒼樹には恐る恐るといった様子で近づいてきたのを覚えている。何がそんなに黒猫の警戒心を抱かせるのか。見た目で言ったら、福田の方がビクビクする容姿ではないか、と自分の恋人であるはずの福田に若干失礼なことを思ったが、黒猫のほうはそうではないらしい。仕事で逢えなかった一週間の間に、黒猫は益々福田に懐いたようだ。福田が動くとついていき、福田のまわりをうろうろとしている。
部屋に入って、床の上にあぐらをかいた福田のふとももによじ登ろうとする黒猫を見遣りながら言った。
「……いつもそんな感じなんですか?」
「そんな感じって?」
そうこう言っている間に、膝の上に上がり切った黒猫は、福田のパーカーの中に裾から頭を突っ込もうとしていた。福田はそれを止める素振りを見せない。蒼樹は二の次がなかなか出ずに、その光景を眺めてしまう。
「……服の中に入ったりしてるんですか?」
「ああ、お気に入りポジションなんじゃない?仕事しててもよく来るよ。あちぃけどな。寝てるときもベッドに入ってくるし。」
確かに、福田が飼い主なのだが、この差はなんだろう。そもそも嫌われるようなことをしただろうか。
ジッパーを下げた部分から顔だけ出して満足気な表情をしている黒猫をまじまじと見る。
「……なんか、負けてる気がします。」
「何が?」
「何かが」
黒猫に懐かれていないことが問題ではないのかもしれない。確かにかわいい猫に懐かれないショックは、あるにはあるけれども、これはショックという名のものではないのかもしれない。
恋人であるはずの蒼樹が、認め難い何かにおいて、黒猫に負けてる気がして、蒼樹は、むむっと渋面を浮かべた。
「何が?」
パーカーの中から、みゃあ、と一鳴きした黒猫を見ながら、首を傾げる福田に蒼樹は渋面を浮かべたまま呟いた。
「……何かが」
これは、嫉妬というやつかもしれない。
「どうぞ。」
何度も来たことのある福田の部屋で以前と明らかに違うところは、出迎えてくれる部屋の主が一匹増えたところだろうか。
門番よろしく、客人を迎えるように、ぴっと凛々しく座っている黒猫に、蒼樹は笑顔で挨拶をする。
「こんにちわ」
ヘーゼルの丸い目は、ひたと蒼樹を見据えていたが、みゃあとも、すんとも言わず、特に目立った反応をすることもなく、むしろしれっとした様子で、立ち上がり部屋の中へと入ってしまった。
そんな冷めた住人の対応に、蒼樹は少なからずショックを受けて、しばし反応出来ずにいた。
「……私、嫌われてます?」
「なんだろうなあ……」
同じように飼い猫の様子を見ていた福田は、苦笑して肩を竦めた。
福田が猫を拾ってから福田の家を訪れるのは、その日以来のことだった。お互いに連載作家であるため、締め切り明けに逢うのが、暗黙の了解になっていた。
拾ってきたその日から、黒猫は福田に懐いているように見えたが、蒼樹には恐る恐るといった様子で近づいてきたのを覚えている。何がそんなに黒猫の警戒心を抱かせるのか。見た目で言ったら、福田の方がビクビクする容姿ではないか、と自分の恋人であるはずの福田に若干失礼なことを思ったが、黒猫のほうはそうではないらしい。仕事で逢えなかった一週間の間に、黒猫は益々福田に懐いたようだ。福田が動くとついていき、福田のまわりをうろうろとしている。
部屋に入って、床の上にあぐらをかいた福田のふとももによじ登ろうとする黒猫を見遣りながら言った。
「……いつもそんな感じなんですか?」
「そんな感じって?」
そうこう言っている間に、膝の上に上がり切った黒猫は、福田のパーカーの中に裾から頭を突っ込もうとしていた。福田はそれを止める素振りを見せない。蒼樹は二の次がなかなか出ずに、その光景を眺めてしまう。
「……服の中に入ったりしてるんですか?」
「ああ、お気に入りポジションなんじゃない?仕事しててもよく来るよ。あちぃけどな。寝てるときもベッドに入ってくるし。」
確かに、福田が飼い主なのだが、この差はなんだろう。そもそも嫌われるようなことをしただろうか。
ジッパーを下げた部分から顔だけ出して満足気な表情をしている黒猫をまじまじと見る。
「……なんか、負けてる気がします。」
「何が?」
「何かが」
黒猫に懐かれていないことが問題ではないのかもしれない。確かにかわいい猫に懐かれないショックは、あるにはあるけれども、これはショックという名のものではないのかもしれない。
恋人であるはずの蒼樹が、認め難い何かにおいて、黒猫に負けてる気がして、蒼樹は、むむっと渋面を浮かべた。
「何が?」
パーカーの中から、みゃあ、と一鳴きした黒猫を見ながら、首を傾げる福田に蒼樹は渋面を浮かべたまま呟いた。
「……何かが」
これは、嫉妬というやつかもしれない。
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SLOW LIFE 【2】
「福田くん、原稿あがった?」
「あ、雄二郎さん、まじであとちょっとなんで、テキトーにコーヒーでも飲んでてください」
いつものように勝手知ったる福田の自宅兼仕事部屋に、預かっている合い鍵で入った雄二郎は、仕事部屋の入り口に門番よろしく、と凛々しく座っている黒猫に驚いた。黒猫は一言も鳴かずに、ヘーゼルの真ん丸の目でじぃっと雄二郎を見ていた。
「ねえ、福田くん、猫どうしたの?」
「ああ、そいつ。拾ったんす」
「ペット可だっけ? この部屋」
「そーすよ」
仕上げの段階に入っている福田は顔も上げずにもくもくと原稿に向かっていた。毎度のごとく片足を立てて姿勢の悪い格好で仕事をしていたが、その表情は真剣そのものだ。
案外長い睫が、デスクライトの光に透けて見えた。
「福田くん、動物の世話できるの?」
「何すか、それ! できますよ! 実家でも飼ってたし」
「あーそうなんだ。まあ、なんだかんだ言って、世話好きだしね、君」
言葉の端に、本当に君は世話好きのお節介焼きなんだ、と含みを持たせたが、福田はそれに気付かずに、「人間と動物じゃ違うっすけどね」なんて、特に面白みもない反応を返してくる。
過剰な反応で、うるさく返してくるところが面白いのに、と雄二郎は少し残念がった。原稿が佳境なのだから仕方がない。雄二郎はやれやれと首を振った。
部屋の入り口からとことこと歩いてきた黒猫が、雄二郎の足下で止まると、先ほどと同じようにヘーゼルの目が雄二郎をひたと見つめていた。腕を伸ばして触ろうとしても避ける様子もない。
すぐに触れることのできた頭部を擽るように撫でた。
「人懐っこいね、この子」
「っすね」
相変わらず黙々と原稿に向かう福田を見ながら、黒いソファに「どっこいしょ」なんて、親父臭い台詞をいいながら座ってしまった。まだ三十代だ。どっこいしょ、なんて老けた台詞が自然と出てしまうなんて恐ろしい。
ソファに座ると、黒猫は雄二郎の手から離れて飼い主である福田の元へと駆けて行く。福田の足下で、力を込めると、唐突にジャンプして福田の太ももに座ろうとした。
「こらあ、乗るなって。ちょっと雄二郎さんの相手してて」
けれど、集中している福田の手によって、再度床に下ろされてしまい、黒猫は不満げにみゃあと鳴いた。
「だってさ」
すっかり黒猫のご主人様になっている福田をほほ笑ましく思いながら、おいで、と福田の飼い猫を手招きする。
そんな雄二郎を黒猫はじと目で見てくる。
仔猫なのに黒猫だからか、迫力があって身を引いてしまう。主人から拒否されたことがかなり不満なのだろうか、むすっとした表情だ。そういう鋭い目をしていると、福田に似ているな、なんて思うのはおかしいだろうか。
あまりにもじっと見るものだから、居心地が悪くなって、視線を反らした。
(猫に負けるとは……)
視線を反らしても刺さるような黒猫の視線に、雄二郎はソファの上で身じろぎした。
それが、引鉄だったのかもしれない。視界の端に、ぐっと身体を丸めて力を入れた黒猫の姿が見えた気がした。
「あだっ!」
「もー雄二郎さんうるさいっすよ!」
人が集中して仕事をしているというのに、うるさくするというのは何事だろう。しかも、仕事の邪魔をしているのが、原稿を受け取りに来たはずの担当自らであることに、福田は訝しんだ。
原稿から目を離し、顔をあげる。福田はこの日ようやく、雄二郎をまともに見たような気がした。
「……何してんすか……」
そこには、雄二郎自慢のアフロ頭に顔を突っ込んでいる飼い猫の姿があった。
「そんなに笑うことないだろ!」
「ひ、だって、あは、」
目尻にうっすらと涙を浮かべて、文字通り抱腹している福田の膝の上には、確実にそこに市民権を得ている飼い猫の姿があった。
雄二郎は福田の膝の上で、ぐでん、とリラックスして伸びきっている黒猫を睨んだが、黒猫は雄二郎の視線に全く興味を示さない。
「アフロ初めて見たからじゃないっすか。興味あったんすよ、きっと。もふもふしてるから」
「だからってダイブする?」
頭を擦る雄二郎を見て、ようやく収まったはずの笑いが、再度ふつふつと湧き上がる。ぶふっ、とこらえ切れずに吹き出してしまうと、雄二郎がごほんと態とらしい咳払いをして、「ところで、福田くん」と言った。
「原稿は終わったのかな?」
憤然とした態度で言う雄二郎に、福田は笑いを堪えながら言った。
「終わるわけないでしょ」
黒猫が膝の上で、くあっと大きな欠伸をしていた。
「あ、雄二郎さん、まじであとちょっとなんで、テキトーにコーヒーでも飲んでてください」
いつものように勝手知ったる福田の自宅兼仕事部屋に、預かっている合い鍵で入った雄二郎は、仕事部屋の入り口に門番よろしく、と凛々しく座っている黒猫に驚いた。黒猫は一言も鳴かずに、ヘーゼルの真ん丸の目でじぃっと雄二郎を見ていた。
「ねえ、福田くん、猫どうしたの?」
「ああ、そいつ。拾ったんす」
「ペット可だっけ? この部屋」
「そーすよ」
仕上げの段階に入っている福田は顔も上げずにもくもくと原稿に向かっていた。毎度のごとく片足を立てて姿勢の悪い格好で仕事をしていたが、その表情は真剣そのものだ。
案外長い睫が、デスクライトの光に透けて見えた。
「福田くん、動物の世話できるの?」
「何すか、それ! できますよ! 実家でも飼ってたし」
「あーそうなんだ。まあ、なんだかんだ言って、世話好きだしね、君」
言葉の端に、本当に君は世話好きのお節介焼きなんだ、と含みを持たせたが、福田はそれに気付かずに、「人間と動物じゃ違うっすけどね」なんて、特に面白みもない反応を返してくる。
過剰な反応で、うるさく返してくるところが面白いのに、と雄二郎は少し残念がった。原稿が佳境なのだから仕方がない。雄二郎はやれやれと首を振った。
部屋の入り口からとことこと歩いてきた黒猫が、雄二郎の足下で止まると、先ほどと同じようにヘーゼルの目が雄二郎をひたと見つめていた。腕を伸ばして触ろうとしても避ける様子もない。
すぐに触れることのできた頭部を擽るように撫でた。
「人懐っこいね、この子」
「っすね」
相変わらず黙々と原稿に向かう福田を見ながら、黒いソファに「どっこいしょ」なんて、親父臭い台詞をいいながら座ってしまった。まだ三十代だ。どっこいしょ、なんて老けた台詞が自然と出てしまうなんて恐ろしい。
ソファに座ると、黒猫は雄二郎の手から離れて飼い主である福田の元へと駆けて行く。福田の足下で、力を込めると、唐突にジャンプして福田の太ももに座ろうとした。
「こらあ、乗るなって。ちょっと雄二郎さんの相手してて」
けれど、集中している福田の手によって、再度床に下ろされてしまい、黒猫は不満げにみゃあと鳴いた。
「だってさ」
すっかり黒猫のご主人様になっている福田をほほ笑ましく思いながら、おいで、と福田の飼い猫を手招きする。
そんな雄二郎を黒猫はじと目で見てくる。
仔猫なのに黒猫だからか、迫力があって身を引いてしまう。主人から拒否されたことがかなり不満なのだろうか、むすっとした表情だ。そういう鋭い目をしていると、福田に似ているな、なんて思うのはおかしいだろうか。
あまりにもじっと見るものだから、居心地が悪くなって、視線を反らした。
(猫に負けるとは……)
視線を反らしても刺さるような黒猫の視線に、雄二郎はソファの上で身じろぎした。
それが、引鉄だったのかもしれない。視界の端に、ぐっと身体を丸めて力を入れた黒猫の姿が見えた気がした。
「あだっ!」
「もー雄二郎さんうるさいっすよ!」
人が集中して仕事をしているというのに、うるさくするというのは何事だろう。しかも、仕事の邪魔をしているのが、原稿を受け取りに来たはずの担当自らであることに、福田は訝しんだ。
原稿から目を離し、顔をあげる。福田はこの日ようやく、雄二郎をまともに見たような気がした。
「……何してんすか……」
そこには、雄二郎自慢のアフロ頭に顔を突っ込んでいる飼い猫の姿があった。
「そんなに笑うことないだろ!」
「ひ、だって、あは、」
目尻にうっすらと涙を浮かべて、文字通り抱腹している福田の膝の上には、確実にそこに市民権を得ている飼い猫の姿があった。
雄二郎は福田の膝の上で、ぐでん、とリラックスして伸びきっている黒猫を睨んだが、黒猫は雄二郎の視線に全く興味を示さない。
「アフロ初めて見たからじゃないっすか。興味あったんすよ、きっと。もふもふしてるから」
「だからってダイブする?」
頭を擦る雄二郎を見て、ようやく収まったはずの笑いが、再度ふつふつと湧き上がる。ぶふっ、とこらえ切れずに吹き出してしまうと、雄二郎がごほんと態とらしい咳払いをして、「ところで、福田くん」と言った。
「原稿は終わったのかな?」
憤然とした態度で言う雄二郎に、福田は笑いを堪えながら言った。
「終わるわけないでしょ」
黒猫が膝の上で、くあっと大きな欠伸をしていた。
SLOW LIFE 【1】
ついこの間、世間ではゴールデンウィークという大型連休があったばかりで、心地の良い春の時期だったというのに、ゴールデンウィークを過ぎてしまってからは暑い日が続いていた。春なんて一体どこへ行ってしまったのだろうと、首を傾げたくなるほど連日二十五度近くの夏日を記録していて、早速福田は箪笥から半袖のTシャツを取り出していた。ほとんどを部屋の中で過ごしているという不健康な生活を送っているせいで、生白い腕が太陽の下に晒されるたび、不甲斐なく思うのだ。
「少し焼きてえなあ……病人みたいだろ、これじゃ……」
たぶん、一日でも外で過ごせば健康的な肌色になるはずなのだ。
「ツーリング行きてえ」
結局ゴールデンウィークも溜まりに溜まった家事などをしている間にあっという間に過ぎ去ってしまって、結局どこにも遊びに行かなかった。
バイクに乗っていないわけではないが、計画を立てて遊びに行くということがしたい。
原稿の合間の息抜きのように当てもなくふらふらするのでも、見知った家の周りを走るのでもなく、遠出をしたいものだ。
ぶらぶらと歩道を歩いていると、みゃあ、と音がした。
「ん?」
福田は立ち止まった。空耳かと思った。するともう一度、みゃあと音がする。
どこだ。
音の出所を探して、福田は辺りをきょろきょろと見渡した。
歩道と車道の間にある植え込みの下に、段ボール箱が押し込まれていた。
まさかな。
そう思いながら、段ボール箱に近づくと、みゃあ、みゃあと福田を呼ぶように鳴く声がして、福田は恐る恐る段ボール箱の中を見た。
「どうしたの、お前」
福田の予想通り、段ボール箱の中にいたのは仔猫だった。産まれたばかりというわけではなかったが、福田の気配に気付いて仔猫はみゃあみゃあと何度も鳴き、福田を見つめた。
「どこの子? 捨てられたのか?」
猫の状態を見るに、ついさっき捨てられた状態のようだ。福田が出掛けるときには段ボール箱に気付かなかったのだから、たぶんそうだ。
ミカン箱よりも若干小さい段ボール箱の中に毛布とネコ缶が入っていた。
「ひでぇことする奴がいたもんだなあ……」
真っ黒な毛並みの黒猫だった。そっと手を伸ばすと、すぐに近寄ってくる。おでこを指でくりくりと撫でてやると、もっと撫でろと言わんばかりに頭を押し付けてくるので、福田はふっと笑みを零した。
「缶詰めとかそのままいれられてもな……、こいつじゃ開けられねえっつうのな? とりあえず開けてやっから。親切な人が現れるといいんだけどなあ」
段ボール箱にいっしょに入れられているネコ缶の蓋を、ばりっと剥がしながら言った。お腹は空いていないようで、黒猫は蓋の開いたネコ缶の中身を、表面だけぺろりと舐めただけで、みゃあ、とまた鳴いた。
「腹が減ったら、食べな」
そう言って黒猫をひと撫でして立ち上がると、きょとんとした目で見てくる黒猫に、じゃあね、と立ち去ろうした。
けれど、それを敏感に悟ったのか、黒猫がびゃあびゃあと鳴き出した。
行かないで、行かないで。
必死な黒猫の鳴き声に、福田はその場を立ち去れなくなってしまった。
突っ立ったまま、段ボール箱の側面にがりがりとつめを立てている黒猫の姿を見下ろした。黒猫の世界は、今、小さな箱の中だけで、その小さな箱が幸せをもたらす世界でないことを、黒猫は知っているのだろう。
捨てられてしまったことをわかっていて、手を差し伸べてくれる誰かをこうして待っているのだ。
「ああああ、もう、んな、鳴くなつの! ううう、どうすんだ、これ。どうする、俺! どうすればいいのよ、俺!」
「福田さん……? 何やっているんですか……」
福田は掛けられた声の主を振り返った。黒猫の悲壮な視線に項垂れた福田の姿を、まるで気味の悪いものでも見るかのような冷たい視線を送る女は、福田の数歩離れた位置で立ち止まっていた。
「んな目で俺を見るな!」
「明らかに怪しい人ですよ」
「判ってるけど! 判ってるけど、その目、まじでやめろっつーの」
しれっとして可愛げのないことをいう女との付き合いは、短いようで長く、浅いようで深いといった、福田にとっては複雑な女だった。たぶん、それは彼女のほうでも同じで、どうして気の会わない二人がこういう関係になったのか、当人たちが一番理解していないという奇妙な状況になっている。
こういう関係とはつまり、恋人同士であるということだ。
マキシ丈のワンピースにボレロを羽織った格好の蒼樹が、福田の隣に立った。片耳に髪の毛をかけていて、いつもと違う横顔に少しどきりとした。蒼樹は目の前にある段ボール箱を見て言った。
「猫?」
「そ。捨て猫っぽいんだよなー。」
「餌付けしたりするとなつかれちゃいますよ。」
「段ボールに入ってたやつを開けてやっただけだよ。」
福田は体を曲げて黒猫を撫でた。福田が顎の下に指を入れて擽ると、黒猫は気持ちよさそうに目を細める。
「随分なついていますね。あら?」
蒼樹が何かに気づいて声をあげる。指をさしたのは、福田が持っていたレジ袋だった。
「コンビニ……じゃないんですか?」
蒼樹はレジ袋のロゴが、コンビニのロゴではなかったことが気になったようだ。
「おう、スーパー行ってきた。」
「福田さんがスーパーマーケット……」
「なんだよ。行っちゃ悪いかよ。」
「いえ、イメージにないだけです。」
狐に摘まれたように、目を丸くした蒼樹の表情に、福田は盛大に顔をしかめた。確かに珍しいことかもしれないが、そこまで驚かなくていいだろうと思う。自炊しないわけではない。時間がないから、いつもコンビニで済ませてしまうだけだ。
不貞腐れたように唇を突き出した。
「俺のイメージってどういうものなわけ」
「コンビニでとんこつラーメンを買って食す、という感じでしょうか? しかも、カップ麺」
「……間違ってないけどさ。」
それは日ごろの福田の行いの全てで、否定すべき点など毛頭なく、福田は、はあと溜め息をついた。
「何を買ってきたんですか?」
蒼樹がレジ袋の口を指で引っかけて中を見ようとする。隠すつもりはないが、また小言を言われそうで福田は焦った。なんのつもりか知らないが、彼女の小言はまるで母親のようで、とにかく小うるさいのだ。
だからさりげなく袋を自分のほうへ引き寄せようとしたが、蒼樹は既に袋の中を覗き込んでいた。
「ネギに、ミョウガに、お豆腐……冷奴?」
「まあな」
「で、ビール」
「な、なんだよ、その目は! いいじゃねえか、別にビールくらい。」
「ビールがダメだとは言っていません」
蒼樹はそう言うが、明らかにビールのつまみだけ買いました、といったレジ袋の中身に、彼女は多いに不満を持っていることは、彼女の顔を見れば明らかだ。もっと身になるものを食べろと言いたいに違いない。
けれど、気温も上がって唐突に冷奴が食べたくなったのだから仕方がない。
夏の本番はまだまだ先だというのに、もう涼を求めてしまう。スーパーマーケットもそういった客のマーケティングを行っているのか、豆腐売り場には、豆腐サラダや冷奴に丁度よさそうな豆腐が並んでいて、福田はどれを買おうか迷ったくらいだ。喉ごしの良い、つるっとした豆腐や、ほとんど豆乳のような豆腐、枝豆豆腐など多種にわたっていた。その中で豆腐の味の濃いものを買ってきた。
豆腐サラダでも良かったが、薬味のきいた冷奴のほうが、涼を求めるには丁度よいと思った。冷奴をつまみにビールで喉を潤そう。昼間からではあるが、仕事が一段落したのだ。これは、ささやかな自分へのご褒美だ。
そんな考えが蒼樹のお気に召すとは全く思わないが、当たりだったようだ。
彼女はあまり酒を飲まないから、余計かもしれない。
「ビール腹になんてならないでくださいね。メタボは嫌いです」
「……毒があんなあ……それ……」
「そうですか? 気のせいじゃないですか?」
怖いくらいのさわやかな笑顔で言われても、余計に毒があるように感じてしまう。誰のこと言っているのか、たぶん、己の想像している人物と、彼女の考えている人物は同一人物だ。
「あんた、結構根に持つタイプだよな」
「何のことだかさっぱり判りません」
蒼樹にこれだけの印象と影響を与えた人物は、知っている限り一人しかいない。
それは印象と影響力の深さでは福田にも同じことが言える人物だったわけで、救いようがないなと、見放している部分もあれば、まだ放っておけない、そんな気持ちがあることも確かだ。そうやって人を突き放せない己のお人好し加減に少々呆れる。
その点、師匠である新妻のわかりやすい態度には敬服を覚える。
新妻の判断基準はすべて漫画だ。
漫画を頑張っているか、頑張っていないか、全てはそれである。
自分のことを置き去りに話が進んでいることが判っているのか、足下からみゃあと催促するような鳴き声がして、福田も蒼樹も黒猫を見た。
相変わらず、段ボール箱の側面にがりがりと前脚をかけて、段ボール箱から出ようとしていた。
「こいつどうしよう……。」
「福田さんのマンションって、ペット可なんですか?」
「確か平気だったはずだけど」
「じゃあ、福田さんが拾って差し上げたらいいのでは?」
「えー……?」
「だって、この子を引き取ってくれる親切な人が現れる保証なんかないじゃないですか。福田さん、猫慣れてそうですし」
素っ頓狂な声を出した福田に、蒼樹は真面目な顔をして言った。真面目な顔をして冗談をいうような人物ではないことは、福田はよく知っていたので、少し引き攣った表情で蒼樹を見た。
蒼樹がこんな風に話すときは、もう何を言っても譲らない、そういう頑なな意思があるときだ。
「ここまで福田さんに懐いているんですから、このまま福田さんが拾ってあげなかったから可哀そうです」
「そんなにこの猫のことが気になるんだったら、蒼樹嬢が拾ってやったら?」
「うちはペット不可なので。それに、今言ったように、すごくこの子は福田さんに懐いているように見えました。福田さんも、それが判っているからこの場から離れられなかったのではないですか?」
蒼樹の実に的確な指摘に、福田は「うっ」と言葉を詰まらせた。いつから蒼樹が福田のことを見ていたのかわからなかったが、もしかすると、最初から見ていたのかもしれない。
そう思い至ると、途端に恥ずかしくなってくる。
猫に話しかけているところまで見られていたとなると、今までの福田のイメージを覆しているのではないだろうか。そう思うと恥ずかしい。
福田は黒猫と蒼樹を交互に見た。そしてもう一度、「うっ」と言葉を詰まらせてしまう。見なけりゃよかった、そんな風にさえ思ったが、もう見てしまったものは遅い。
福田は赤くなった顔を隠すように、口元を手で覆った。
視線が泳ぐのが自分自身でも判ったが、どうしようもなく泳いでしまう。
(動揺するな、俺!)
と、自己暗示をかけてもコントロール出来そうになかった。
「だめですか?」
そう聞く蒼樹のしゅんとした顔が、可愛いなんて、そんなの反則だ。
上目遣いでお願いという常套手段を、まさか蒼樹が使ってくるなんて思いもしなかった。あまつさえ首まで小さく傾げてこちらを見てくるなんて、狙っているとしか思えない。
彼女の場合、狙ってやっているわけがないので、これは無意識にやっていることなのだ。
「福田さん?」
「はあ、もう、勘弁しろって……」
惚れた弱みというやつなのか、これが。
福田は空を仰ぎ見た。まだ夏の空には程遠かったが、白い雲が浮かんだ青空だ。
じりじりと太陽が首や腕を焼いていく。みゃあみゃあと鳴き続ける黒猫と、上目遣いのおねだりを続ける蒼樹を見下ろした。
「お前、うちくる?」
福田を見上げた黒猫が、みゃあ、と鳴いた。これは返事だろうか。
確か、動物は人間の言葉や表情がわかるのだったか。そんな漫画があった。
ひょい、と黒猫を抱き上げて、ヘーゼルの瞳を覗き込む。瞳孔に自分の姿が映っていた。
福田は抱き上げた猫をもう一度段ボール箱の中に戻すと、アスファルトに直に置いたビニール袋も一緒に段ボール箱の中にいれた。
一気に狭くなった箱の中で、何事かと黒猫がばりばりと段ボール箱を引っかいた。
「福田さん?」
黒猫と同じように何事かと訝しげに蒼樹が福田の名前を呼んだ。段ボール箱を抱えると、案外重たかった。
「うち来るんだろ?」
「……行きますけど?」
「なら早く帰ろうぜ。結構重いんだよ、これ」
「え」
驚く蒼樹を置いて先に歩きはじめた。福田の背後で、蒼樹が「ちょっと待ってください」とヒールで駆けてくる音が迫る。
今日は我が家に黒猫がやってきた。
「少し焼きてえなあ……病人みたいだろ、これじゃ……」
たぶん、一日でも外で過ごせば健康的な肌色になるはずなのだ。
「ツーリング行きてえ」
結局ゴールデンウィークも溜まりに溜まった家事などをしている間にあっという間に過ぎ去ってしまって、結局どこにも遊びに行かなかった。
バイクに乗っていないわけではないが、計画を立てて遊びに行くということがしたい。
原稿の合間の息抜きのように当てもなくふらふらするのでも、見知った家の周りを走るのでもなく、遠出をしたいものだ。
ぶらぶらと歩道を歩いていると、みゃあ、と音がした。
「ん?」
福田は立ち止まった。空耳かと思った。するともう一度、みゃあと音がする。
どこだ。
音の出所を探して、福田は辺りをきょろきょろと見渡した。
歩道と車道の間にある植え込みの下に、段ボール箱が押し込まれていた。
まさかな。
そう思いながら、段ボール箱に近づくと、みゃあ、みゃあと福田を呼ぶように鳴く声がして、福田は恐る恐る段ボール箱の中を見た。
「どうしたの、お前」
福田の予想通り、段ボール箱の中にいたのは仔猫だった。産まれたばかりというわけではなかったが、福田の気配に気付いて仔猫はみゃあみゃあと何度も鳴き、福田を見つめた。
「どこの子? 捨てられたのか?」
猫の状態を見るに、ついさっき捨てられた状態のようだ。福田が出掛けるときには段ボール箱に気付かなかったのだから、たぶんそうだ。
ミカン箱よりも若干小さい段ボール箱の中に毛布とネコ缶が入っていた。
「ひでぇことする奴がいたもんだなあ……」
真っ黒な毛並みの黒猫だった。そっと手を伸ばすと、すぐに近寄ってくる。おでこを指でくりくりと撫でてやると、もっと撫でろと言わんばかりに頭を押し付けてくるので、福田はふっと笑みを零した。
「缶詰めとかそのままいれられてもな……、こいつじゃ開けられねえっつうのな? とりあえず開けてやっから。親切な人が現れるといいんだけどなあ」
段ボール箱にいっしょに入れられているネコ缶の蓋を、ばりっと剥がしながら言った。お腹は空いていないようで、黒猫は蓋の開いたネコ缶の中身を、表面だけぺろりと舐めただけで、みゃあ、とまた鳴いた。
「腹が減ったら、食べな」
そう言って黒猫をひと撫でして立ち上がると、きょとんとした目で見てくる黒猫に、じゃあね、と立ち去ろうした。
けれど、それを敏感に悟ったのか、黒猫がびゃあびゃあと鳴き出した。
行かないで、行かないで。
必死な黒猫の鳴き声に、福田はその場を立ち去れなくなってしまった。
突っ立ったまま、段ボール箱の側面にがりがりとつめを立てている黒猫の姿を見下ろした。黒猫の世界は、今、小さな箱の中だけで、その小さな箱が幸せをもたらす世界でないことを、黒猫は知っているのだろう。
捨てられてしまったことをわかっていて、手を差し伸べてくれる誰かをこうして待っているのだ。
「ああああ、もう、んな、鳴くなつの! ううう、どうすんだ、これ。どうする、俺! どうすればいいのよ、俺!」
「福田さん……? 何やっているんですか……」
福田は掛けられた声の主を振り返った。黒猫の悲壮な視線に項垂れた福田の姿を、まるで気味の悪いものでも見るかのような冷たい視線を送る女は、福田の数歩離れた位置で立ち止まっていた。
「んな目で俺を見るな!」
「明らかに怪しい人ですよ」
「判ってるけど! 判ってるけど、その目、まじでやめろっつーの」
しれっとして可愛げのないことをいう女との付き合いは、短いようで長く、浅いようで深いといった、福田にとっては複雑な女だった。たぶん、それは彼女のほうでも同じで、どうして気の会わない二人がこういう関係になったのか、当人たちが一番理解していないという奇妙な状況になっている。
こういう関係とはつまり、恋人同士であるということだ。
マキシ丈のワンピースにボレロを羽織った格好の蒼樹が、福田の隣に立った。片耳に髪の毛をかけていて、いつもと違う横顔に少しどきりとした。蒼樹は目の前にある段ボール箱を見て言った。
「猫?」
「そ。捨て猫っぽいんだよなー。」
「餌付けしたりするとなつかれちゃいますよ。」
「段ボールに入ってたやつを開けてやっただけだよ。」
福田は体を曲げて黒猫を撫でた。福田が顎の下に指を入れて擽ると、黒猫は気持ちよさそうに目を細める。
「随分なついていますね。あら?」
蒼樹が何かに気づいて声をあげる。指をさしたのは、福田が持っていたレジ袋だった。
「コンビニ……じゃないんですか?」
蒼樹はレジ袋のロゴが、コンビニのロゴではなかったことが気になったようだ。
「おう、スーパー行ってきた。」
「福田さんがスーパーマーケット……」
「なんだよ。行っちゃ悪いかよ。」
「いえ、イメージにないだけです。」
狐に摘まれたように、目を丸くした蒼樹の表情に、福田は盛大に顔をしかめた。確かに珍しいことかもしれないが、そこまで驚かなくていいだろうと思う。自炊しないわけではない。時間がないから、いつもコンビニで済ませてしまうだけだ。
不貞腐れたように唇を突き出した。
「俺のイメージってどういうものなわけ」
「コンビニでとんこつラーメンを買って食す、という感じでしょうか? しかも、カップ麺」
「……間違ってないけどさ。」
それは日ごろの福田の行いの全てで、否定すべき点など毛頭なく、福田は、はあと溜め息をついた。
「何を買ってきたんですか?」
蒼樹がレジ袋の口を指で引っかけて中を見ようとする。隠すつもりはないが、また小言を言われそうで福田は焦った。なんのつもりか知らないが、彼女の小言はまるで母親のようで、とにかく小うるさいのだ。
だからさりげなく袋を自分のほうへ引き寄せようとしたが、蒼樹は既に袋の中を覗き込んでいた。
「ネギに、ミョウガに、お豆腐……冷奴?」
「まあな」
「で、ビール」
「な、なんだよ、その目は! いいじゃねえか、別にビールくらい。」
「ビールがダメだとは言っていません」
蒼樹はそう言うが、明らかにビールのつまみだけ買いました、といったレジ袋の中身に、彼女は多いに不満を持っていることは、彼女の顔を見れば明らかだ。もっと身になるものを食べろと言いたいに違いない。
けれど、気温も上がって唐突に冷奴が食べたくなったのだから仕方がない。
夏の本番はまだまだ先だというのに、もう涼を求めてしまう。スーパーマーケットもそういった客のマーケティングを行っているのか、豆腐売り場には、豆腐サラダや冷奴に丁度よさそうな豆腐が並んでいて、福田はどれを買おうか迷ったくらいだ。喉ごしの良い、つるっとした豆腐や、ほとんど豆乳のような豆腐、枝豆豆腐など多種にわたっていた。その中で豆腐の味の濃いものを買ってきた。
豆腐サラダでも良かったが、薬味のきいた冷奴のほうが、涼を求めるには丁度よいと思った。冷奴をつまみにビールで喉を潤そう。昼間からではあるが、仕事が一段落したのだ。これは、ささやかな自分へのご褒美だ。
そんな考えが蒼樹のお気に召すとは全く思わないが、当たりだったようだ。
彼女はあまり酒を飲まないから、余計かもしれない。
「ビール腹になんてならないでくださいね。メタボは嫌いです」
「……毒があんなあ……それ……」
「そうですか? 気のせいじゃないですか?」
怖いくらいのさわやかな笑顔で言われても、余計に毒があるように感じてしまう。誰のこと言っているのか、たぶん、己の想像している人物と、彼女の考えている人物は同一人物だ。
「あんた、結構根に持つタイプだよな」
「何のことだかさっぱり判りません」
蒼樹にこれだけの印象と影響を与えた人物は、知っている限り一人しかいない。
それは印象と影響力の深さでは福田にも同じことが言える人物だったわけで、救いようがないなと、見放している部分もあれば、まだ放っておけない、そんな気持ちがあることも確かだ。そうやって人を突き放せない己のお人好し加減に少々呆れる。
その点、師匠である新妻のわかりやすい態度には敬服を覚える。
新妻の判断基準はすべて漫画だ。
漫画を頑張っているか、頑張っていないか、全てはそれである。
自分のことを置き去りに話が進んでいることが判っているのか、足下からみゃあと催促するような鳴き声がして、福田も蒼樹も黒猫を見た。
相変わらず、段ボール箱の側面にがりがりと前脚をかけて、段ボール箱から出ようとしていた。
「こいつどうしよう……。」
「福田さんのマンションって、ペット可なんですか?」
「確か平気だったはずだけど」
「じゃあ、福田さんが拾って差し上げたらいいのでは?」
「えー……?」
「だって、この子を引き取ってくれる親切な人が現れる保証なんかないじゃないですか。福田さん、猫慣れてそうですし」
素っ頓狂な声を出した福田に、蒼樹は真面目な顔をして言った。真面目な顔をして冗談をいうような人物ではないことは、福田はよく知っていたので、少し引き攣った表情で蒼樹を見た。
蒼樹がこんな風に話すときは、もう何を言っても譲らない、そういう頑なな意思があるときだ。
「ここまで福田さんに懐いているんですから、このまま福田さんが拾ってあげなかったから可哀そうです」
「そんなにこの猫のことが気になるんだったら、蒼樹嬢が拾ってやったら?」
「うちはペット不可なので。それに、今言ったように、すごくこの子は福田さんに懐いているように見えました。福田さんも、それが判っているからこの場から離れられなかったのではないですか?」
蒼樹の実に的確な指摘に、福田は「うっ」と言葉を詰まらせた。いつから蒼樹が福田のことを見ていたのかわからなかったが、もしかすると、最初から見ていたのかもしれない。
そう思い至ると、途端に恥ずかしくなってくる。
猫に話しかけているところまで見られていたとなると、今までの福田のイメージを覆しているのではないだろうか。そう思うと恥ずかしい。
福田は黒猫と蒼樹を交互に見た。そしてもう一度、「うっ」と言葉を詰まらせてしまう。見なけりゃよかった、そんな風にさえ思ったが、もう見てしまったものは遅い。
福田は赤くなった顔を隠すように、口元を手で覆った。
視線が泳ぐのが自分自身でも判ったが、どうしようもなく泳いでしまう。
(動揺するな、俺!)
と、自己暗示をかけてもコントロール出来そうになかった。
「だめですか?」
そう聞く蒼樹のしゅんとした顔が、可愛いなんて、そんなの反則だ。
上目遣いでお願いという常套手段を、まさか蒼樹が使ってくるなんて思いもしなかった。あまつさえ首まで小さく傾げてこちらを見てくるなんて、狙っているとしか思えない。
彼女の場合、狙ってやっているわけがないので、これは無意識にやっていることなのだ。
「福田さん?」
「はあ、もう、勘弁しろって……」
惚れた弱みというやつなのか、これが。
福田は空を仰ぎ見た。まだ夏の空には程遠かったが、白い雲が浮かんだ青空だ。
じりじりと太陽が首や腕を焼いていく。みゃあみゃあと鳴き続ける黒猫と、上目遣いのおねだりを続ける蒼樹を見下ろした。
「お前、うちくる?」
福田を見上げた黒猫が、みゃあ、と鳴いた。これは返事だろうか。
確か、動物は人間の言葉や表情がわかるのだったか。そんな漫画があった。
ひょい、と黒猫を抱き上げて、ヘーゼルの瞳を覗き込む。瞳孔に自分の姿が映っていた。
福田は抱き上げた猫をもう一度段ボール箱の中に戻すと、アスファルトに直に置いたビニール袋も一緒に段ボール箱の中にいれた。
一気に狭くなった箱の中で、何事かと黒猫がばりばりと段ボール箱を引っかいた。
「福田さん?」
黒猫と同じように何事かと訝しげに蒼樹が福田の名前を呼んだ。段ボール箱を抱えると、案外重たかった。
「うち来るんだろ?」
「……行きますけど?」
「なら早く帰ろうぜ。結構重いんだよ、これ」
「え」
驚く蒼樹を置いて先に歩きはじめた。福田の背後で、蒼樹が「ちょっと待ってください」とヒールで駆けてくる音が迫る。
今日は我が家に黒猫がやってきた。
お願い!お星さま
場内に流れる女性のアナウンス。フォーム系オレンジの色の明かりが灯され、明るくなった場内で福田は眉間に皺を寄せていた。ききすぎるほどの冷房に冷えた腕をさすり、ぽつりと呟いた。
「かゆい……」
「虫にでも刺されましたか?」
隣から見当はずれな返答が返ってきて、福田は即座に「違う」と言い返した。
「そーいうわけじゃねえよ」
隣に座った女はきょとんとした顔で、首を傾げた。
ピントはずれな返答に、福田は少しだけ呆れをもって彼女を見た。自分が言いたいことはそういうことじゃない。かゆいと言っても、虫に刺されたわけでも、外的要因でかゆいと言っているわけではない。
単なる比喩だ。
何か受け付けないときの、肌を掻きたくなるような衝動を言ったのだ。
けれど彼女には通じなかった。東応大卒の才女でも、福田の心境は計れないようだ。
聞きたがりで知りたがりの彼女は、どういう意味だ、と聞きたそうな素振りを見せていたが、福田は無視して立ち上がった。
「やっぱりよかったですね。織り姫と彦星の話。子供の頃から聞き飽きたというぐらい、知っている話ですけど、王道ですよね。ちょっと悲しくて……うん、やっぱり、参考になります」
「へーそりゃよかったな」
劇場から出ると、ロビーには次の上映時間待ちの親子連れが目立っていた。福田と蒼樹のようにカップルで来ている者は、そそくさと劇場を出て、どこかレストランにでも行ったろうか。時刻はちょうど昼前で、福田も程良く空腹を感じていたところだった。
今日はどこに食べに行こうか。この近くに何の店があったかな、と考えを巡らせていると、少し後ろを歩いていた蒼樹が隣に移動して、下から福田を見上げていた。大きな身長差がない故に、上目遣い程度の視線になる。
「福田さんは何か参考になりましたか?」
上目遣いの蒼樹は、きっと自覚がないだろうが、福田はこの表情の蒼樹に滅法弱かった。ああ、なんでそういう無防備な顔をして近づくのだろうと、福田は顔が赤くなっているように感じて、照れ隠しに、ぐにっと蒼樹の柔らかな両頬を摘んだ。
「なにずるんでずがぁ」
柔らかな頬は伸びがよくて、広がった顔に福田は吹き出した。
「俺の作品にメルヘンはいらねえってことがはっきりした」
笑いながらそう言って、頬を摘んでいた手を離すと、蒼樹がぶすくれて、福田を睨みあげた。
ああ、だからその目をやめてくれ、とは言えなくて、綺麗に整えられた柔らかな茶色の髪の毛に手を伸ばすと、ぐしゃっとかき混ぜて、その視線を隠す。
「福田さん!」
蒼樹は案の定抗議の声を上げて、再度「何をするんですか」とぼやきながら、鞄の中から鏡を取り出して乱された髪の毛を手櫛で整えていた。
映画館と似たような作りになっているロビーをぐるりと見渡すと、今月上映内容のパンフレットが、取って付けたような笑みを張り付かせた受付嬢が座っているチケットカウンターに置かれていた。
パンフレットには、計三回の上映時間と内容が記載されており、午前、午後の上映は子供向けの内容であることがわかる。そうか、夕方からの夜の上映に来ればよかったか、と福田は後悔した。
今日のデートは、前から蒼樹が行きたいと言っていたプラネタリウム鑑賞だ。前半は夏に見える星について、それにまつわる科学的な話から逸話までを、耳に心地よい女性アナウンスで説明されるものだから、ふわりふわりと気持ちよくなってしまう。場内は暗いため余計に眠気が福田を襲ってきた。なんとか眠気をやり過ごした後半は、七夕にちなんだアニメーション映画の上映だった。天井いっぱいに広がるスクリーンに映し出された映像は、映画館のスクリーンとは違った趣があった。けれど、結局福田はこのアニメで、腕をさするという行為をしてしまったのだ。
七夕伝説を題材にしたアニメに、蒼樹はいたく感動し、恍惚の表情を浮かべ、あまつさえ涙を流していたなんて、腕というよりも、心臓のような身体の芯の部分がかゆくなる。
蒼樹と福田の感性が真逆であることはわかりきっていたことだけれど、このメルヘンでファンタジックな世界に、どこに涙する理由があるのか、福田はさっぱりわからない。
「夢のない人ですね」
「うるせー、結局怠けて別れさせられた話だろうが。自業自得っていうか、結局どういうことなんだよ?意味がわからん。」
「怠惰や傲慢、欲、確かにそれぞれの思惑や業で起きてしまった悲劇ですけれど、ちゃんと、オチがあるじゃないですか。それぞれに、愛があるんです。一年に一回だけ、会うことが許される。ロマンチックじゃないですか」
「現実社会だったら、完全に社会から見放されてるよな」
「もう!だから、そうやって考えちゃうからロマンチックじゃなくなるんです」
二人で言い合いしながら、自動ドアを抜け外にでると、湿度の高い、もあ、とした空気が二人を包む。
「あーっついなあ……」
「ですね」
あまりの暑さに閉口する。エントランスの屋根の影から足を踏み出したくない。踏み出したら、さんさんと輝く太陽の日差しが、年中室内に篭りっきりという、実にモグラのような生活をしている二人に襲い掛かってくるのだ。
繋いだ手が汗ばんでくるのがわかる。
「あおきじょー」
間延びした声で呼ぶと、「何ですかー」と、蒼樹も同じように返事をした。いつでも、きっちりとした印象のある彼女がこんな声を出すなんて、珍しいことがあるものだ。それだけ、彼女もこの暑さに参っているのだろう。
「どっか涼しいとこ、入ろうぜ」
「どこにしますか?」
「んー……」
当たりを見回すが、あるのはファストフード店ばかりだ。迷っていると、蒼樹が空いているほうの手で、一番手近な店をさして、
「あそこにしましょう」
と言った。
「いいの?」
「別におしゃれなお店だけに行きたいわけじゃありません。そういうイメージがあるのかもしれませんが、ファストフードでも、ラーメン屋でも、私は一向に構わないんですよ?」
「そうなの?」
「福田さんが行きたいところに、連れていってくれればいいのに」
「あ、そ。」
彼女が妙に素直に感じるのは、暑さのせいだろうか。福田は顔面に急速に熱がたまっていくのを感じながら、これは暑さのせいだと念じながら、歩きだした。
「そういえば」
何とか話題を変えたくなって、わざとらしく声をあげた。
「星の演出くらい入れてもいいかもしれないな。俺の漫画にさ」
「GIRIにですか?どういう風に?」
「たとえば、大会前夜とか、もしくは合同合宿とか企画してもいいかもしれない、ライバルとたまたま出くわすとかして、満点の星空の下で正々堂々と勝負することを誓うとか、健闘を称えあうとか。……いろいろ想像できるな」
「それこそ、王道ですよ。王道マンガの王道」
「ベタかな?」
「いいと思いますよ。私はそういうのすごく好きです」
感性が真逆の蒼樹と福田が、漫画の演出について話が合うことなんかほとんどない。臆面もなく福田の語る話に蒼樹が「好きだ」と同意を示してくれるところが新鮮で、福田は、今日は調子が崩れるなと思った。
喧嘩や言い争いがしたいわけではない。それでも二人で激論を交わすことが当たり前になってしまって、こんな風に素直認められるなんて、なんだか調子が狂う。
けれど、こういうのもたまにはあっていいかもしれない。端から蒼樹とは作風もなにもかも違うのだと、割り切っているものの、どこを向こうが合わなかったはずの点と点が一瞬だけでも交差してつながるということは、あながち進むべき方向は一緒なのかもしれない。
「あ」
大通りの横断歩道を渡りきった目の前のファストフード店。蒼樹が声を上げた理由を、福田は店の入り口に飾ってあるものをみて、ああ、と納得した。
「短冊か……書いてこうぜ!」
「え!?」
「願い事。いっぱいあんだろ?」
客引きをしている店員から短冊を受け取り、蒼樹に差し出した。
「妙に子供っぽいところありますよね、福田さんて」
「いいじゃねーか、好きだろ? こういうの」
押し付けるように差し出した短冊を、渋々と言った様子で受け取ろうとしている蒼樹だったが、内心のうれしさを隠しきれていない。目元も口元も笑っていた。
店の入り口脇に立てられた笹には、すでに色とりどりの画用紙の短冊が飾られている。
短冊を書くために用意されている机で、すでになにやら書いている蒼樹の手元を覗こうとした。
「見ないでください!」
「何で?」
「恥ずかしいじゃないですか!」
「恥ずかしいこと書いてんだ?」
「違います!」
赤くなった顔を俯かせて、蒼樹が何とか見えないように短冊を書く姿に、福田はにやりと笑いながら、自分の分も書くためにペンのキャップをはずした。
結局お互いに短冊を見せないまま書き終わり、店内に入って一息ついたころ、蒼樹が言った。
「福田さんは何を書いたんですか?」
付け足したように、「漫画のことでしょうけど」、と言った蒼樹の言葉に、明後日の方向を見ながら、「秘密。」とだけ言った。
「何でですか、さっきは私の短冊見ようとしたくせに」
「恥ずかしいことだから秘密」
「え」
壁に貼られた販促用のポスターを見ている振りをしながら、なるべく淡々と言った。別に聞いていなくてもいい、むしろ聞き流してくれてればいい。何を言っているんですかとか、下品なことを書かないでくださいとか、蒼樹のお得意の明後日な想像をしてくれたらいい。自分勝手な考えを巡らせながら、ずっとポスターばかり見ているわけにもいかず、ちらり、と蒼樹を見た。
ぽかんと口を開けて、絶句している蒼樹を見て、やばいと瞬間的に思った。
ああ、これは、通じてしまったかもしれない
「あの、それってつまり……」
「何だよ」
「私とのこと書いてくれました?」
「……違う」
盛大な間を開けて否定をした福田を、蒼樹はまじまじと眺め、そしてくすりと笑った。
「だーもーそういう顔すんな!にやにやすんな!くそっ、バレバレか!いやもう、まじで、そういう顔すんな、まじで照れる。」
「何を書いたんですか。教えてくださいよ」
「言わねえ。絶対。死んでも言うか!そういう蒼樹嬢は何書いたんだよ」
「私も恥ずかしいことなので、言いません」
目が合うと、どちらかともなく視線を外した。ああだめだ、照れてしまってエアコンの利いた店内でも暑くて仕方がない。
「かゆい……」
「虫にでも刺されましたか?」
隣から見当はずれな返答が返ってきて、福田は即座に「違う」と言い返した。
「そーいうわけじゃねえよ」
隣に座った女はきょとんとした顔で、首を傾げた。
ピントはずれな返答に、福田は少しだけ呆れをもって彼女を見た。自分が言いたいことはそういうことじゃない。かゆいと言っても、虫に刺されたわけでも、外的要因でかゆいと言っているわけではない。
単なる比喩だ。
何か受け付けないときの、肌を掻きたくなるような衝動を言ったのだ。
けれど彼女には通じなかった。東応大卒の才女でも、福田の心境は計れないようだ。
聞きたがりで知りたがりの彼女は、どういう意味だ、と聞きたそうな素振りを見せていたが、福田は無視して立ち上がった。
「やっぱりよかったですね。織り姫と彦星の話。子供の頃から聞き飽きたというぐらい、知っている話ですけど、王道ですよね。ちょっと悲しくて……うん、やっぱり、参考になります」
「へーそりゃよかったな」
劇場から出ると、ロビーには次の上映時間待ちの親子連れが目立っていた。福田と蒼樹のようにカップルで来ている者は、そそくさと劇場を出て、どこかレストランにでも行ったろうか。時刻はちょうど昼前で、福田も程良く空腹を感じていたところだった。
今日はどこに食べに行こうか。この近くに何の店があったかな、と考えを巡らせていると、少し後ろを歩いていた蒼樹が隣に移動して、下から福田を見上げていた。大きな身長差がない故に、上目遣い程度の視線になる。
「福田さんは何か参考になりましたか?」
上目遣いの蒼樹は、きっと自覚がないだろうが、福田はこの表情の蒼樹に滅法弱かった。ああ、なんでそういう無防備な顔をして近づくのだろうと、福田は顔が赤くなっているように感じて、照れ隠しに、ぐにっと蒼樹の柔らかな両頬を摘んだ。
「なにずるんでずがぁ」
柔らかな頬は伸びがよくて、広がった顔に福田は吹き出した。
「俺の作品にメルヘンはいらねえってことがはっきりした」
笑いながらそう言って、頬を摘んでいた手を離すと、蒼樹がぶすくれて、福田を睨みあげた。
ああ、だからその目をやめてくれ、とは言えなくて、綺麗に整えられた柔らかな茶色の髪の毛に手を伸ばすと、ぐしゃっとかき混ぜて、その視線を隠す。
「福田さん!」
蒼樹は案の定抗議の声を上げて、再度「何をするんですか」とぼやきながら、鞄の中から鏡を取り出して乱された髪の毛を手櫛で整えていた。
映画館と似たような作りになっているロビーをぐるりと見渡すと、今月上映内容のパンフレットが、取って付けたような笑みを張り付かせた受付嬢が座っているチケットカウンターに置かれていた。
パンフレットには、計三回の上映時間と内容が記載されており、午前、午後の上映は子供向けの内容であることがわかる。そうか、夕方からの夜の上映に来ればよかったか、と福田は後悔した。
今日のデートは、前から蒼樹が行きたいと言っていたプラネタリウム鑑賞だ。前半は夏に見える星について、それにまつわる科学的な話から逸話までを、耳に心地よい女性アナウンスで説明されるものだから、ふわりふわりと気持ちよくなってしまう。場内は暗いため余計に眠気が福田を襲ってきた。なんとか眠気をやり過ごした後半は、七夕にちなんだアニメーション映画の上映だった。天井いっぱいに広がるスクリーンに映し出された映像は、映画館のスクリーンとは違った趣があった。けれど、結局福田はこのアニメで、腕をさするという行為をしてしまったのだ。
七夕伝説を題材にしたアニメに、蒼樹はいたく感動し、恍惚の表情を浮かべ、あまつさえ涙を流していたなんて、腕というよりも、心臓のような身体の芯の部分がかゆくなる。
蒼樹と福田の感性が真逆であることはわかりきっていたことだけれど、このメルヘンでファンタジックな世界に、どこに涙する理由があるのか、福田はさっぱりわからない。
「夢のない人ですね」
「うるせー、結局怠けて別れさせられた話だろうが。自業自得っていうか、結局どういうことなんだよ?意味がわからん。」
「怠惰や傲慢、欲、確かにそれぞれの思惑や業で起きてしまった悲劇ですけれど、ちゃんと、オチがあるじゃないですか。それぞれに、愛があるんです。一年に一回だけ、会うことが許される。ロマンチックじゃないですか」
「現実社会だったら、完全に社会から見放されてるよな」
「もう!だから、そうやって考えちゃうからロマンチックじゃなくなるんです」
二人で言い合いしながら、自動ドアを抜け外にでると、湿度の高い、もあ、とした空気が二人を包む。
「あーっついなあ……」
「ですね」
あまりの暑さに閉口する。エントランスの屋根の影から足を踏み出したくない。踏み出したら、さんさんと輝く太陽の日差しが、年中室内に篭りっきりという、実にモグラのような生活をしている二人に襲い掛かってくるのだ。
繋いだ手が汗ばんでくるのがわかる。
「あおきじょー」
間延びした声で呼ぶと、「何ですかー」と、蒼樹も同じように返事をした。いつでも、きっちりとした印象のある彼女がこんな声を出すなんて、珍しいことがあるものだ。それだけ、彼女もこの暑さに参っているのだろう。
「どっか涼しいとこ、入ろうぜ」
「どこにしますか?」
「んー……」
当たりを見回すが、あるのはファストフード店ばかりだ。迷っていると、蒼樹が空いているほうの手で、一番手近な店をさして、
「あそこにしましょう」
と言った。
「いいの?」
「別におしゃれなお店だけに行きたいわけじゃありません。そういうイメージがあるのかもしれませんが、ファストフードでも、ラーメン屋でも、私は一向に構わないんですよ?」
「そうなの?」
「福田さんが行きたいところに、連れていってくれればいいのに」
「あ、そ。」
彼女が妙に素直に感じるのは、暑さのせいだろうか。福田は顔面に急速に熱がたまっていくのを感じながら、これは暑さのせいだと念じながら、歩きだした。
「そういえば」
何とか話題を変えたくなって、わざとらしく声をあげた。
「星の演出くらい入れてもいいかもしれないな。俺の漫画にさ」
「GIRIにですか?どういう風に?」
「たとえば、大会前夜とか、もしくは合同合宿とか企画してもいいかもしれない、ライバルとたまたま出くわすとかして、満点の星空の下で正々堂々と勝負することを誓うとか、健闘を称えあうとか。……いろいろ想像できるな」
「それこそ、王道ですよ。王道マンガの王道」
「ベタかな?」
「いいと思いますよ。私はそういうのすごく好きです」
感性が真逆の蒼樹と福田が、漫画の演出について話が合うことなんかほとんどない。臆面もなく福田の語る話に蒼樹が「好きだ」と同意を示してくれるところが新鮮で、福田は、今日は調子が崩れるなと思った。
喧嘩や言い争いがしたいわけではない。それでも二人で激論を交わすことが当たり前になってしまって、こんな風に素直認められるなんて、なんだか調子が狂う。
けれど、こういうのもたまにはあっていいかもしれない。端から蒼樹とは作風もなにもかも違うのだと、割り切っているものの、どこを向こうが合わなかったはずの点と点が一瞬だけでも交差してつながるということは、あながち進むべき方向は一緒なのかもしれない。
「あ」
大通りの横断歩道を渡りきった目の前のファストフード店。蒼樹が声を上げた理由を、福田は店の入り口に飾ってあるものをみて、ああ、と納得した。
「短冊か……書いてこうぜ!」
「え!?」
「願い事。いっぱいあんだろ?」
客引きをしている店員から短冊を受け取り、蒼樹に差し出した。
「妙に子供っぽいところありますよね、福田さんて」
「いいじゃねーか、好きだろ? こういうの」
押し付けるように差し出した短冊を、渋々と言った様子で受け取ろうとしている蒼樹だったが、内心のうれしさを隠しきれていない。目元も口元も笑っていた。
店の入り口脇に立てられた笹には、すでに色とりどりの画用紙の短冊が飾られている。
短冊を書くために用意されている机で、すでになにやら書いている蒼樹の手元を覗こうとした。
「見ないでください!」
「何で?」
「恥ずかしいじゃないですか!」
「恥ずかしいこと書いてんだ?」
「違います!」
赤くなった顔を俯かせて、蒼樹が何とか見えないように短冊を書く姿に、福田はにやりと笑いながら、自分の分も書くためにペンのキャップをはずした。
結局お互いに短冊を見せないまま書き終わり、店内に入って一息ついたころ、蒼樹が言った。
「福田さんは何を書いたんですか?」
付け足したように、「漫画のことでしょうけど」、と言った蒼樹の言葉に、明後日の方向を見ながら、「秘密。」とだけ言った。
「何でですか、さっきは私の短冊見ようとしたくせに」
「恥ずかしいことだから秘密」
「え」
壁に貼られた販促用のポスターを見ている振りをしながら、なるべく淡々と言った。別に聞いていなくてもいい、むしろ聞き流してくれてればいい。何を言っているんですかとか、下品なことを書かないでくださいとか、蒼樹のお得意の明後日な想像をしてくれたらいい。自分勝手な考えを巡らせながら、ずっとポスターばかり見ているわけにもいかず、ちらり、と蒼樹を見た。
ぽかんと口を開けて、絶句している蒼樹を見て、やばいと瞬間的に思った。
ああ、これは、通じてしまったかもしれない
「あの、それってつまり……」
「何だよ」
「私とのこと書いてくれました?」
「……違う」
盛大な間を開けて否定をした福田を、蒼樹はまじまじと眺め、そしてくすりと笑った。
「だーもーそういう顔すんな!にやにやすんな!くそっ、バレバレか!いやもう、まじで、そういう顔すんな、まじで照れる。」
「何を書いたんですか。教えてくださいよ」
「言わねえ。絶対。死んでも言うか!そういう蒼樹嬢は何書いたんだよ」
「私も恥ずかしいことなので、言いません」
目が合うと、どちらかともなく視線を外した。ああだめだ、照れてしまってエアコンの利いた店内でも暑くて仕方がない。
あとほんの少しの一歩
それはデートの帰り道だったり、たまたま編集部で出くわしたときに送ってもらったり、稀に突然召集される福田組の集まりの帰りだったり。決まってそれは、帰り道で、彼に自宅まで送ってもらったとき、というシチュエーションでそれは起こる。
蒼樹はそれを意識し始めると、まともに福田の顔を見れなくなってしまうという状況に陥ってしまう。それを、福田が気付いているかどうか。気付いていたとしても、理由については思い至っていないようだ。
彼は案外鈍いのだ。
お節介が好きな性格が災いしているのか、自分のこととなると、超がつくほどに鈍感で後回しにする。
「蒼樹嬢?ついたけど?」
「え!あ!はい!」
ドッドッドッと腹に響く低いエンジンの振動音が、いつのまにかなくなっていた。
福田と会うときは必ず福田が家まで送ってくれる。電車にしろ、バイクにしろ、福田は律儀に蒼樹を家まで送ってくれていた。それが役目だというように、彼はそのことに対して不平不満を言ったことはない。
異性と付き合うということが皆無だった蒼樹にとって、それが恋人として普通のことなのか、そうではないのか判断することができない。気づいたことは、福田という男が案外まめな男だったということだ。
「おい大丈夫か?」
「へ、平気です」
一向にバイクから降りない蒼樹を不審に思った福田が、体を捻って蒼樹を見た。蒼樹はあわててバイクを降りた。ヘルメットを脱ぐと、夜風が髪をさらう。福田が手を差し出していて、ヘルメットを寄こせと態度で示しているのが何も言わなくてもわかった。
福田はヘルメットを抱えたまま、らしからぬ言動をする蒼樹に首をかしげた。
「本当に大丈夫か?」
疲れて反応が鈍いとでも思われているのか、身体の心配をするように聞いてくるので、蒼樹はそうではないのだと慌ててその手にヘルメットを押し付けた。
「あ、あの、ありがとうございました」
「おう」
バイクからも降りた。ヘルメットも返した。そうなると蒼樹はもう「今日はありがとうございました。楽しかったです。また電話しますね。さようなら。」そう言って、部屋に帰るしかないのだ。
けれどそれがなかなかできずにいる理由を、鈍くてまめな男は気付いていないのだろう。
ここ最近蒼樹を悩ませていることについて福田が思い至らないとなると、蒼樹だけがそう思っているのかと思って、益々言えなくなってしまう。
せめて雰囲気でもあればいいのに。そうすれば、どちらかともなく、口に出すことができるというのに、相手にその気がないのに口に出す勇気は、残念ながら蒼樹にはなかった。
「……何?」
「えっと、いえ……」
言い及んでいると、案の定言われてしまう。
「危ねえから早く部屋入れ。最近変なの多いんだから、蒼樹嬢はとろいんだから気をつけろよ。」
「とろいって何ですか。そんなことありません。」
「よく言うよ」
軽口を叩いて笑う福田の顔をこっそり見た。心配してくれるのはうれしい。口は悪いけれど大切に思われているのだと実感することができるのだから。恋することに憧れのつよい蒼樹には、そういった些細な優しさや気遣いに、よりその人を好きになるようなそんな気持ちが強い。
恋に恋する乙女。
恋することが楽しくて仕方がない。恋することは甘くて柔らかな綿菓子のように、ふわふわに包まれている。
そんな風に、乙女趣味全開で想像していたのだけれど。
一番の変化に驚いているのは蒼樹自身なのだ。
自分自身がそんな風に思うなんて、思いもしなかった。
コウノトリが赤ちゃんを運んでくる、なんて夢にも思わないが、それに近しい現実味のない恋愛イメージしかなかった。
よくもそんな乏しい恋愛経験で、恋愛コメディが描けたものだと言われそうだが、そこは周囲の協力と担当編集との二人三脚の賜物だった。もしくは、理想と妄想の賜物かもしれない。
いつまでも動かない蒼樹に痺れを切らした福田が言った。
「早く家に入ってくれないと、俺が帰れないんだけど」
「あ、あの」
バイクを降りてからまともに福田の顔を見れない。バイクに乗っているときから、まともに福田に向き合えない。
思い詰め過ぎて、緊張しすぎて、手汗をかいているような気がする。今手を繋いだら、確実に気持ち悪いだろう。
どうしよう、どうしたらいい。
なんでとか、どうしてとか、期待を持ってしまった恋する気持ちに、どうしたらブレーキをかけることができるのだろうとか、蒼樹はぐるぐる考えてしまって一向に言葉を紡ぐことが出来ない。
口に出すことが恥ずかしいことを期待してしまっていることが恥ずかしい。
もし、これを言ったら、相手は引いてしまわないだろうか、そう考えるとやはり口にすることができない。
潔く、「ありがとうございました」と礼を言って、部屋に帰って落ち込むしかないか。
半ば諦めて口を開きかけたときだった。
「何?別れ難い?」
福田の言葉に、蒼樹は開いた口がふさがらず、思わず福田を直視してしまった。
ニシシと笑って言う福田は、きっと冗談で言ったのだ。「そんなわけありません!」という、蒼樹の抗議の声を聞くことを彼は予想している。
そんなわけがあるか。図星をつかれて、そんなわけがあるはずがない。
時刻はとっくに夜だけれど、周囲が暗くよかった、なんて安心できるほど暗くなんてない。マンションのエントランスの目の前に横付けされたこの場所は、エントランスの植え込みにあるムードのあるライトだけでなく、運の良いことに街灯が設置されていた。
だから、真っ赤な顔した蒼樹の顔を福田が拝むことになるのは、それから一息もつかない短時間だったはずなのだ。
「え、ちょっと、」
真っ赤な顔を隠すように、もう一度俯いて服の裾を握る蒼樹の姿に福田が慌てているのがわかる。
「まじで……?」
なんだかそれが、ショックだ。やはり、自分だけ舞い上がっているのだろうか。
初めてつき合って、初めての恋人で、どうしたらいいのかわからないのは、自分だけなのだろう。
「福田さんは違うんですか」
「そういうわけじゃないけどさ……」
口調が恨み節になってしまうのは、冗談半分で指摘してきたことと、いつまでたっても蒼樹の気持ちをくみ取って、アクションを起こしてくれなかったことだ。
本当は、別れ難いとも少し違う。デートが終わってしまうことの名残惜しさではない。できれば、できることなら、
「か、帰らないで欲しい、と、言ったら、福田さんは、どうしますか」
「え、」
もう一歩踏み込みたい、だなんて。
蒼樹は今にも火が噴きそうなほど顔を真っ赤にしていた。体温が上昇するのを止められない。恥ずかしいにもほどがあるが、心の中にずっとあったのだ。
福田が自宅に送ってくれるたび、「お茶をしていきませんか?」なんて、あからさまな引き止めを脳内でシュミレーションしてしまうのを、止められなかったなんて、福田が知るはずがない。
言ってもいないが、少しぐらい蒼樹のそんな気持ちにも気付いてくれてもいいだろうに。
蒼樹はなかなかアクションに移せなかった自らを棚に上げて、福田を恨んだ。ふつふつと湧いてくる恨めしさに思わずぶつぶつと独り言を言いそうになっていた。
「いいの?」
「へ?」
「だから、いいのかって聞いてんの!」
「あっと、え?あの?何が……」
「何がじゃねえよ!帰らないでくれっていったの、蒼樹嬢だろうが!」
お茶でも飲んでいきませんか、そうやって遠回しに引き止めようとシュミレーションしていたのに、シュミレーションなんて恋愛の前ではほとんど役に立ちそうにない。
「言わないでください!恥ずかしいです!」
「先に言い出したの、あんただろ!」
「福田さんは気付いてくれもしないじゃないですか!」
「相手がいいっていうまで、手なんか出すか!」
「やらしいですよ!」
「やらしいこと考えてんのはお互いさまじゃねえか!」
「やらしいことなんか考えてません!」
「あっそ。じゃあ帰る」
「ちょっと待ったぁ!」
売り言葉に買い言葉のいつもの痴話喧嘩。マンション前で、すでに床につこうとしている人もいるかもしれない時間帯に、痴話喧嘩をするなんて迷惑極まりなかったが、当人たちはそんなことを考える余裕がない。
「うう、酷いです」
「酷いのはどっちだよ。俺だっていろいろ考えてんだよ」
「いろいろってなんですか」
「言わねえよ、恥ずかしい」
そうしてようやく蒼樹は気付く。掌で口元を覆い隠した福田の顔もうっすらと赤くなっていることに。
相手が照れていると、伝染するのは何故だろう。痴話喧嘩の勢いをすっかりなくして、蒼樹も顔を赤くして、「う」だの、「あの」だの、意味のない言葉ばかりが口をつく。
福田がわざとらしく咳払いをした。
「とりあえず、バイクどこに置こう」
「え、っと、そうですね、公園ところでいいんじゃないですか……?」
どうやら今日は、特別な日になりそうだ。
蒼樹はそれを意識し始めると、まともに福田の顔を見れなくなってしまうという状況に陥ってしまう。それを、福田が気付いているかどうか。気付いていたとしても、理由については思い至っていないようだ。
彼は案外鈍いのだ。
お節介が好きな性格が災いしているのか、自分のこととなると、超がつくほどに鈍感で後回しにする。
「蒼樹嬢?ついたけど?」
「え!あ!はい!」
ドッドッドッと腹に響く低いエンジンの振動音が、いつのまにかなくなっていた。
福田と会うときは必ず福田が家まで送ってくれる。電車にしろ、バイクにしろ、福田は律儀に蒼樹を家まで送ってくれていた。それが役目だというように、彼はそのことに対して不平不満を言ったことはない。
異性と付き合うということが皆無だった蒼樹にとって、それが恋人として普通のことなのか、そうではないのか判断することができない。気づいたことは、福田という男が案外まめな男だったということだ。
「おい大丈夫か?」
「へ、平気です」
一向にバイクから降りない蒼樹を不審に思った福田が、体を捻って蒼樹を見た。蒼樹はあわててバイクを降りた。ヘルメットを脱ぐと、夜風が髪をさらう。福田が手を差し出していて、ヘルメットを寄こせと態度で示しているのが何も言わなくてもわかった。
福田はヘルメットを抱えたまま、らしからぬ言動をする蒼樹に首をかしげた。
「本当に大丈夫か?」
疲れて反応が鈍いとでも思われているのか、身体の心配をするように聞いてくるので、蒼樹はそうではないのだと慌ててその手にヘルメットを押し付けた。
「あ、あの、ありがとうございました」
「おう」
バイクからも降りた。ヘルメットも返した。そうなると蒼樹はもう「今日はありがとうございました。楽しかったです。また電話しますね。さようなら。」そう言って、部屋に帰るしかないのだ。
けれどそれがなかなかできずにいる理由を、鈍くてまめな男は気付いていないのだろう。
ここ最近蒼樹を悩ませていることについて福田が思い至らないとなると、蒼樹だけがそう思っているのかと思って、益々言えなくなってしまう。
せめて雰囲気でもあればいいのに。そうすれば、どちらかともなく、口に出すことができるというのに、相手にその気がないのに口に出す勇気は、残念ながら蒼樹にはなかった。
「……何?」
「えっと、いえ……」
言い及んでいると、案の定言われてしまう。
「危ねえから早く部屋入れ。最近変なの多いんだから、蒼樹嬢はとろいんだから気をつけろよ。」
「とろいって何ですか。そんなことありません。」
「よく言うよ」
軽口を叩いて笑う福田の顔をこっそり見た。心配してくれるのはうれしい。口は悪いけれど大切に思われているのだと実感することができるのだから。恋することに憧れのつよい蒼樹には、そういった些細な優しさや気遣いに、よりその人を好きになるようなそんな気持ちが強い。
恋に恋する乙女。
恋することが楽しくて仕方がない。恋することは甘くて柔らかな綿菓子のように、ふわふわに包まれている。
そんな風に、乙女趣味全開で想像していたのだけれど。
一番の変化に驚いているのは蒼樹自身なのだ。
自分自身がそんな風に思うなんて、思いもしなかった。
コウノトリが赤ちゃんを運んでくる、なんて夢にも思わないが、それに近しい現実味のない恋愛イメージしかなかった。
よくもそんな乏しい恋愛経験で、恋愛コメディが描けたものだと言われそうだが、そこは周囲の協力と担当編集との二人三脚の賜物だった。もしくは、理想と妄想の賜物かもしれない。
いつまでも動かない蒼樹に痺れを切らした福田が言った。
「早く家に入ってくれないと、俺が帰れないんだけど」
「あ、あの」
バイクを降りてからまともに福田の顔を見れない。バイクに乗っているときから、まともに福田に向き合えない。
思い詰め過ぎて、緊張しすぎて、手汗をかいているような気がする。今手を繋いだら、確実に気持ち悪いだろう。
どうしよう、どうしたらいい。
なんでとか、どうしてとか、期待を持ってしまった恋する気持ちに、どうしたらブレーキをかけることができるのだろうとか、蒼樹はぐるぐる考えてしまって一向に言葉を紡ぐことが出来ない。
口に出すことが恥ずかしいことを期待してしまっていることが恥ずかしい。
もし、これを言ったら、相手は引いてしまわないだろうか、そう考えるとやはり口にすることができない。
潔く、「ありがとうございました」と礼を言って、部屋に帰って落ち込むしかないか。
半ば諦めて口を開きかけたときだった。
「何?別れ難い?」
福田の言葉に、蒼樹は開いた口がふさがらず、思わず福田を直視してしまった。
ニシシと笑って言う福田は、きっと冗談で言ったのだ。「そんなわけありません!」という、蒼樹の抗議の声を聞くことを彼は予想している。
そんなわけがあるか。図星をつかれて、そんなわけがあるはずがない。
時刻はとっくに夜だけれど、周囲が暗くよかった、なんて安心できるほど暗くなんてない。マンションのエントランスの目の前に横付けされたこの場所は、エントランスの植え込みにあるムードのあるライトだけでなく、運の良いことに街灯が設置されていた。
だから、真っ赤な顔した蒼樹の顔を福田が拝むことになるのは、それから一息もつかない短時間だったはずなのだ。
「え、ちょっと、」
真っ赤な顔を隠すように、もう一度俯いて服の裾を握る蒼樹の姿に福田が慌てているのがわかる。
「まじで……?」
なんだかそれが、ショックだ。やはり、自分だけ舞い上がっているのだろうか。
初めてつき合って、初めての恋人で、どうしたらいいのかわからないのは、自分だけなのだろう。
「福田さんは違うんですか」
「そういうわけじゃないけどさ……」
口調が恨み節になってしまうのは、冗談半分で指摘してきたことと、いつまでたっても蒼樹の気持ちをくみ取って、アクションを起こしてくれなかったことだ。
本当は、別れ難いとも少し違う。デートが終わってしまうことの名残惜しさではない。できれば、できることなら、
「か、帰らないで欲しい、と、言ったら、福田さんは、どうしますか」
「え、」
もう一歩踏み込みたい、だなんて。
蒼樹は今にも火が噴きそうなほど顔を真っ赤にしていた。体温が上昇するのを止められない。恥ずかしいにもほどがあるが、心の中にずっとあったのだ。
福田が自宅に送ってくれるたび、「お茶をしていきませんか?」なんて、あからさまな引き止めを脳内でシュミレーションしてしまうのを、止められなかったなんて、福田が知るはずがない。
言ってもいないが、少しぐらい蒼樹のそんな気持ちにも気付いてくれてもいいだろうに。
蒼樹はなかなかアクションに移せなかった自らを棚に上げて、福田を恨んだ。ふつふつと湧いてくる恨めしさに思わずぶつぶつと独り言を言いそうになっていた。
「いいの?」
「へ?」
「だから、いいのかって聞いてんの!」
「あっと、え?あの?何が……」
「何がじゃねえよ!帰らないでくれっていったの、蒼樹嬢だろうが!」
お茶でも飲んでいきませんか、そうやって遠回しに引き止めようとシュミレーションしていたのに、シュミレーションなんて恋愛の前ではほとんど役に立ちそうにない。
「言わないでください!恥ずかしいです!」
「先に言い出したの、あんただろ!」
「福田さんは気付いてくれもしないじゃないですか!」
「相手がいいっていうまで、手なんか出すか!」
「やらしいですよ!」
「やらしいこと考えてんのはお互いさまじゃねえか!」
「やらしいことなんか考えてません!」
「あっそ。じゃあ帰る」
「ちょっと待ったぁ!」
売り言葉に買い言葉のいつもの痴話喧嘩。マンション前で、すでに床につこうとしている人もいるかもしれない時間帯に、痴話喧嘩をするなんて迷惑極まりなかったが、当人たちはそんなことを考える余裕がない。
「うう、酷いです」
「酷いのはどっちだよ。俺だっていろいろ考えてんだよ」
「いろいろってなんですか」
「言わねえよ、恥ずかしい」
そうしてようやく蒼樹は気付く。掌で口元を覆い隠した福田の顔もうっすらと赤くなっていることに。
相手が照れていると、伝染するのは何故だろう。痴話喧嘩の勢いをすっかりなくして、蒼樹も顔を赤くして、「う」だの、「あの」だの、意味のない言葉ばかりが口をつく。
福田がわざとらしく咳払いをした。
「とりあえず、バイクどこに置こう」
「え、っと、そうですね、公園ところでいいんじゃないですか……?」
どうやら今日は、特別な日になりそうだ。
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