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花酔い1

 鍵が開く。
 ガチャリと大きな音がして、ドアノブが下ろされる。音を立てないようにゆっくりと入っているのか、ゆっくりとした音だった。カツとヒールが玄関のたたきにぶつかる音と、カチリと再度ドアの鍵をかけた音がした。
 誰かが来たんだな、ということは朦朧とした頭でもなんとか分かった。そしてそんな頭でも、部屋に入って来た人物が誰であるかは、はっきりと分かった。
 合鍵を持っている人物は片手で十分に足りるほどしかいないし、靴音や、漂ってくる雰囲気で誰だか判別できた。
 入って来た人物がこちらにやってくるのがわかる。部屋の構造をもう十分に理解しているようで、仕事部屋に住人がいないことを見て取ると、迷わずにベッドのある部屋にやってきたようだ。ガサガサとやたら音がなるのはなんだろう。
「福田さん、生きてます?」
「死んでるように見えるか」
「ええ、見えます」
「そーかよ」
 部屋に入るなり不躾に蒼樹は聞いてきた。
 今週はかなりハードスケジュールだった。本誌と同時進行でNEXTの原稿、アニメの脚本のチェック、グッズのチェック、イベントのチェックとめまぐるしく働いた。アニメやイベント関係については雄二郎のチェックを済ませたあとに廻ってくるが、それでも自分の作品だからちゃんと確かめたかった。連載二作目にしてようやく掴んだアニメ化だ。気合が入らないほうがおかしい。
 雄二郎の読み通り、バイク漫画ということで各方面からメディアミックスがなされる予定になっている。
 うれしい悲鳴だったが、如何せん今週は立て込みすぎた。スタッフを増やしたはずなのに、仕事量はKIYOSHIを連載していたころと変わらないどころか、増えているような気さえする。
 題材はバイクだったので取材にいくことも増えた。実際作中で描かれている技や見せ方は完全なフィクションだ。実際にそんなライディングはないという走法も描かれているが、そこは少年漫画の夢を詰め込んでいるわけで、リアリティにこだわる必要はないと思っている。
 もちろんレースの迫力や登場人物たちの心の動きには、リアリティと迫力を持たせたいと思っている。
 読者が作品の中の登場人物内の誰かに、自分を重ね合わせられたらいい。そんな風に思えるような作品になるなんて、福田自身も思わなかった。得意のバイオレンスよりも、これは完全に少年漫画の王道をいくような作品だ。
 題材はバイクと稀有だったが、最近ついぞ出てこないスポーツ漫画の部類に入るかもしれない。
 だからこそ編集部はこの作品に期待を寄せていたし、福田もこの作品に賭けていた。
 だから、手抜きはしたくない。
「疲れてます?」
「そう見える?」
 質問を質問で返せば蒼樹は怒る。分かっているけれどやってしまうのは、蒼樹が怒る姿がかわいいからかもしれない。本人にそれを言ったことはないけれど。
「つ、か、れ、て、い、る、ん、で、す、か?」
 案の定、蒼樹はイラッときたらしく、とげとげした口調で、言葉を一つずつ区切って再度聞いてきた。そうやってムキになるからからかい甲斐があるのだけれど、本人は至ってそれに気づいていない。気づいてしまったら、かわいい姿が見れなくなるから言うのはやめておこう。
 それよりも、今は泥の中に身を沈めているように身体が動かない。
 意識は朦朧として、実際蒼樹のこともぼんやりと霞掛かって見える。
 そう、確かに疲れている。睡眠時間は二時間足らず、夜も昼もぶっ通しで締め切りに間に合わせた。
 雄二郎は福田のことを心得ていて、原稿があがる一時間前にひょっこり表れて少し仕上げを手伝って、いい笑顔で原稿を掻っ攫うように持って行った。
 担当の編集者が変わることはよくあることだが、良くも悪くも初めて原稿を持ち込みしたときからずっと雄二郎が担当だった。今は師匠と慕っている新妻エイジにしても同じで、同じ担当者であることと、年齢が近く、新妻と唯一まともに会話のできる作家仲間として良く食事に行く仲だ。
 修羅場の度に、師匠の新妻を思い浮かべては、「師匠に出来て俺に出来ないわけがねー」と、自分を鼓舞する。
 実際には新妻の領域に達するにはまだまだだと冷静に判断してしまう。師匠ではあるが、それでも負けられないライバルであり、超えたい壁である。福田の漫画に対するモチベーションの高さは、確実に新妻エイジという存在だ。
 同じように新妻の存在を常に意識して漫画を書いている亜城木は、福田にとっては完全な同期で、新妻以上に負けたくない相手だった。
 新妻は特別な存在だった。年下のくせに天才と評されて、その評価に値する成果をあげている男。ライバルだと思っていた存在が、いつのまにか師匠になっていた。
 新妻はことあるごとに、CROW連載当初の福田がしたアドバイスのことに感謝の礼を示すが、福田も新妻には感謝していた。
 新妻は画力も高いし、話を作るのもうまい。漫画の構成の仕方も上手く、新妻から学ぶものは多かった。と同時に能力と才能の高さに嫉妬することもあったけれど、そのたび、新妻は真面目なのかふざけているのかわからない言動で、「僕には福田センセーみたいな作品は描けません。」というのだ。
 新妻はどうも人たらしなんじゃないかと思う。
 新妻にそう言われた自信が出てきてしまう。彼の漫画に対する評価や推測は、ほぼ当たっているのだから。
「そうかもな、眠たい……」
「せっかく来たのに……」
 口を尖らした蒼樹の姿にくすりと笑った。拗ねるなんて珍しいこともあるものだと思った。
 前に二人きりで会ったのはいつだったろうか。何せ二人して同じ雑誌に連載しているライバル作家同士である。お互いにお互いの仕事がどういったものだか理解しているというのは、心強いものでもあると同時に判り過ぎているための弊害もある。どちらも毎週締め切りに追われる日々なのを判っているから簡単に会うわけにもいかない。
 漫画家は安定した職業ではない。自営業者と同じく自分がやらなければ他には誰もやってくれる人間がいないのだ。毎週の締め切りは大変な苦労だったが、それがない日常は無職と変わらない。
 余程のことがないかぎり、一週でも休むわけにはいかない。
「ちょっと、どこ掴んでいるんですか!」
「たぶん、足」
「たぶんでもなんでもなく、足です」
「そこにあったから」
 ベッドの上で寝返りを打つとベッドの脇に立った蒼樹のほっそりした足が見えて、思わず手を伸ばしてしまった。
 蒼樹は怒ったが、それでも福田の手を足蹴にしないのは、育ちのよさのせいなのか。それとも福田の手を足蹴にすることに抵抗があるのか。
 逢えない代わりに電話とメールのやり取りが多いが、やはり直接会うほうがうれしいのは福田も同じだった。
 耳にする声も、表情も、直接触れることのできる肌も、覚えてしまった感覚は、次に逢う日まで恋しさが増してしまう。
 ふくらはぎの丸みを確かめるように触っていると、呆れたような声が頭上から降ってくる。
「もう……動きますから、離してください」
 足に触れていた手を素直に離すと、力を無くしてベッドの端から腕がだらりと垂れた。
「ん……どこ行くの」
「キッチンです」
「……何をしに?」
「スーパー行ってきたので、食材を冷蔵庫にいれようかなと思いまして」
 蒼樹はガサリと足下からビニールの袋を掲げた。ベッドの死角になっていて見えなかったのだ。玄関から歩いてきたときに聞いた音は、スーパーの袋だったのかと合点がいった。中からシメジとマイタケのパックが見えた。
「あ〜……マジ」
「マジですよ。一緒にご飯でも食べようかって言ったの誰ですか」
 そうだった。蒼樹の仕事の進捗状況と予定を聞いて、この日だったらと都合をつけたのだ。そのために、今日のために仕事を終わらせたのをすっかり失念していた。
 原稿が上がったことで、真っ白に燃え尽きてしまったからだ。
「マジとか言うな、似合わねー。外に喰いに行くのを想像してた……」
「まあ、こんな状態じゃ食べに行くこともできませんけどね」
 はあ、と溜め息をつかれてしまった。
 図星なのでぐう音もでないが、落ちそうになる意識を必死につなぎ止めて言った。
「大丈夫、ちょっと寝れば……」
 一時間、いや三十分だけ寝かせてくれと、言ったつもりだった。けれど、その前に意識は沈み込みはじめていた。だから、蒼樹が呆れたような、少し寂しそうな声で言った言葉は、福田には夢のどこかで聞いた気になった。
 蒼樹が何といったか、全く覚えていない。
 ああ、彼女はなんと言ったろう。

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