コンビニ
深夜のコンビニは昼間と違って多くの客が来るわけではない。
コンビニにもリピーターというものが存在する。
同列店で店舗数も多く、近い距離で何店舗もある地域だってあるが、決まった店で決まった時間に大抵現れるリピーターという存在がいる。客商売であればどの業種でも同じだと思うが、リピーターの重要度はコンビニでも同じだ。リピーターがいるかいないかで、仕入れの内容も変わってくる。本社だってどれだけリピーターがいるか管理するぐらいだ。大抵は近所に住んでいる人がそれにあたるわけだ。
深夜になると昼間よりも顕著にリピーターの存在が目立つ。
二十四時間営業で便利なコンビニ。でも、一般人の多くの人は、深夜帯というのは家か、もしくはそれに相当するところで就寝しているものだ。
福田と同じように夜に働いているか、遊んでいるか、所謂夜型人間しか店には来ない。
今日もこの時間、スーツをぴっちり着込み、髪を後ろに流したメガネの男が、ぴろり~んという来店を告げるドアベルの間抜けな電子音を鳴らして入ってくる。
その男は、サラリーマンではないだろう。サラリーマンにしては腕時計やメガネ、そしてスーツが高級すぎる。ホストかそれに相応するものか、とも思ったがそれにしてはちゃらちゃらして雰囲気がない。それじゃあ、やくざかちょっと怖い系の人か、というとそうでもなさそうだ。確かに隙はなさそうに見えるのだが、時折ぼーっとしていたり、くしゃみをしていたり、本当に時々、なんだかかわいい表情をしているときがある。
男にかわいいというのも変な話だが、そういう形容が一番似合う感覚なのだ。
これをどういう風にその人の動作がかわいいかを言葉でするには難しいかもしれない。なにしろ、それは福田の感覚だった。
福田はレジの向こう側から雑誌コーナーで立ち読みをしているそのスーツの男を見ていた。
深夜のコンビニ。客は一人。レジの中にいる店員は福田一人。単調な時間。何もすることがない。あくびがしたくなった。顔に手を当てても隠し切れないくらいの大あくびだ。でも誰も注意する人なんて今いない。
ああ、眠い。
昼間は新妻のところでアシスタントとして仕事場に出入りしている。アシスタントの仕事がある日もない日も深夜のコンビニバイトはほぼ毎日といっていいぐらいのシフトを入れている。昼間は漫画を描いて、仕事をして、夜はバイト。この生活から早く脱却したい。連載したい。もう少しで連載までいける!そう思ったのに、ライバルに先を越されてしまった。
ライバルの存在は福田にとってなくてはならない存在になった。意識できる相手がいるということは、モチベーションになり、それが自分の作品に直接的に表れてくる。自分の作品を冷静にそして客観的に見られるようになる。それができないと、ライバルより面白い作品であるかどうか、どこがだめなのか、わからなくなってしまう。
先にプロになったライバルや、師匠である新妻と同じ舞台に早く立ちたかった。
早く同じ紙面にのって競い合いたかった。
だから担当の戦略不足には相当いらだったけれど、それはもう運と言うほかないか、と思って作品の質をあげることに全力をあげている。
福田はもう一度あくびをしかけたが、バックヤードからバイトの先輩が戻ってきて慌ててあくびをかみ殺した。
「相変わらず暇だなー」
「そうっすねー」
先輩と話しながら、ぼうっと店内を見た。レジから反対側のドリンク類が陳列されているほうの壁にかけられた時計をなんとはなしに見ていたけれど、見ていただけであって情報として頭の中に記憶されない。
駅前であるにも関わらず、いつにもまして今日は客が少なかった。
そしてまたぴろり~んと間抜けな電子音が鳴り、反射的に口を開いた。
「いらっしゃいま、っ!」
ゴン、と鈍い音がした。それは自分の膝を勢いよく床に打ち付けた音だった。
福田は声にならない悲鳴をあげた。
「おい、ちょっと、どうしたよ?」
いきなりしゃがみこんだ福田を心配そうに覗き込もうとする先輩に、福田はこっちを向くな馬鹿、と心の中で罵った。
「今、俺に話しかけないでください」
「はあ? あ、いらっしゃいませー」
ひいっ、と言ったのはちゃんと心の中だったはずだ。大丈夫声には出ていない。
福田は打った膝の痛みなど忘れてレジの向こうの気配を伺っていた。バーコードを読み取る音が聞こえて、先輩がレジを操作しているのがわかる。福田はレジ台の下に移動すると、レジ台の薄い一枚の板の向こう側──会計をしている客の方をじとりと睨むように見た。見たとは言っても、実際には足先すらも見えない。レジ台がつくる暗い影だけだ。
「420円になります。500円でよろしいですか?」
「はい」
客が出した、たった一言のその声に、福田は、うお、とまたしても心の中で声をあげる。
「80円のお返しです。ありがとうございましたー。」
下に隠れていても客がレジから離れていくのが気配でわかる。それくらい福田は神経を尖らせていた。
ぴろりーんと電子音が鳴って、客が店から出たのがわかった。
「ふう……」
福田はようやくレジ下からはい出した。
「なんなんだ、お前」
「いえちょっと、気持ち悪くなりまして」
「はあ?」
腑に落ちない先輩の声は、至極まっとうな反応だろうなと福田は思った。そもそも隠れた理由を説明しろと言われても、福田にもうまく説明できそうにない。ただ、今の客が来たから、とりあえず身を隠そうと咄嗟に思っただけの話だ。問いただそうとする先輩のほうをちらりとも見ないで、福田は、今、客が出て行った入口のほうを見やった。
店の目の前に横断歩道がある。
手押し信号がちょうど青色に変わるところだった
おそらく、カツカツと高くはないヒールの音が、人が少ない深夜の道路に響いていることだろう。視力がいいのは昔からの自慢だ。
「なんであいつがここにいんだよ」
信号を渡るボブカットの女の後ろ姿に、福田は未だ収まらない動悸に、胸を手で押さえるように撫でた。
コンビニにもリピーターというものが存在する。
同列店で店舗数も多く、近い距離で何店舗もある地域だってあるが、決まった店で決まった時間に大抵現れるリピーターという存在がいる。客商売であればどの業種でも同じだと思うが、リピーターの重要度はコンビニでも同じだ。リピーターがいるかいないかで、仕入れの内容も変わってくる。本社だってどれだけリピーターがいるか管理するぐらいだ。大抵は近所に住んでいる人がそれにあたるわけだ。
深夜になると昼間よりも顕著にリピーターの存在が目立つ。
二十四時間営業で便利なコンビニ。でも、一般人の多くの人は、深夜帯というのは家か、もしくはそれに相当するところで就寝しているものだ。
福田と同じように夜に働いているか、遊んでいるか、所謂夜型人間しか店には来ない。
今日もこの時間、スーツをぴっちり着込み、髪を後ろに流したメガネの男が、ぴろり~んという来店を告げるドアベルの間抜けな電子音を鳴らして入ってくる。
その男は、サラリーマンではないだろう。サラリーマンにしては腕時計やメガネ、そしてスーツが高級すぎる。ホストかそれに相応するものか、とも思ったがそれにしてはちゃらちゃらして雰囲気がない。それじゃあ、やくざかちょっと怖い系の人か、というとそうでもなさそうだ。確かに隙はなさそうに見えるのだが、時折ぼーっとしていたり、くしゃみをしていたり、本当に時々、なんだかかわいい表情をしているときがある。
男にかわいいというのも変な話だが、そういう形容が一番似合う感覚なのだ。
これをどういう風にその人の動作がかわいいかを言葉でするには難しいかもしれない。なにしろ、それは福田の感覚だった。
福田はレジの向こう側から雑誌コーナーで立ち読みをしているそのスーツの男を見ていた。
深夜のコンビニ。客は一人。レジの中にいる店員は福田一人。単調な時間。何もすることがない。あくびがしたくなった。顔に手を当てても隠し切れないくらいの大あくびだ。でも誰も注意する人なんて今いない。
ああ、眠い。
昼間は新妻のところでアシスタントとして仕事場に出入りしている。アシスタントの仕事がある日もない日も深夜のコンビニバイトはほぼ毎日といっていいぐらいのシフトを入れている。昼間は漫画を描いて、仕事をして、夜はバイト。この生活から早く脱却したい。連載したい。もう少しで連載までいける!そう思ったのに、ライバルに先を越されてしまった。
ライバルの存在は福田にとってなくてはならない存在になった。意識できる相手がいるということは、モチベーションになり、それが自分の作品に直接的に表れてくる。自分の作品を冷静にそして客観的に見られるようになる。それができないと、ライバルより面白い作品であるかどうか、どこがだめなのか、わからなくなってしまう。
先にプロになったライバルや、師匠である新妻と同じ舞台に早く立ちたかった。
早く同じ紙面にのって競い合いたかった。
だから担当の戦略不足には相当いらだったけれど、それはもう運と言うほかないか、と思って作品の質をあげることに全力をあげている。
福田はもう一度あくびをしかけたが、バックヤードからバイトの先輩が戻ってきて慌ててあくびをかみ殺した。
「相変わらず暇だなー」
「そうっすねー」
先輩と話しながら、ぼうっと店内を見た。レジから反対側のドリンク類が陳列されているほうの壁にかけられた時計をなんとはなしに見ていたけれど、見ていただけであって情報として頭の中に記憶されない。
駅前であるにも関わらず、いつにもまして今日は客が少なかった。
そしてまたぴろり~んと間抜けな電子音が鳴り、反射的に口を開いた。
「いらっしゃいま、っ!」
ゴン、と鈍い音がした。それは自分の膝を勢いよく床に打ち付けた音だった。
福田は声にならない悲鳴をあげた。
「おい、ちょっと、どうしたよ?」
いきなりしゃがみこんだ福田を心配そうに覗き込もうとする先輩に、福田はこっちを向くな馬鹿、と心の中で罵った。
「今、俺に話しかけないでください」
「はあ? あ、いらっしゃいませー」
ひいっ、と言ったのはちゃんと心の中だったはずだ。大丈夫声には出ていない。
福田は打った膝の痛みなど忘れてレジの向こうの気配を伺っていた。バーコードを読み取る音が聞こえて、先輩がレジを操作しているのがわかる。福田はレジ台の下に移動すると、レジ台の薄い一枚の板の向こう側──会計をしている客の方をじとりと睨むように見た。見たとは言っても、実際には足先すらも見えない。レジ台がつくる暗い影だけだ。
「420円になります。500円でよろしいですか?」
「はい」
客が出した、たった一言のその声に、福田は、うお、とまたしても心の中で声をあげる。
「80円のお返しです。ありがとうございましたー。」
下に隠れていても客がレジから離れていくのが気配でわかる。それくらい福田は神経を尖らせていた。
ぴろりーんと電子音が鳴って、客が店から出たのがわかった。
「ふう……」
福田はようやくレジ下からはい出した。
「なんなんだ、お前」
「いえちょっと、気持ち悪くなりまして」
「はあ?」
腑に落ちない先輩の声は、至極まっとうな反応だろうなと福田は思った。そもそも隠れた理由を説明しろと言われても、福田にもうまく説明できそうにない。ただ、今の客が来たから、とりあえず身を隠そうと咄嗟に思っただけの話だ。問いただそうとする先輩のほうをちらりとも見ないで、福田は、今、客が出て行った入口のほうを見やった。
店の目の前に横断歩道がある。
手押し信号がちょうど青色に変わるところだった
おそらく、カツカツと高くはないヒールの音が、人が少ない深夜の道路に響いていることだろう。視力がいいのは昔からの自慢だ。
「なんであいつがここにいんだよ」
信号を渡るボブカットの女の後ろ姿に、福田は未だ収まらない動悸に、胸を手で押さえるように撫でた。
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smile lunch
あと5分で午前の授業が終わってしまうのかと思うと、優梨子はそわそわと落ち着かなくなっていた。
教壇の上の時計を見ては、次第に大きく波打つ胸に、落ち着かせようとするかのように手を置いた。
席順は名前の順だったので、優梨子はほとんど一番前だった。
今のクラスでも一番前。青木の次は、浅田、朝比奈と続いて井口だ。男女混合の順番だったから、優梨子の周りはなぜか男ばかりで、優梨子はこの席順が嫌で嫌で堪らなかった。
授業中に寝ているならまだいい。喋りだすと集中力を欠くし、なによりうるさい。休み時間中も何が面白いのか、ずっとうるさく笑っているし、ときどきグラビア雑誌なんかを大ぴらに広げているものだから目のやり場に困る。
少しでも席を空けようものなら、許可も得ずに勝手に椅子に座っているし、挙句の果てには、本人が戻ってきても退く様子がない。
うるさくて、野蛮で、少し怖い。
だから、この席が大嫌いだ。
気の抜けたようなチャイムが鳴った。
号令係の「起立」という号令が掛かって、がたがたと椅子を引く音が、教室中に響き渡った。気を付けも、礼も、生徒の大半がまともにやっていなかったけれど、教師は教材を抱えて廊下に出て行った。
優梨子はごくりと唾を飲み込んで、意を決した。
「はい」
目の前に突き付けられた黄色のバンダナに包まれた何かと、その包みを突き出している女の顔を福田は交互に見て、若干顔を引き攣らせながら首を傾げた。
「なにこれ」
「お弁当です」
決定的な一言に、福田はますます顔を引き攣らせる。
わかっている。
昼休みに入ったこの時間帯に渡される、それらしき形の包みなんて、弁当以外の何物でもないだろうということはわかっている。青木にCDやDVDを貸した覚えはないし、貸し借りするほど趣味があうわけではない。
いきなり突き出された黄色い包みにどうしたらいいのかわからない。
「……なんで?」
それは至極当然に、福田の口から発せられるべき言葉だ。
「ラーメンばかりは体によくないでしょう。たまにはちゃんとバランスのとれた食事をしたほうがいいと思います」
「だからこれ?」
こくんと頷いた青木は、クラス一、学年一、もしくは学校一の美人だと言われている。その美女がクールな表情で福田を見下ろしていた。その表情からは青木の真意をくみ取ることが難しくて、福田は傾げた。
「教室で渡すのは気が引けたので。呼び止めてしまってごめんなさい」
「あ、ちょっと」
福田に弁当を手渡すとそそくさとその場を立ち去ってしまう青木の背中に福田は声をかけて追い縋ろうとするが、青木は予想よりも早いスピードで廊下の角に消え去ってしまった。
「……教室で渡すのも、廊下で渡すのも、ぶっちゃけ変わらないどころか、廊下のほうが恥ずくねえか?」
昼休みで各々食事をとるために散り散りになる生徒の溢れる往来の真ん中で、黄色い包みを片手に一人取り残された福田は、ぽつりと呟く。それと同時に、背中をばしっと叩かれて、福田は息を詰まらせた。
「あ・お・きさんの、手作り弁当~?ヒュゥ~♪」
「羨ましいヤローだな」
「ち、がっ!」
一緒に食堂に行こうとしていたクラスメイト数人が、にやにやと厭らしい笑みをその顔にたたえて、口々にはやし立てた。
「違うもなにも、俺ら見ちゃったもん、目の前で」
「だー!! うっせえ!!」
「お前らつきあってんの?」
「付き合ってねえし、別に好きでもねえし、なんでそういう風にとられるのかわかんねえし。俺はどちらかというえば、あの女は嫌いだっ!」
「またまたぁ~何言ってんの?」
「仲良しじゃん」
「小学校から高校まで、なぜか学校が同じなだけだ」
「運命の相手ってやつ?」
「嫌いは好きってことだな」
「なんでそうなる!」
──だから、あいつの考えはどっか抜けてやがるんだっ!だから嫌なんだっ!こうなるって予想できるから嫌なんだっ!
そう心の中で毒づきながら、福田は友人の背中に飛び蹴りをかまそうとした。けれど友人たちはげらげら笑いながら、
「お幸せに~」
なんて冷やかしながら、食堂へ走って行ってしまった。
「あん……のやろおおおおおお!!!!」
福田の叫びは誰に届くだろうか。
午後のホームルームが終わり、青木は図書室で借りていた本を返却ボックスへ返すと、静かにドアを閉めて階下へ降りた。文芸部の活動は週2回。今日は部活は休みだ。友人を昇降口に待たせている。今日は友人の買い物に付き合って、最近お気に入りになったセルフのコーヒー店へ足を運ぶつもりだ。
ホームルーム棟の最上階にある図書室へは午後になるとめっきり人はこない。図書室に寄った数分の間に学生のほとんどは引波のようにホームルーム棟から姿を消していた。蒼樹の階段を下りる足音だけが響く中で、3階まで下りてきたとき、
「青木!」
と後ろから声が掛かった。
振り返ると福田がいて、青木が返事をする前に何かがゆっくりと放物線を描いていた。慌てて蒼樹が手を広げてそれを受け止める。
「サンキュー、うまかった」
「え?」
うまく受け止めきれなくて、わたわたと弁当箱をなんとか落とさないように奮闘していた青木に、福田が笑いながら言った。途中、「ダセェ」と聞こえたような気がしたけれど、そんなことは気にならなかったぐらい、ドキッとした。
「本当?」
「おう。だけどなーお前、量が少なすぎるっ!あんなちっこい弁当で育ちざかりの男が満足できると思うのかっ!もう腹減ってきた。帰りにラーメン食って帰りたいレベルで」
「そ、そうなんだ……」
「そう! だから、じゃーな!」
そう言いながら、ぺしゃんこの何も入っていなそうな鞄を肩に引っ掛けて、履きつぶして汚くなっている上履きをドダドダ鳴らしながら一段抜かしで階段を駆け下りて行った。踊り場につくたび、どだん、と飛び降りているようで、いつまでたっても大きな音が階下から響いていた。
「なに見てんのよ」
ぼーっとしていた青木に、友人が隣からくつくつ笑いながら声をかけてきたので、青木は慌てて手に持っていたそれをディスプレイに置きなおした。
「な、なんでもない」
「福田のお弁当箱でも買うつもり?」
「ちっ、違うっ!」
少し斜めに置かれた、大きめの弁当箱は、明らかに男性用だった。
「照れなくても。どうせ今日作ってきたくせに。あんなところで渡す? 普通? 付き合ってないのが信じられない」
「つ、付き合うとかそういうの、絶対、ないっからっ」
「好きなのに?」
「好きじゃないってば! どちらかといえば嫌いなの!」
付き合ってもいなければ、好きでもない男に弁当を作る女が、母親以外に誰がいるのだろうか。しかも青木も福田も二人とも同じことを言う。
どちらかといえば嫌い。
全く何を言っているのかわかっているのだろうか、と彼女は思い笑った。
「素直じゃないな~。もう、好きです、って顔に書いてあるのに」
「え」
「バレバレだと思うんだけどね」
「う、嘘っ!」
「自覚ないとか、ありえない~」
「嘘でしょう!?」
「え~? そんなの福田に聞けば~?」
そういって、買わないの? と、さっき青木が持っていた弁当箱を指差した。
「かっ、買わないっ!」
「素直じゃないね~」
福田にはしばらく小さい弁当で我慢してもらうしかない。
教壇の上の時計を見ては、次第に大きく波打つ胸に、落ち着かせようとするかのように手を置いた。
席順は名前の順だったので、優梨子はほとんど一番前だった。
今のクラスでも一番前。青木の次は、浅田、朝比奈と続いて井口だ。男女混合の順番だったから、優梨子の周りはなぜか男ばかりで、優梨子はこの席順が嫌で嫌で堪らなかった。
授業中に寝ているならまだいい。喋りだすと集中力を欠くし、なによりうるさい。休み時間中も何が面白いのか、ずっとうるさく笑っているし、ときどきグラビア雑誌なんかを大ぴらに広げているものだから目のやり場に困る。
少しでも席を空けようものなら、許可も得ずに勝手に椅子に座っているし、挙句の果てには、本人が戻ってきても退く様子がない。
うるさくて、野蛮で、少し怖い。
だから、この席が大嫌いだ。
気の抜けたようなチャイムが鳴った。
号令係の「起立」という号令が掛かって、がたがたと椅子を引く音が、教室中に響き渡った。気を付けも、礼も、生徒の大半がまともにやっていなかったけれど、教師は教材を抱えて廊下に出て行った。
優梨子はごくりと唾を飲み込んで、意を決した。
「はい」
目の前に突き付けられた黄色のバンダナに包まれた何かと、その包みを突き出している女の顔を福田は交互に見て、若干顔を引き攣らせながら首を傾げた。
「なにこれ」
「お弁当です」
決定的な一言に、福田はますます顔を引き攣らせる。
わかっている。
昼休みに入ったこの時間帯に渡される、それらしき形の包みなんて、弁当以外の何物でもないだろうということはわかっている。青木にCDやDVDを貸した覚えはないし、貸し借りするほど趣味があうわけではない。
いきなり突き出された黄色い包みにどうしたらいいのかわからない。
「……なんで?」
それは至極当然に、福田の口から発せられるべき言葉だ。
「ラーメンばかりは体によくないでしょう。たまにはちゃんとバランスのとれた食事をしたほうがいいと思います」
「だからこれ?」
こくんと頷いた青木は、クラス一、学年一、もしくは学校一の美人だと言われている。その美女がクールな表情で福田を見下ろしていた。その表情からは青木の真意をくみ取ることが難しくて、福田は傾げた。
「教室で渡すのは気が引けたので。呼び止めてしまってごめんなさい」
「あ、ちょっと」
福田に弁当を手渡すとそそくさとその場を立ち去ってしまう青木の背中に福田は声をかけて追い縋ろうとするが、青木は予想よりも早いスピードで廊下の角に消え去ってしまった。
「……教室で渡すのも、廊下で渡すのも、ぶっちゃけ変わらないどころか、廊下のほうが恥ずくねえか?」
昼休みで各々食事をとるために散り散りになる生徒の溢れる往来の真ん中で、黄色い包みを片手に一人取り残された福田は、ぽつりと呟く。それと同時に、背中をばしっと叩かれて、福田は息を詰まらせた。
「あ・お・きさんの、手作り弁当~?ヒュゥ~♪」
「羨ましいヤローだな」
「ち、がっ!」
一緒に食堂に行こうとしていたクラスメイト数人が、にやにやと厭らしい笑みをその顔にたたえて、口々にはやし立てた。
「違うもなにも、俺ら見ちゃったもん、目の前で」
「だー!! うっせえ!!」
「お前らつきあってんの?」
「付き合ってねえし、別に好きでもねえし、なんでそういう風にとられるのかわかんねえし。俺はどちらかというえば、あの女は嫌いだっ!」
「またまたぁ~何言ってんの?」
「仲良しじゃん」
「小学校から高校まで、なぜか学校が同じなだけだ」
「運命の相手ってやつ?」
「嫌いは好きってことだな」
「なんでそうなる!」
──だから、あいつの考えはどっか抜けてやがるんだっ!だから嫌なんだっ!こうなるって予想できるから嫌なんだっ!
そう心の中で毒づきながら、福田は友人の背中に飛び蹴りをかまそうとした。けれど友人たちはげらげら笑いながら、
「お幸せに~」
なんて冷やかしながら、食堂へ走って行ってしまった。
「あん……のやろおおおおおお!!!!」
福田の叫びは誰に届くだろうか。
午後のホームルームが終わり、青木は図書室で借りていた本を返却ボックスへ返すと、静かにドアを閉めて階下へ降りた。文芸部の活動は週2回。今日は部活は休みだ。友人を昇降口に待たせている。今日は友人の買い物に付き合って、最近お気に入りになったセルフのコーヒー店へ足を運ぶつもりだ。
ホームルーム棟の最上階にある図書室へは午後になるとめっきり人はこない。図書室に寄った数分の間に学生のほとんどは引波のようにホームルーム棟から姿を消していた。蒼樹の階段を下りる足音だけが響く中で、3階まで下りてきたとき、
「青木!」
と後ろから声が掛かった。
振り返ると福田がいて、青木が返事をする前に何かがゆっくりと放物線を描いていた。慌てて蒼樹が手を広げてそれを受け止める。
「サンキュー、うまかった」
「え?」
うまく受け止めきれなくて、わたわたと弁当箱をなんとか落とさないように奮闘していた青木に、福田が笑いながら言った。途中、「ダセェ」と聞こえたような気がしたけれど、そんなことは気にならなかったぐらい、ドキッとした。
「本当?」
「おう。だけどなーお前、量が少なすぎるっ!あんなちっこい弁当で育ちざかりの男が満足できると思うのかっ!もう腹減ってきた。帰りにラーメン食って帰りたいレベルで」
「そ、そうなんだ……」
「そう! だから、じゃーな!」
そう言いながら、ぺしゃんこの何も入っていなそうな鞄を肩に引っ掛けて、履きつぶして汚くなっている上履きをドダドダ鳴らしながら一段抜かしで階段を駆け下りて行った。踊り場につくたび、どだん、と飛び降りているようで、いつまでたっても大きな音が階下から響いていた。
「なに見てんのよ」
ぼーっとしていた青木に、友人が隣からくつくつ笑いながら声をかけてきたので、青木は慌てて手に持っていたそれをディスプレイに置きなおした。
「な、なんでもない」
「福田のお弁当箱でも買うつもり?」
「ちっ、違うっ!」
少し斜めに置かれた、大きめの弁当箱は、明らかに男性用だった。
「照れなくても。どうせ今日作ってきたくせに。あんなところで渡す? 普通? 付き合ってないのが信じられない」
「つ、付き合うとかそういうの、絶対、ないっからっ」
「好きなのに?」
「好きじゃないってば! どちらかといえば嫌いなの!」
付き合ってもいなければ、好きでもない男に弁当を作る女が、母親以外に誰がいるのだろうか。しかも青木も福田も二人とも同じことを言う。
どちらかといえば嫌い。
全く何を言っているのかわかっているのだろうか、と彼女は思い笑った。
「素直じゃないな~。もう、好きです、って顔に書いてあるのに」
「え」
「バレバレだと思うんだけどね」
「う、嘘っ!」
「自覚ないとか、ありえない~」
「嘘でしょう!?」
「え~? そんなの福田に聞けば~?」
そういって、買わないの? と、さっき青木が持っていた弁当箱を指差した。
「かっ、買わないっ!」
「素直じゃないね~」
福田にはしばらく小さい弁当で我慢してもらうしかない。
ぶらぶらデート
からっと乾いた秋晴れの続いた日には、日向の匂いが充満する。
空気は程よく冷たくて、動き回るには最適だ。日に日に日照時間が短くなって、朝は遅く、夜は早く。秋の深まりを感じながら、次第に冬へと移ろっていく。
「すげー! めっちゃ落ち葉いっぱいじゃん!」
「落葉樹ばっかりだったんですね、この公園」
ランニング用のコース路や、散策用の遊歩道、芝生が敷き詰められた緩やかな丘、木製の遊具が並ぶアスレチック広場。大規模な公園の散策路を歩いていた福田と蒼樹は、土が一切見えないほどの落ち葉の量に感嘆の声をあげた。
黄色や赤、オレンジといった紅葉した木々の葉がはらはらと空中を舞い、落ちていく。
木々についている葉のほうが少なく、紅葉シーズンとしては見頃をとうに過ぎたものの、地面を覆ういろとりどりの落ち葉もまた、見ごたえのある風景だ。
「ダーイブっ!」
「福田さん、洋服汚れますよ」
「こまけーことはいいんだよっ! すっげーふかふか!」
福田は地面にごろりと寝転がる。大の字になって、落ち葉の中に埋もれるようだった。落ち葉は乾燥していて、とても軽い。福田がそこに寝転がるとぱりぱりと音をたてた。木々に葉がなくなったおかげで、陽光がサンサンと降り注いでおり、ずいぶんと暖かだった。
「蒼樹嬢もこいよ」
「やですよ、汚れますって」
「けち」
呆れた、と言わんばかりに、蒼樹は落ち葉の上に寝転がる福田を、足元に立ったまま、子供の用に振舞う福田を見ていた。
「ほら、立って。行きますよ」
「やだ」
「やだって……子供じゃないんだから」
福田は軽く頬を膨らまし、ますます幼稚な行動にでるものだから、蒼樹は目を回し、ふぅとため息をついた。
こんな甘えたな福田の姿を、漫画家仲間や福田のアシスタント達が知ったら、仰天するだろう。たまに出てくる福田のこういう所作は、たぶん、わざとだろう。蒼樹の困った様子を見て、楽しんでいるに違いない。
やれやれと首を振った蒼樹は、福田の眼前に開いた手のひらを差し出した。
この手につかまって、立ち上がれと言うのだ。福田は渋々といった様子で蒼樹の手に掴まった。
「うわっ」
けれど、引っ張られたのは福田のほうではなく、蒼樹のほうだった。
予想もしていなかったために踏ん張りきれず、蒼樹はそのまま福田の上に覆いかぶさるように倒れてしまった。
勢いで、盛大に落ち葉が舞った。
「もー何するんですかあ! けがしたらどうするんですか!」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと受け止めてやっから」
いたずら成功という顔で、福田がにやりと笑った。しっかり腰をホールドされていることに気づいて、蒼樹は途端に顔を赤くした。
なんということだ、恥ずかしい。ここは部屋ではなくて、公共の公園だ。
「お、下してくださいっ!」
「へいへい」
福田はどこ吹く風と言わんばかりに、適当な返事をしたものの、力を緩め拘束を解いた。蒼樹は慌てて福田の体の上からどいたが、福田が立ち上がる気配は見せなかった。仕方なく蒼樹は福田の隣に腰を下ろす。
昼食を軽めにファーストフードで済ませて、ぶらりぶらりと公園に寄った。腹ごなしをしたら、きっとカフェにでも入って休憩したら、またぶらりぶらりと駅前の大きな書店に入って物色したあと、電車に乗って帰宅する。
とてもスローライフなデートプラン。
時にはこれぐらいゆっくりとした休日もいいものだ。柔らかな秋の陽光が木々の隙間から降り注いでいた。
「暖かいですね」
「だなー……眠くなりそう」
まるでブランケットでも被って、ぬくぬくと布団の中で丸まっているような、そんな心地よさがある。このまま会話が徐々に少なくなっていったら、本当に寝てしまうかもしれない。隣にいるお互いの気配を伺いながら、この温もりを享受する。足下の落ち葉を一つかみ掴み、また放り投げる。
「こんだけ落ち葉あったら、これで焼き芋やったらうまそう」
「公共の公園でそんなことしちゃだめなんですよ」
「わかってるよ、夢がねーなー。メルヘンリストなくせに!」
福田は遊んでいた枯れ葉を蒼樹に投げつけた。何をするんですか、と蒼樹も応酬して福田に枯れ葉を投げつける。
「メルヘンリストってなんですか! そんな言葉はありませんよ」
「いつからリアリストになったわけ」
「その反意語でしたら、アイディアリストっていうんでうよ」
「いやーなんか違うわ。ドリーマーって感じじゃね? 蒼樹嬢の場合」
「福田さんに言われたくないんですよ! 福田さんだって大抵ドリーマーな上に、メルヘンリストなくせに!」
「なんだと!」
「なんですか!」
投げつけたら、投げ返して、さらにまた投げ返す。二人は頭から枯れ葉まみれになっていた。公園の散歩路の一角だ。公園に来ている他の一般人も側を通っているのだが、二人は周りが見えなくなっていた。お構いなしに枯れ葉を投げ合っている。傍から見れば、じゃれあっているようにしか見えなかった。
そんな二人を諌めるメロディーが、どこからともなく聞こえてくる。昔懐かしいメロディー。時代は進んでも、いつだって変わらない、あのメロディーと歌声が。
──焼き芋〜♪ 石焼き芋〜♪
二人ともようやく手を止め、我に返る。
「何やってんだ、俺ら」
自分たちの行動に呆れて、福田自身の姿を見返し苦笑した。
「ふふっ、葉っぱまみれですよ」
「蒼樹嬢こそな」
体についた枯れ葉を払い落とし、蒼樹の手を取って立ち上がった。
「石焼き芋買って帰るか」
「そうですね」
空気は程よく冷たくて、動き回るには最適だ。日に日に日照時間が短くなって、朝は遅く、夜は早く。秋の深まりを感じながら、次第に冬へと移ろっていく。
「すげー! めっちゃ落ち葉いっぱいじゃん!」
「落葉樹ばっかりだったんですね、この公園」
ランニング用のコース路や、散策用の遊歩道、芝生が敷き詰められた緩やかな丘、木製の遊具が並ぶアスレチック広場。大規模な公園の散策路を歩いていた福田と蒼樹は、土が一切見えないほどの落ち葉の量に感嘆の声をあげた。
黄色や赤、オレンジといった紅葉した木々の葉がはらはらと空中を舞い、落ちていく。
木々についている葉のほうが少なく、紅葉シーズンとしては見頃をとうに過ぎたものの、地面を覆ういろとりどりの落ち葉もまた、見ごたえのある風景だ。
「ダーイブっ!」
「福田さん、洋服汚れますよ」
「こまけーことはいいんだよっ! すっげーふかふか!」
福田は地面にごろりと寝転がる。大の字になって、落ち葉の中に埋もれるようだった。落ち葉は乾燥していて、とても軽い。福田がそこに寝転がるとぱりぱりと音をたてた。木々に葉がなくなったおかげで、陽光がサンサンと降り注いでおり、ずいぶんと暖かだった。
「蒼樹嬢もこいよ」
「やですよ、汚れますって」
「けち」
呆れた、と言わんばかりに、蒼樹は落ち葉の上に寝転がる福田を、足元に立ったまま、子供の用に振舞う福田を見ていた。
「ほら、立って。行きますよ」
「やだ」
「やだって……子供じゃないんだから」
福田は軽く頬を膨らまし、ますます幼稚な行動にでるものだから、蒼樹は目を回し、ふぅとため息をついた。
こんな甘えたな福田の姿を、漫画家仲間や福田のアシスタント達が知ったら、仰天するだろう。たまに出てくる福田のこういう所作は、たぶん、わざとだろう。蒼樹の困った様子を見て、楽しんでいるに違いない。
やれやれと首を振った蒼樹は、福田の眼前に開いた手のひらを差し出した。
この手につかまって、立ち上がれと言うのだ。福田は渋々といった様子で蒼樹の手に掴まった。
「うわっ」
けれど、引っ張られたのは福田のほうではなく、蒼樹のほうだった。
予想もしていなかったために踏ん張りきれず、蒼樹はそのまま福田の上に覆いかぶさるように倒れてしまった。
勢いで、盛大に落ち葉が舞った。
「もー何するんですかあ! けがしたらどうするんですか!」
「大丈夫、大丈夫。ちゃんと受け止めてやっから」
いたずら成功という顔で、福田がにやりと笑った。しっかり腰をホールドされていることに気づいて、蒼樹は途端に顔を赤くした。
なんということだ、恥ずかしい。ここは部屋ではなくて、公共の公園だ。
「お、下してくださいっ!」
「へいへい」
福田はどこ吹く風と言わんばかりに、適当な返事をしたものの、力を緩め拘束を解いた。蒼樹は慌てて福田の体の上からどいたが、福田が立ち上がる気配は見せなかった。仕方なく蒼樹は福田の隣に腰を下ろす。
昼食を軽めにファーストフードで済ませて、ぶらりぶらりと公園に寄った。腹ごなしをしたら、きっとカフェにでも入って休憩したら、またぶらりぶらりと駅前の大きな書店に入って物色したあと、電車に乗って帰宅する。
とてもスローライフなデートプラン。
時にはこれぐらいゆっくりとした休日もいいものだ。柔らかな秋の陽光が木々の隙間から降り注いでいた。
「暖かいですね」
「だなー……眠くなりそう」
まるでブランケットでも被って、ぬくぬくと布団の中で丸まっているような、そんな心地よさがある。このまま会話が徐々に少なくなっていったら、本当に寝てしまうかもしれない。隣にいるお互いの気配を伺いながら、この温もりを享受する。足下の落ち葉を一つかみ掴み、また放り投げる。
「こんだけ落ち葉あったら、これで焼き芋やったらうまそう」
「公共の公園でそんなことしちゃだめなんですよ」
「わかってるよ、夢がねーなー。メルヘンリストなくせに!」
福田は遊んでいた枯れ葉を蒼樹に投げつけた。何をするんですか、と蒼樹も応酬して福田に枯れ葉を投げつける。
「メルヘンリストってなんですか! そんな言葉はありませんよ」
「いつからリアリストになったわけ」
「その反意語でしたら、アイディアリストっていうんでうよ」
「いやーなんか違うわ。ドリーマーって感じじゃね? 蒼樹嬢の場合」
「福田さんに言われたくないんですよ! 福田さんだって大抵ドリーマーな上に、メルヘンリストなくせに!」
「なんだと!」
「なんですか!」
投げつけたら、投げ返して、さらにまた投げ返す。二人は頭から枯れ葉まみれになっていた。公園の散歩路の一角だ。公園に来ている他の一般人も側を通っているのだが、二人は周りが見えなくなっていた。お構いなしに枯れ葉を投げ合っている。傍から見れば、じゃれあっているようにしか見えなかった。
そんな二人を諌めるメロディーが、どこからともなく聞こえてくる。昔懐かしいメロディー。時代は進んでも、いつだって変わらない、あのメロディーと歌声が。
──焼き芋〜♪ 石焼き芋〜♪
二人ともようやく手を止め、我に返る。
「何やってんだ、俺ら」
自分たちの行動に呆れて、福田自身の姿を見返し苦笑した。
「ふふっ、葉っぱまみれですよ」
「蒼樹嬢こそな」
体についた枯れ葉を払い落とし、蒼樹の手を取って立ち上がった。
「石焼き芋買って帰るか」
「そうですね」
暑い夏には
キャビネットの上に置かれているファックスマシンが、ピーという電子音を立てた。それを聞いて、ファックスに近寄ると、無事送信されました、とモノクロの液晶画面にメッセージが表示されていた。
それを確認した蒼樹が次にとる行動は一つしかない。
福田に電話をかけることだ。
ポケットから携帯電話を取り出した。通話履歴から福田の電話番号を呼び出すこともあるし、アドレス帳から探すときもある。
どちらにせよ、蒼樹の指は無意識の行動にように自然に福田の電話番号を探り当て、迷うことなく通話ボタンを押し、耳に電話を押し当てる。その行動は、もう体に刻み込まれてしまっていて、何を考えるわけでもなく福田に電話をかけられるようになっていた。
数回の呼び出し音のあと、声を潜めた福田が電話越しに出た。
「どした?」
「福田さん……?」
福田が声を潜めるということが珍しい。蒼樹は不思議に思って、福田の名前を上げ調子で呼んだ。その直後に騒々しい声が聞こえてきて、蒼樹は思わず、耳から携帯電話を離し、電話中と表示されている画面をまじまじと見てしまった。
福田真太の名前が液晶の中にある。
携帯電話のスピーカーは思いの外よく響くし、よく拾う。遠くで話していても、福田と誰かの声が蒼樹の耳に届いてくる。
「福田先生、誰ですかー? 蒼樹先生ですかー?」
「え? 新妻さん?」
予想もしなかった新妻の登場に、蒼樹は戸惑いを隠せなかった。新妻の声に被せるようにして、福田が「電話中だ」とあしらう声が聞こえてくる。
どうして新妻がいるのだろう。蒼樹は困惑しながら再度携帯電話を耳に当てた。丁度福田が喋るところだった。
「もしかして、ネーム送ってくれたのか?」
「あ、はい。あの……」
「あーミスったなあ……すまん、もう一回送ってくれねえか? 新妻くんのところに」
「え?」
「俺さ、今、新妻くんのところにいるからさ」
蒼樹が福田の言葉にますます困惑したことは言わずともわかるだろう。蒼樹は目を点にしたまま、福田の言葉に耳を傾け、最終的に「はい」と、戸惑い気味に頷くほかなかったのである。
「どういうことなんでしょう、これは」
ぶつぶつと独り言を言いながら、蒼樹はカートを押していた。二段になっているカートの上にだけカゴを置き、蒼樹は手に取ったレタスをカゴの中にそっと置いた。
「なんで私は、こうしてスーパーで野菜を買っているのでしょうか」
連れがいない状態。正真正銘の独り言に、誰かが答えてくれるわけはない。独り言を聞き咎めた人がいたら、少し可笑しな人だと誤解されてしまうかもしれない。それなのにぶつくさと独り言が出てしまう蒼樹の心境は、どうしてなのだと問えば、少しは混乱も解消するかもしれないという、根拠のない理由のためだ。
そうして自分自身に問うてもわかる問題ではない。成り行きでこうなってしまっただけで、この買い物は、蒼樹のためだけの買い物ではなかった。夕飯の買い出しをするために、スーパーにはほどよく人がいる。生鮮売場はひんやりと冷えていて、外のうだるような暑さに晒されていた体には、気持ちがよかった。長居してしまえば体が冷えてしまって寒くなってしまうのが生鮮売場の特徴だが、長居をするほどの買い物量ではない。
真っ赤な宝石のようなトマトが数多く並んでいた。最近はトマトの種類が豊富で、値段もピンからキリまであったが、蒼樹は中サイズほどのつるりとして表面に艶のあるトマトを選ぶと、それも一緒にカゴに入れた。
ほかにどんな野菜が必要だろうか。
蒼樹は顎に指をやり、うーんと考え込んだ。
具体的なことを指示されていない。
野菜コーナーの周りをうろうろとしながら、蒼樹は想像を巡らしていた。
そうしてレジをすぎ、ビニール袋の買ったものを詰め込むと、予想以上に荷物が重たいことに気づいた。
これを持って電車に乗り、中野まで行かなくてはならない。中野で買い物すればよかったか、と今更ながら後悔した。三鷹から中野まで数駅しか離れていない。たかが数十分の辛抱ではないか。自宅からスーパーへ帰るのと大した差じゃないと考え直した。
蒼樹はスーパーを出ると駅へと向かった。
電車を降りて、改札を通り抜ける頃には、すでに汗をかいていた。普段エアコンで快適な部屋で過ごすことの多い蒼樹の体は、じりじりと焦がすような外の暑さを感じるだけで、玉のような汗がふつふつと沸き上がってきているのを感じていた。
目的の新妻の部屋までは駅からは目と鼻の先だ。
蒼樹が歩を進めようとした矢先、隣から声をかけられた。
「蒼樹嬢」
「福田さん」
待っていたのか、それともたまたま遭遇しただけなのか、福田が蒼樹の隣に立っていた。どこかで貰ったのか、うちわを持っていた。暑さに顔をしかめていた蒼樹に、持っていたうちわで扇いでくれた。
「買ってきてくれた?」
「重たいです」
「すまん。持つわ」
冗談気味に言った不平不満に、福田はすかさず手を出した。気を遣われたことに、蒼樹は逆に謙遜してしまって、首を振った。
「あ、いえ、そういうわけでは」
「いいから、貸して」
福田は半ば奪いとるように蒼樹からスーパーの二ビール袋を受け取った。
すいません、と蒼樹が言うと、気にすんな、と返ってきた。
「エアコンが壊れたんですって?」
「そうなんだよー突然壊れてさー。電気屋行ったんだけど、今、夏で特需じゃん? 在庫ないから待ってくれって言われて。どうしようかなって、雄二郎に相談しようかと思ったんだけど」
福田の部屋のエアコンが昼頃突然壊れてしまったのだという。ちょうど日が高くなって一日で一番暑くなる時間帯に壊れてしまった。エアコン無しで仕事はなかなかできない。汗が垂れ、原稿用紙が湿らないようにタオルやアームカバーで防いだとしても、これだけじりじりと暑いのだ。エアコンなしで、作業をすることはなかなか難しい。
福田の編集担当を長年している雄二郎との関係はすこぶる良好なようで、福田が何かあると真っ先に相談する相手は雄二郎になっていた。
福田は雄二郎のことを適当な人間だと言っているが、なんだかんだいいながらも福田や新妻のサポートをしているところをみると、それが仕事とはいえ、面倒見のよさが雄二郎にはあるのだろうなと思う。
それから福田とも新妻とも相性が良いのだろう。
いくら優秀な編集、優秀な作家同士でも、性格や相性の不一致があれば、なかなかそれが作品に生きてくるとはいいがたい。
マンガは作家だけが作るものではない。編集と二人三脚で作るものだ。
蒼樹は青葉の頃を連載するにあたって、編集替えがあった。今回担当編集になった山久とは良くも悪くもない状態だと言える。周囲の人間から言わせれば、山久の編集としての能力はなかなか高いものがあるようだ。確かにそうなのかもしれないと、連載が順調にいき始めてからそう思うようにもなれたが、初めは山久の提案や考えに反発して仕方がなかった。担当替えを申し入れようと思ったこともある。
現在は連載も順調にいっていることから、山久とは良好な関係を気づけているとは思うが、それでも福田や雄二郎、新妻のような、信頼関係があるかというとそうではないだろうと思う。山久という男もまた、一筋縄ではいかないような、腹に本音を隠し持っているような気がしてならない。山久に対して、本音の一部しか言えない蒼樹と同じように。
信頼関係を築くには、まず自分の心から開くべきなのだ。
それは福田とこういう関係になったことで、嫌と言うほど教わった。
福田真太という人間は、それは隠しもせずに自身のことを暴露するからだ。この人は信用できる、そう思わせることの要因は嘘をつかないことだ。
相手が遠慮無しにものを言うものだから、売り言葉に買い言葉というように、こちらも遠慮無しにぽんぽん言葉が出てしまう。
まるで福田と雄二郎のように。蒼樹と福田の信頼関係もそれに近いしいものが、すでに二人の間にはある。
「あわよくば、上がり込もう……とか、思ったんでしょう」
エアコンが壊れて雄二郎に電話した福田の狙いは、宿を求めることだったのではないだろうか。蒼樹はそんな問いを込めて言うと、福田は破顔した。
「当たり。でも、そしたら新妻くんのところ空いてるよとか、雄二郎が言うから」
「それで来たと……」
そんなことだろうと思ったと、蒼樹がやれやれと首を振る。
「迷惑なんじゃないですか、それ」
相性のあっている三人ではあるが、それ故に蒼樹からすると、とても適当なところがあるように思えた。その緩さがほどよい関係性を作っているのかもしれない。けれど、それとこれとは別だ。
新妻は人気連載作家の一人であり、彼の仕事を邪魔することは編集部としても許されないだろう。
「わかってるよ。でも新妻くんが無問題ですっていうからさ。まあ……誰かの存在が新妻くんに影響するなんてことなんて、ないとは思うけどね。悪影響って意味で」
新妻のアシスタントをしていた福田だからこそわかることだ。それでも、新妻に迷惑をかけることになってしまうことは事実だ。
「私のところでも、お部屋は余ってないですから無理ですしね……」
新妻に迷惑をかけるだろうと指摘できても、蒼樹の部屋にも余裕がない。今は連載のためにアシスタントの作業テーブルなどを置いているせいもあって、蒼樹のパーソナルスペースしかない状態だ。
うちに来ませんか、とは福田には言えない。
うーんと唸る蒼樹のとなりで、福田はいやいやと手振りまでして拒否をした。
「……余ってても、さすがにそれはできん」
「なんでですか」
「なんで、なんでも。できんから、できん」
できないものはできないと訴える福田に、蒼樹は理解できないといった表情で福田を見上げる。
その途方もない意識の差に、福田はどうしてくれようか、と頭を抱えたくなった。少年誌にパンチラを書くことに対して異様なまでに拒否していたはずの蒼樹だ。少年たちが将来変態になったらどうするのだと本気で思っていたような女だ。
だったらわかりそうなものなのに、逆にそういう変に純粋なところがあるからこそわからないのだろうか。
それとも男として見られていないのか、そう考えるとベコベコに凹みそうになる。
仲間と書いてルビはライバル、なんて冗談半分本気半分で言うことはあっても、女と男が一つ屋根の下にいるにはそれなりの理由が必要ではないだろうか。エアコンが壊れたから、蒼樹の部屋に一晩の宿を借りに行きましたと、雄二郎に言えるだろうか。
いや、言えない。
絶対にそれだけは言えない。仮にそれが事実になったとしても、言えないだろう。厭らしくにやけて追及の手を緩めない雄二郎を想像する。
何かあっても、何もなくても、口の軽い雄二郎にバレることだけは、進退窮まる。
「別に、部屋とかきれいですよ。普通に福田さんの仕事場よりは格段にきれいです」
「そういう問題じゃないうえに、酷いことを平気で言うな!見てもない癖に!」
確かに部屋は汚いが、蒼樹が福田の部屋へあがったことはない。
「見なくてもだいたい想像つきます」
「想像すんなよ!」
「新妻さんのところよりも汚いですか?」
「いや、どっこいどっこい……って新妻くんにも失礼なこと言ってるぞ、アンタ」
「でも汚いじゃないですか。そこでご飯食べれますかね?」
「俺が掃除したから大丈夫だ」
「福田さんが? 掃除を?」
胡散臭そうにじろじろと福田の顔を見る蒼樹に、本当に失礼な奴だなと福田は言った。
「掃除ができないわけじゃなくて、やる時間がないだけなんだよ!」
「それって、よく言い訳に使われそうな言葉のように聞こえますけど」
「本当だし!」
どれだけ言っても、福田の言葉は信用しないか、とうんざりしたところで、蒼樹が笑いながら言った。
「いつか、掃除しにいきますね」
蒼樹は本当によく笑うようになった。
今まで福田に対してこんな風に笑ったことなどなかった。福田の知る限り、ライバルだと呼べる人たちに対して、蒼樹は打ち解けようとはしなかった。それに愛想笑いですらもしなかった。
その蒼樹が愛想笑いどころか、心からの笑顔を見せるようになっていた。
楽しいときや、困ったとき、くすりと微笑んだとき。
いろいろな表情を持っていたのだなと、気づかされた。
蒼樹の笑みは図星を指されたことにムキになっていることに対して笑っているわけではなかった。それとは違うもっと柔和なものだった。
柔らかな表情をする蒼樹に、福田は少しばかり焦り、戸惑った。こういう表情をする蒼樹にどう受け答えをしたらいいのか、まだわからなかった。
「なんでだよ、来なくていいし」
「お礼です」
「は?」
「私のために、指導をしてくださる、そのことに対するお礼です」
福田は驚いてぱちくりと大きく一度瞬きをした。そうすれば何かが変わるのではないかという期待を込めているかのようだ。
「……お礼に掃除って……なんだそりゃ……」
「勤労奉仕させていただきますよ?」
「……わけわかんねー……」
別に蒼樹のために、蒼樹を助けているわけではない。
そう言おうと口を開いても、その言葉は全く出てこなかった。口をもぐもぐと動かして、出てこない言葉を飲み込んだ。蒼樹のためじゃないということなんて、ここまできたらその言葉にはほとんど信憑性がない。照れ隠しにそうやって怒鳴ることもできやしない。
蒼樹の為じゃないと言ってしまったら、絆が切れてしまうと直感的にわかっている。
しかし恥ずかしいものだ。
福田の気持ちを知ってか知らずか、蒼樹はにこにこしていた。
福田は二の次が告げず、とぼとぼと歩いていた。無言で、かなりゆっくり歩く。一度会話が途切れてしまうと、もう一度会話の糸口を掴むのに苦労する。
福田がどうしようかとぐるぐると思考回路をハムスターの回し車のように高速回転させていると、蒼樹が、でも、と口火を切った。
「なんでしゃぶしゃぶなんですか? 暑いのに」
福田に電話をかけた蒼樹は、ちょうどよかったとばかりに、福田から新妻のマンションで、しゃぶしゃぶをやるから来ないかと誘われたのだ。
福田から食事に誘われて、蒼樹は正直なところ心が躍ってしまった。本当にいいのかと、なんども確認をしてしまうほどだ。そして、新妻のマンションに来るついでに、野菜を買ってきてほしいと頼まれたために、スーパーへ寄ったのだ。
新妻の部屋に転がり込んだ福田は、なにもせずに居候するわけにはいかないと、食事を奢ろうとでもしたのだろう。もしくは作ると言ったのかもしれない。家主の要望とあれば、暑くてもしゃぶしゃぶにしないわけにはいかないと思ったのではないだろうか。
「冷しゃぶが食べたいんだとよ。なのに、新妻くん、スーパー行ったら肉しか買わないんだよ。かごに野菜入れると怒るんだよ」
「なるほど」
「ついでに買ってきてもらって悪かった」
「いえ」
新妻が偏食だとは初耳だ。あの風変わりな雰囲気の新妻を想像すれば、偏食家であっても納得してしまう。
スーパーで買ってきた野菜は福田が持っている。反対側の手には別のビニール袋を持っていて、蒼樹はそれを指しながら聞いた。
「福田さんは?」
「俺は飲み物。酒と、ウーロン茶。あんたも飲む?」
「お酒を?」
「そう」
「じゃあ少しだけ」
「飲めるんだ?」
「飲めますよ。普段飲まないだけで」
「へえ、意外」
交友関係が少ないせいで飲み会に誘われる経験があまりないが、飲もうと思えば飲めるのだ。二日酔いや悪酔いするような飲み方はしないし、普段から好き好んで飲むわけではないが、全く飲めない、お酒が嫌いというわけではない。
「なんかカクテルとか好きそうなイメージ」
「うーん……あんまりお酒は詳しくないので」
「甘いお酒のほうが好きっしょ」
「そうですね」
苦みの強いものや辛口のお酒よりは、口当たりの良い、いわゆる女性向けのお酒のほうが好きだ。口当たりの良いお酒は、ついつい量を飲んでしまうと言われるそうだが、自制心の強い蒼樹はそこまで飲んだことはなかった。
「じゃあ、よかった」
「え?」
「ビールだけじゃあれかなと思って……つか、蒼樹嬢がビール飲むのを想像できなかったから、チューハイとか梅酒にしといた」
「梅酒好きです」
「よかった」
持っていたビニール袋の口を少し広げて蒼樹に中身を見せてくる。梅酒といっても、明らかに女性向けの商品ラインナップを展開している見たことのあるラベルに、福田が蒼樹のために考えて選んできてくれたことが伺い知れた。
そのことに蒼樹は胸がほっこりと温かくなった。小さな心遣いがうれしく思った。
「じゃー今度、梅酒のおいしい店行こうぜ。すげー種類多いところ知ってるからさ」
「本当ですか?」
「蒼樹嬢がいいならな」
片眉だけを器用につり上げて、どうする、と問う福田の姿に蒼樹は頷いた。断る理由なんて何もなかった。
「新妻くん、買ってきた」
「お邪魔します」
過去に二度、新妻のマンションを訪れたことがある。そのどちらも福田組の集会場に使われたためだ。
「ウェルカムでーす」
玄関を抜け、部屋のドアを開けると、スウェットやヘッドフォンの間など、至る所に羽根箒を差し込んでいる新妻が二人を出迎えた。相変わらずのハイテンションぶりに蒼樹は思わず福田の背後に回ってしまう。福田は馴れたもので、新妻の奇抜な格好には何一つつっこみを入れない。
何度かその姿を見てはいても、福田ほど交流があるわけではないので、新妻の人となりがいまいち掴めず、蒼樹にとっては福田組の中で、一番距離間の遠い人物かもしれなかった。
ドアを閉めた途端に、蒼樹はぶるりと背筋を震わせた。
それに呼応するように福田も腕をさすり、思わず声を上げた。
「ってか、寒っ!」
背筋が震えたのは、室温が異常に低かったからだ。外が非常に暑いせいで、そう感じるのかと思ったが、涼しいを越えて、福田の言ったとおり寒いくらいだった。
「何度設定なんですか!?」
「十八度設定ですけど」
「なんでこんな寒いんだよ」
「外に買い物に出て、暑いかと思いまして」
「暑いけど、ここまで寒くしなくたっていいじゃねーかよ」
「涼しいレベル超えてますよ」
福田と蒼樹が口を揃えて抗議しても、新妻は、
「寒いですか?」
と、首を傾げるだけだった。新妻なりの気遣いを見せたつもりだったのだろうが、気遣いにも限度というものがある。
話の通じない新妻に、福田は地団太を踏む。
「北国育ちだとそうなんの!? ねえ!? そうなんの!?」
「知りませんケド」
「新妻さん、夏でもそのスウェットなんですね」
「涼しくなったんで、スウェット着たです」
「俺が出ていくときには普通にTシャツだったぞ!」
「え」
福田が詰め寄っても懲りた様子のない新妻に、福田は半狂乱に近い状態で、きぃ、と声にならない叫び声をあげた。
福田がそんな状態になることを目の当たりにして、蒼樹は新妻と福田の関係性のディープな一面を見た気がした。きっとアシスタント時代も、持論を展開し、常識からズレた行動をとる新妻に福田は手を焼いていたのだろう。福田は案外常識人だ。マンガに関しても正攻法を取るし、言葉遣いは乱暴ではあるが、考え方は至って常識的だ。
仲はいいが、その中でも苦労をしたのだろう。
福田は腕をさすりながら、イスの上で不安定な体制を取る新妻に言った。
「もう普通のしゃぶしゃぶでよくない? 寒いし」
「でも冷しゃぶ用のお野菜しかないですよ。 トマトとかレタスとか」
蒼樹が福田に頼まれたのは、冷しゃぶをするのに必要な野菜だ。レタスにキュウリ、トマト、タマネギ、セロリ、水菜。この中で温しゃぶできる野菜を、しいてあげるとしたら水菜しかない。あとはサラダにでもするしかないだろう。
確かに氷水でしめた冷しゃぶを食べる気持ちには、この寒さでは失せてしまう。
買ってきた野菜をどうしようかなどと、蒼樹が考えていると、冗談か本気かわからない真面目な顔で、新妻が福田と蒼樹に詰め寄った。
「それもしゃぶしゃぶしますか?」
「しねーよ! なんでだよ!」
即答で新妻の提案を拒否した福田と、「ラジャーですー」とへらりと敬礼した新妻の、二人をやりとりを見ながら蒼樹は、うらやましくもあり、新妻とつきあうのは大変そうだなあと福田に同情してもいた。
蒼樹は苦笑したまま、準備をしましょう、と福田と新妻の背を押したのだった。
「秋名さんは呼ばないですか?」
結局福田の提案が採用されて温しゃぶへと変更され、テーブルがないためフローリングに直に座って食べることにした。だしをつくり、サラダを作ったところで、なにも手伝っていない新妻がキッチンにたつ福田と蒼樹の背後から首だけを出してそう言った。
「俺、知らないし、秋名くんの番号」
タマネギの皮を剥きながら、新妻のほうを振り返りもせずに言う福田の隣で、トマトを湯剥きしようと水を入れた鍋を火にかけようとしていた蒼樹がその手を止めた。
「呼びます?」
そう言うと、新妻は飛びかからんばかり反応した。
「呼んでほしいです! 人がたくさんいたほうがいいですし!」
「秋名くん、来るかねえ」
「どうでしょう。断られそうな気もしますけど……」
ポケットから携帯電話を取り出し、秋名の番号を呼び出す。携帯の画面をのぞき込むように隣に立った福田を振り扇ぎながら、蒼樹は新妻にもう一度呼びますか、と確認した。新妻は頷き返した。
「僕がどうしても来てほしいっていったら、来ますヨ」
新妻が自信満々に言い切ったので、福田は驚いた。昔の蒼樹にそっくりだと言われるぐらい、絶対的な自信に溢れて、他者を認めようとはしない気の強さのある秋名のことを理解しているような口振りだ。
「新妻くん、秋名くんのこと把握しちゃってんの……?」
エスパーと影で噂されるくらいに、漫画に関係したことであれば、新妻の言った事や指摘が外れることはない。漫画を通して、秋名愛子がどういう人間なのか、把握し扱い方を熟知しているのか。
「なんとなくです」
新妻はにやりと含みのある笑みを浮かべた。
知らない間に、新妻と秋名の間に何かあったのだろうか。蒼樹と福田は興味が湧いて、思わず顔を見合わせていた。もし秋名が新妻の言った通りここに来たら、さり気なく聞いてみよう。二人は無言で心を通わせて小さく笑いながら頷きあった。
「なに二人して見つめあってるんです?」
そう新妻に言われて、福田と蒼樹が同時に抗議の声を上げたのは言うまでもない。
それを確認した蒼樹が次にとる行動は一つしかない。
福田に電話をかけることだ。
ポケットから携帯電話を取り出した。通話履歴から福田の電話番号を呼び出すこともあるし、アドレス帳から探すときもある。
どちらにせよ、蒼樹の指は無意識の行動にように自然に福田の電話番号を探り当て、迷うことなく通話ボタンを押し、耳に電話を押し当てる。その行動は、もう体に刻み込まれてしまっていて、何を考えるわけでもなく福田に電話をかけられるようになっていた。
数回の呼び出し音のあと、声を潜めた福田が電話越しに出た。
「どした?」
「福田さん……?」
福田が声を潜めるということが珍しい。蒼樹は不思議に思って、福田の名前を上げ調子で呼んだ。その直後に騒々しい声が聞こえてきて、蒼樹は思わず、耳から携帯電話を離し、電話中と表示されている画面をまじまじと見てしまった。
福田真太の名前が液晶の中にある。
携帯電話のスピーカーは思いの外よく響くし、よく拾う。遠くで話していても、福田と誰かの声が蒼樹の耳に届いてくる。
「福田先生、誰ですかー? 蒼樹先生ですかー?」
「え? 新妻さん?」
予想もしなかった新妻の登場に、蒼樹は戸惑いを隠せなかった。新妻の声に被せるようにして、福田が「電話中だ」とあしらう声が聞こえてくる。
どうして新妻がいるのだろう。蒼樹は困惑しながら再度携帯電話を耳に当てた。丁度福田が喋るところだった。
「もしかして、ネーム送ってくれたのか?」
「あ、はい。あの……」
「あーミスったなあ……すまん、もう一回送ってくれねえか? 新妻くんのところに」
「え?」
「俺さ、今、新妻くんのところにいるからさ」
蒼樹が福田の言葉にますます困惑したことは言わずともわかるだろう。蒼樹は目を点にしたまま、福田の言葉に耳を傾け、最終的に「はい」と、戸惑い気味に頷くほかなかったのである。
「どういうことなんでしょう、これは」
ぶつぶつと独り言を言いながら、蒼樹はカートを押していた。二段になっているカートの上にだけカゴを置き、蒼樹は手に取ったレタスをカゴの中にそっと置いた。
「なんで私は、こうしてスーパーで野菜を買っているのでしょうか」
連れがいない状態。正真正銘の独り言に、誰かが答えてくれるわけはない。独り言を聞き咎めた人がいたら、少し可笑しな人だと誤解されてしまうかもしれない。それなのにぶつくさと独り言が出てしまう蒼樹の心境は、どうしてなのだと問えば、少しは混乱も解消するかもしれないという、根拠のない理由のためだ。
そうして自分自身に問うてもわかる問題ではない。成り行きでこうなってしまっただけで、この買い物は、蒼樹のためだけの買い物ではなかった。夕飯の買い出しをするために、スーパーにはほどよく人がいる。生鮮売場はひんやりと冷えていて、外のうだるような暑さに晒されていた体には、気持ちがよかった。長居してしまえば体が冷えてしまって寒くなってしまうのが生鮮売場の特徴だが、長居をするほどの買い物量ではない。
真っ赤な宝石のようなトマトが数多く並んでいた。最近はトマトの種類が豊富で、値段もピンからキリまであったが、蒼樹は中サイズほどのつるりとして表面に艶のあるトマトを選ぶと、それも一緒にカゴに入れた。
ほかにどんな野菜が必要だろうか。
蒼樹は顎に指をやり、うーんと考え込んだ。
具体的なことを指示されていない。
野菜コーナーの周りをうろうろとしながら、蒼樹は想像を巡らしていた。
そうしてレジをすぎ、ビニール袋の買ったものを詰め込むと、予想以上に荷物が重たいことに気づいた。
これを持って電車に乗り、中野まで行かなくてはならない。中野で買い物すればよかったか、と今更ながら後悔した。三鷹から中野まで数駅しか離れていない。たかが数十分の辛抱ではないか。自宅からスーパーへ帰るのと大した差じゃないと考え直した。
蒼樹はスーパーを出ると駅へと向かった。
電車を降りて、改札を通り抜ける頃には、すでに汗をかいていた。普段エアコンで快適な部屋で過ごすことの多い蒼樹の体は、じりじりと焦がすような外の暑さを感じるだけで、玉のような汗がふつふつと沸き上がってきているのを感じていた。
目的の新妻の部屋までは駅からは目と鼻の先だ。
蒼樹が歩を進めようとした矢先、隣から声をかけられた。
「蒼樹嬢」
「福田さん」
待っていたのか、それともたまたま遭遇しただけなのか、福田が蒼樹の隣に立っていた。どこかで貰ったのか、うちわを持っていた。暑さに顔をしかめていた蒼樹に、持っていたうちわで扇いでくれた。
「買ってきてくれた?」
「重たいです」
「すまん。持つわ」
冗談気味に言った不平不満に、福田はすかさず手を出した。気を遣われたことに、蒼樹は逆に謙遜してしまって、首を振った。
「あ、いえ、そういうわけでは」
「いいから、貸して」
福田は半ば奪いとるように蒼樹からスーパーの二ビール袋を受け取った。
すいません、と蒼樹が言うと、気にすんな、と返ってきた。
「エアコンが壊れたんですって?」
「そうなんだよー突然壊れてさー。電気屋行ったんだけど、今、夏で特需じゃん? 在庫ないから待ってくれって言われて。どうしようかなって、雄二郎に相談しようかと思ったんだけど」
福田の部屋のエアコンが昼頃突然壊れてしまったのだという。ちょうど日が高くなって一日で一番暑くなる時間帯に壊れてしまった。エアコン無しで仕事はなかなかできない。汗が垂れ、原稿用紙が湿らないようにタオルやアームカバーで防いだとしても、これだけじりじりと暑いのだ。エアコンなしで、作業をすることはなかなか難しい。
福田の編集担当を長年している雄二郎との関係はすこぶる良好なようで、福田が何かあると真っ先に相談する相手は雄二郎になっていた。
福田は雄二郎のことを適当な人間だと言っているが、なんだかんだいいながらも福田や新妻のサポートをしているところをみると、それが仕事とはいえ、面倒見のよさが雄二郎にはあるのだろうなと思う。
それから福田とも新妻とも相性が良いのだろう。
いくら優秀な編集、優秀な作家同士でも、性格や相性の不一致があれば、なかなかそれが作品に生きてくるとはいいがたい。
マンガは作家だけが作るものではない。編集と二人三脚で作るものだ。
蒼樹は青葉の頃を連載するにあたって、編集替えがあった。今回担当編集になった山久とは良くも悪くもない状態だと言える。周囲の人間から言わせれば、山久の編集としての能力はなかなか高いものがあるようだ。確かにそうなのかもしれないと、連載が順調にいき始めてからそう思うようにもなれたが、初めは山久の提案や考えに反発して仕方がなかった。担当替えを申し入れようと思ったこともある。
現在は連載も順調にいっていることから、山久とは良好な関係を気づけているとは思うが、それでも福田や雄二郎、新妻のような、信頼関係があるかというとそうではないだろうと思う。山久という男もまた、一筋縄ではいかないような、腹に本音を隠し持っているような気がしてならない。山久に対して、本音の一部しか言えない蒼樹と同じように。
信頼関係を築くには、まず自分の心から開くべきなのだ。
それは福田とこういう関係になったことで、嫌と言うほど教わった。
福田真太という人間は、それは隠しもせずに自身のことを暴露するからだ。この人は信用できる、そう思わせることの要因は嘘をつかないことだ。
相手が遠慮無しにものを言うものだから、売り言葉に買い言葉というように、こちらも遠慮無しにぽんぽん言葉が出てしまう。
まるで福田と雄二郎のように。蒼樹と福田の信頼関係もそれに近いしいものが、すでに二人の間にはある。
「あわよくば、上がり込もう……とか、思ったんでしょう」
エアコンが壊れて雄二郎に電話した福田の狙いは、宿を求めることだったのではないだろうか。蒼樹はそんな問いを込めて言うと、福田は破顔した。
「当たり。でも、そしたら新妻くんのところ空いてるよとか、雄二郎が言うから」
「それで来たと……」
そんなことだろうと思ったと、蒼樹がやれやれと首を振る。
「迷惑なんじゃないですか、それ」
相性のあっている三人ではあるが、それ故に蒼樹からすると、とても適当なところがあるように思えた。その緩さがほどよい関係性を作っているのかもしれない。けれど、それとこれとは別だ。
新妻は人気連載作家の一人であり、彼の仕事を邪魔することは編集部としても許されないだろう。
「わかってるよ。でも新妻くんが無問題ですっていうからさ。まあ……誰かの存在が新妻くんに影響するなんてことなんて、ないとは思うけどね。悪影響って意味で」
新妻のアシスタントをしていた福田だからこそわかることだ。それでも、新妻に迷惑をかけることになってしまうことは事実だ。
「私のところでも、お部屋は余ってないですから無理ですしね……」
新妻に迷惑をかけるだろうと指摘できても、蒼樹の部屋にも余裕がない。今は連載のためにアシスタントの作業テーブルなどを置いているせいもあって、蒼樹のパーソナルスペースしかない状態だ。
うちに来ませんか、とは福田には言えない。
うーんと唸る蒼樹のとなりで、福田はいやいやと手振りまでして拒否をした。
「……余ってても、さすがにそれはできん」
「なんでですか」
「なんで、なんでも。できんから、できん」
できないものはできないと訴える福田に、蒼樹は理解できないといった表情で福田を見上げる。
その途方もない意識の差に、福田はどうしてくれようか、と頭を抱えたくなった。少年誌にパンチラを書くことに対して異様なまでに拒否していたはずの蒼樹だ。少年たちが将来変態になったらどうするのだと本気で思っていたような女だ。
だったらわかりそうなものなのに、逆にそういう変に純粋なところがあるからこそわからないのだろうか。
それとも男として見られていないのか、そう考えるとベコベコに凹みそうになる。
仲間と書いてルビはライバル、なんて冗談半分本気半分で言うことはあっても、女と男が一つ屋根の下にいるにはそれなりの理由が必要ではないだろうか。エアコンが壊れたから、蒼樹の部屋に一晩の宿を借りに行きましたと、雄二郎に言えるだろうか。
いや、言えない。
絶対にそれだけは言えない。仮にそれが事実になったとしても、言えないだろう。厭らしくにやけて追及の手を緩めない雄二郎を想像する。
何かあっても、何もなくても、口の軽い雄二郎にバレることだけは、進退窮まる。
「別に、部屋とかきれいですよ。普通に福田さんの仕事場よりは格段にきれいです」
「そういう問題じゃないうえに、酷いことを平気で言うな!見てもない癖に!」
確かに部屋は汚いが、蒼樹が福田の部屋へあがったことはない。
「見なくてもだいたい想像つきます」
「想像すんなよ!」
「新妻さんのところよりも汚いですか?」
「いや、どっこいどっこい……って新妻くんにも失礼なこと言ってるぞ、アンタ」
「でも汚いじゃないですか。そこでご飯食べれますかね?」
「俺が掃除したから大丈夫だ」
「福田さんが? 掃除を?」
胡散臭そうにじろじろと福田の顔を見る蒼樹に、本当に失礼な奴だなと福田は言った。
「掃除ができないわけじゃなくて、やる時間がないだけなんだよ!」
「それって、よく言い訳に使われそうな言葉のように聞こえますけど」
「本当だし!」
どれだけ言っても、福田の言葉は信用しないか、とうんざりしたところで、蒼樹が笑いながら言った。
「いつか、掃除しにいきますね」
蒼樹は本当によく笑うようになった。
今まで福田に対してこんな風に笑ったことなどなかった。福田の知る限り、ライバルだと呼べる人たちに対して、蒼樹は打ち解けようとはしなかった。それに愛想笑いですらもしなかった。
その蒼樹が愛想笑いどころか、心からの笑顔を見せるようになっていた。
楽しいときや、困ったとき、くすりと微笑んだとき。
いろいろな表情を持っていたのだなと、気づかされた。
蒼樹の笑みは図星を指されたことにムキになっていることに対して笑っているわけではなかった。それとは違うもっと柔和なものだった。
柔らかな表情をする蒼樹に、福田は少しばかり焦り、戸惑った。こういう表情をする蒼樹にどう受け答えをしたらいいのか、まだわからなかった。
「なんでだよ、来なくていいし」
「お礼です」
「は?」
「私のために、指導をしてくださる、そのことに対するお礼です」
福田は驚いてぱちくりと大きく一度瞬きをした。そうすれば何かが変わるのではないかという期待を込めているかのようだ。
「……お礼に掃除って……なんだそりゃ……」
「勤労奉仕させていただきますよ?」
「……わけわかんねー……」
別に蒼樹のために、蒼樹を助けているわけではない。
そう言おうと口を開いても、その言葉は全く出てこなかった。口をもぐもぐと動かして、出てこない言葉を飲み込んだ。蒼樹のためじゃないということなんて、ここまできたらその言葉にはほとんど信憑性がない。照れ隠しにそうやって怒鳴ることもできやしない。
蒼樹の為じゃないと言ってしまったら、絆が切れてしまうと直感的にわかっている。
しかし恥ずかしいものだ。
福田の気持ちを知ってか知らずか、蒼樹はにこにこしていた。
福田は二の次が告げず、とぼとぼと歩いていた。無言で、かなりゆっくり歩く。一度会話が途切れてしまうと、もう一度会話の糸口を掴むのに苦労する。
福田がどうしようかとぐるぐると思考回路をハムスターの回し車のように高速回転させていると、蒼樹が、でも、と口火を切った。
「なんでしゃぶしゃぶなんですか? 暑いのに」
福田に電話をかけた蒼樹は、ちょうどよかったとばかりに、福田から新妻のマンションで、しゃぶしゃぶをやるから来ないかと誘われたのだ。
福田から食事に誘われて、蒼樹は正直なところ心が躍ってしまった。本当にいいのかと、なんども確認をしてしまうほどだ。そして、新妻のマンションに来るついでに、野菜を買ってきてほしいと頼まれたために、スーパーへ寄ったのだ。
新妻の部屋に転がり込んだ福田は、なにもせずに居候するわけにはいかないと、食事を奢ろうとでもしたのだろう。もしくは作ると言ったのかもしれない。家主の要望とあれば、暑くてもしゃぶしゃぶにしないわけにはいかないと思ったのではないだろうか。
「冷しゃぶが食べたいんだとよ。なのに、新妻くん、スーパー行ったら肉しか買わないんだよ。かごに野菜入れると怒るんだよ」
「なるほど」
「ついでに買ってきてもらって悪かった」
「いえ」
新妻が偏食だとは初耳だ。あの風変わりな雰囲気の新妻を想像すれば、偏食家であっても納得してしまう。
スーパーで買ってきた野菜は福田が持っている。反対側の手には別のビニール袋を持っていて、蒼樹はそれを指しながら聞いた。
「福田さんは?」
「俺は飲み物。酒と、ウーロン茶。あんたも飲む?」
「お酒を?」
「そう」
「じゃあ少しだけ」
「飲めるんだ?」
「飲めますよ。普段飲まないだけで」
「へえ、意外」
交友関係が少ないせいで飲み会に誘われる経験があまりないが、飲もうと思えば飲めるのだ。二日酔いや悪酔いするような飲み方はしないし、普段から好き好んで飲むわけではないが、全く飲めない、お酒が嫌いというわけではない。
「なんかカクテルとか好きそうなイメージ」
「うーん……あんまりお酒は詳しくないので」
「甘いお酒のほうが好きっしょ」
「そうですね」
苦みの強いものや辛口のお酒よりは、口当たりの良い、いわゆる女性向けのお酒のほうが好きだ。口当たりの良いお酒は、ついつい量を飲んでしまうと言われるそうだが、自制心の強い蒼樹はそこまで飲んだことはなかった。
「じゃあ、よかった」
「え?」
「ビールだけじゃあれかなと思って……つか、蒼樹嬢がビール飲むのを想像できなかったから、チューハイとか梅酒にしといた」
「梅酒好きです」
「よかった」
持っていたビニール袋の口を少し広げて蒼樹に中身を見せてくる。梅酒といっても、明らかに女性向けの商品ラインナップを展開している見たことのあるラベルに、福田が蒼樹のために考えて選んできてくれたことが伺い知れた。
そのことに蒼樹は胸がほっこりと温かくなった。小さな心遣いがうれしく思った。
「じゃー今度、梅酒のおいしい店行こうぜ。すげー種類多いところ知ってるからさ」
「本当ですか?」
「蒼樹嬢がいいならな」
片眉だけを器用につり上げて、どうする、と問う福田の姿に蒼樹は頷いた。断る理由なんて何もなかった。
「新妻くん、買ってきた」
「お邪魔します」
過去に二度、新妻のマンションを訪れたことがある。そのどちらも福田組の集会場に使われたためだ。
「ウェルカムでーす」
玄関を抜け、部屋のドアを開けると、スウェットやヘッドフォンの間など、至る所に羽根箒を差し込んでいる新妻が二人を出迎えた。相変わらずのハイテンションぶりに蒼樹は思わず福田の背後に回ってしまう。福田は馴れたもので、新妻の奇抜な格好には何一つつっこみを入れない。
何度かその姿を見てはいても、福田ほど交流があるわけではないので、新妻の人となりがいまいち掴めず、蒼樹にとっては福田組の中で、一番距離間の遠い人物かもしれなかった。
ドアを閉めた途端に、蒼樹はぶるりと背筋を震わせた。
それに呼応するように福田も腕をさすり、思わず声を上げた。
「ってか、寒っ!」
背筋が震えたのは、室温が異常に低かったからだ。外が非常に暑いせいで、そう感じるのかと思ったが、涼しいを越えて、福田の言ったとおり寒いくらいだった。
「何度設定なんですか!?」
「十八度設定ですけど」
「なんでこんな寒いんだよ」
「外に買い物に出て、暑いかと思いまして」
「暑いけど、ここまで寒くしなくたっていいじゃねーかよ」
「涼しいレベル超えてますよ」
福田と蒼樹が口を揃えて抗議しても、新妻は、
「寒いですか?」
と、首を傾げるだけだった。新妻なりの気遣いを見せたつもりだったのだろうが、気遣いにも限度というものがある。
話の通じない新妻に、福田は地団太を踏む。
「北国育ちだとそうなんの!? ねえ!? そうなんの!?」
「知りませんケド」
「新妻さん、夏でもそのスウェットなんですね」
「涼しくなったんで、スウェット着たです」
「俺が出ていくときには普通にTシャツだったぞ!」
「え」
福田が詰め寄っても懲りた様子のない新妻に、福田は半狂乱に近い状態で、きぃ、と声にならない叫び声をあげた。
福田がそんな状態になることを目の当たりにして、蒼樹は新妻と福田の関係性のディープな一面を見た気がした。きっとアシスタント時代も、持論を展開し、常識からズレた行動をとる新妻に福田は手を焼いていたのだろう。福田は案外常識人だ。マンガに関しても正攻法を取るし、言葉遣いは乱暴ではあるが、考え方は至って常識的だ。
仲はいいが、その中でも苦労をしたのだろう。
福田は腕をさすりながら、イスの上で不安定な体制を取る新妻に言った。
「もう普通のしゃぶしゃぶでよくない? 寒いし」
「でも冷しゃぶ用のお野菜しかないですよ。 トマトとかレタスとか」
蒼樹が福田に頼まれたのは、冷しゃぶをするのに必要な野菜だ。レタスにキュウリ、トマト、タマネギ、セロリ、水菜。この中で温しゃぶできる野菜を、しいてあげるとしたら水菜しかない。あとはサラダにでもするしかないだろう。
確かに氷水でしめた冷しゃぶを食べる気持ちには、この寒さでは失せてしまう。
買ってきた野菜をどうしようかなどと、蒼樹が考えていると、冗談か本気かわからない真面目な顔で、新妻が福田と蒼樹に詰め寄った。
「それもしゃぶしゃぶしますか?」
「しねーよ! なんでだよ!」
即答で新妻の提案を拒否した福田と、「ラジャーですー」とへらりと敬礼した新妻の、二人をやりとりを見ながら蒼樹は、うらやましくもあり、新妻とつきあうのは大変そうだなあと福田に同情してもいた。
蒼樹は苦笑したまま、準備をしましょう、と福田と新妻の背を押したのだった。
「秋名さんは呼ばないですか?」
結局福田の提案が採用されて温しゃぶへと変更され、テーブルがないためフローリングに直に座って食べることにした。だしをつくり、サラダを作ったところで、なにも手伝っていない新妻がキッチンにたつ福田と蒼樹の背後から首だけを出してそう言った。
「俺、知らないし、秋名くんの番号」
タマネギの皮を剥きながら、新妻のほうを振り返りもせずに言う福田の隣で、トマトを湯剥きしようと水を入れた鍋を火にかけようとしていた蒼樹がその手を止めた。
「呼びます?」
そう言うと、新妻は飛びかからんばかり反応した。
「呼んでほしいです! 人がたくさんいたほうがいいですし!」
「秋名くん、来るかねえ」
「どうでしょう。断られそうな気もしますけど……」
ポケットから携帯電話を取り出し、秋名の番号を呼び出す。携帯の画面をのぞき込むように隣に立った福田を振り扇ぎながら、蒼樹は新妻にもう一度呼びますか、と確認した。新妻は頷き返した。
「僕がどうしても来てほしいっていったら、来ますヨ」
新妻が自信満々に言い切ったので、福田は驚いた。昔の蒼樹にそっくりだと言われるぐらい、絶対的な自信に溢れて、他者を認めようとはしない気の強さのある秋名のことを理解しているような口振りだ。
「新妻くん、秋名くんのこと把握しちゃってんの……?」
エスパーと影で噂されるくらいに、漫画に関係したことであれば、新妻の言った事や指摘が外れることはない。漫画を通して、秋名愛子がどういう人間なのか、把握し扱い方を熟知しているのか。
「なんとなくです」
新妻はにやりと含みのある笑みを浮かべた。
知らない間に、新妻と秋名の間に何かあったのだろうか。蒼樹と福田は興味が湧いて、思わず顔を見合わせていた。もし秋名が新妻の言った通りここに来たら、さり気なく聞いてみよう。二人は無言で心を通わせて小さく笑いながら頷きあった。
「なに二人して見つめあってるんです?」
そう新妻に言われて、福田と蒼樹が同時に抗議の声を上げたのは言うまでもない。
小悪魔的ラバーズソウル
「そういえば、私。福田さんのご自宅って知りませんね」
ファミレスの飾り気の無いカップを優雅に口に運びながら、はた、と動きを止めた蒼樹に、福田は思いっきりコーラを吸い込んでしまった。炭酸が喉を焼くようだった。コーラは鼻に抜け、思わず鼻水以外のものも鼻から垂れそうになってしまう。あまりの痛さに、思わず涙が滲んでしまった。
「げほっ、げほっ」
「だ、大丈夫ですか?」
咽た福田に驚いて慌てる蒼樹に、福田は叫びたくなった。
蒼樹嬢のせいだぞ!
と、叫びたがったが、げほげほと咳き込む福田は言葉を発することもできない。蒼樹に向かって口の中のコーラを吐き出さなかっただけマシだった。一歩寸前のところまで言ったが、それは危うくも回避され、人間としての尊厳を失わずに済んだ。
原因をつくった蒼樹は、自分が原因だとは露ほどにも感じていないようだった。
「ああ、ペーパー、ペーパー。もう、何してるんですか」
わたわたと添えつけられたペーパーを何枚も取って、福田に手渡した。腰を浮かし、前のめりになって福田の顔を覗き込む。
ああ、相変わらず胸が重そうだな、とか、頭の隅で少し思いながら、これだから天然女は苦手なんだ、と福田は苦々しく思った。
涙目の福田に、
「大丈夫ですか?」
と、蒼樹が覗き込みながら聞いた。
だから、あまり前のめりになるんじゃない、と福田は言わなかったが無言の訴えとして、蒼樹から顔を思い切り背けた。
重そうな胸の谷間が、襟ぐりから見えてしまう。そこを凝視するわけにはいかないし、胸が見えると指摘するわけにもいかない。変態のレッテルを無条件に貼られそうな気がして、福田は何もすることができない。
俺は変態ではない。
不可抗力で見えてしまっただけだ。
何回そんな風に自分に言い聞かせて、なるべく見ないようにしてきただろうか。でも、男の性というやつで、見えてしまうものに目が行かないわけはなく、つい、ちらりと視線を動かしてしまって、ああ、やってしまったと、また大仰に目を反らしてしまう。その繰り返しだった。
福田は受け取ったペーパーナプキンで口を拭い、手を噴いた。若干掌に口から漏れたコーラが付着していて、ごしごし擦った。
恥ずかしいところ見られてしまった。それもこれも、みんな、
「蒼樹嬢のせいだぞ!」
「私、何もしてないじゃないですか!」
「した! ていうか、言った!」
「変なことなんて一言も言ってません!」
福田の指摘に対して、蒼樹は、どこが変なんですかとぷりぷり頬を膨らまして抗議した。
額面通り、蒼樹の言ったこと全てが福田を動揺させる「変なこと」であるのに、蒼樹は全く気付いてないようだ。福田は丸めたペーパーナプキンのゴミを蒼樹に投げつけた。
「汚っ!」
「ふん!」
「何なんですか、もう!」
「それはこっちが言いたいんだ!」
「何でですか!」
「蒼樹嬢こそ、何でだよ!」
「何がです?」
蒼樹が投げ返してきたゴミを顔の目の前で見事にキャッチしながら、福田はそのゴミをぎゅぎゅっと強く握った。
「俺の家の場所知らないからって、どうだってんだよ」
「だって、福田さんは私の自宅の場所知ってるじゃないですか。いつも、送ってもらっているし」
「……まあな」
打ち合わせをした帰りや、福田組で集まった帰りなど、蒼樹を自宅まで送り届けるのは、福田の役割になっていた。誰に指示されたわけではない。蒼樹が図々しく福田に「送ってください」と頼んだわけでもない。
事の切っ掛けは、福田が蒼樹に「乗れば」と声をかけたことだろうか。
「福田さんは知ってて、私は知らないなんて、不公平じゃないですか」
蒼樹を自宅まで送り届けているのだから、福田が蒼樹の自宅マンションの場所を知っていて当然だ。蒼樹が福田を家まで送るという、逆のことが起こる確立はほとんどないに等しい。知らなくても困らないだろうに、知らないことが不公平だなんて、おかしな話だ。福田の自宅の場所を知って、蒼樹は福田の自宅を訪れるとでもいうのか。
あり得ない妄想だ、それは。蒼樹が福田の部屋を訪れる?そこに一体、蒼樹のどんな気持ちが隠れているのか。
「平丸さんや、亜城木先生のお仕事場所だって知ってるのに、福田さんのだけ知らないんですよね。」
福田が蒼樹の真意を掴もうと考えていた矢先の蒼樹の発言に、福田はピクリと反応した。実に突っ込みたい箇所が随所にあった。どういう敬意で平丸の仕事場を知ったのだとか、行ったのかだとか、かなり気になったのに、福田はそれを聞くのを躊躇った。聞いたら気になった理由付けをしなければならないような気がしたからだ。
福田は蒼樹の様子をまじまじと観察した。
福田が蒼樹によって心を乱されているなど、これまた掠りもしないほどに気づかないらしい。
「俺の家の場所なんか知ってどうすんの?」
「どうするって、特には……」
そんなに意識されないものなのかねえ、と福田は頬杖をついて、ため息をついた。
「なにかあったときに、知っておいたほうが、いいじゃないですか」
「なにかってなんだよ」
すぐに答えられない蒼樹に、福田は首を横に振りながらいった。
「そういうことは、男には聞いちゃいけないんだぜ」
「なんでですか?」
そう聞かれると思ったが、それを俺の口から言うのかと、福田はたじろいだ。それを言うということは、自分がそう意識していると宣言するようなものだ。
どうすべきか。言うか言うまいか。福田が迷っている間も、蒼樹はじっと福田を見ていた。
「男だってむやみやたらと女を部屋には入れないの」
福田は仕方なく頬杖をついたまま言った。
「判るだろ?」
と、半眼で見てやっても、なんでですか、と頬を膨らましてむくれるのだから、なんて女だと、福田は驚きを隠せない。判らないはずがないだろう。だって、蒼樹だってそうしているに決まっている。現に福田は蒼樹の部屋には入ったことがない。
「蒼樹嬢が、男を部屋に入れない理由と同じ。ん? 逆か?」
「え」
「普通に考えて、そう簡単に異性を部屋に上がらせないだろ。蒼樹嬢だってそうしてんじゃん。そういう意味で言ってる」
なんとも思ってなければ部屋に入れることもあるのだろうが、別に思っていても思っていなくても、異性が部屋に入るということを特別視するという風潮は、たぶん古今東西存在するのだ。好きとか、好きじゃないとか、そんなことは関係なく、パーソナルな空間に異性との二人きりのシチュエーションという特別な環境が、何も思っていない男女二人の距離をまさしく近くする。
蒼樹と自分がそんな風になり得るか?
わからない。
わからないが、すでにそんな風になり得てしまうことがあるかもしれないと、意識してしまっている。
蒼樹は例の事件から男性不信気味になっている。そんな中で男性である福田に心を開いてくれたということは、嬉しいことであり、また複雑な気分にもさせてくれる。心を開いてくれたことを裏返して見れば、男性として意識されていないということであり、警戒心を抱くはずがない。
だから、そういうことを言うのだ。
ここで、俺は男だと強調してみることは、蒼樹にとって裏切りになるだろうか。
恥ずかしながら、福田は蒼樹のことを女として意識しているし、蒼樹にも男として意識してもらいたいという希望がある。でもそれを直接的に言うのは、福田は照れてしまって言えなかった。遠回しに、間接的に言って、蒼樹に伝わるだろうか。
平丸や亜城木とは違う存在になりたいと伝わるだろうか。
それが伝わってしまったら、この関係は終わるかもしれないことを覚悟すべきだろうか。それを覚悟してまでこんなことを言うのは、蒼樹があんなに男女の付き合いに潔癖な様相を見せていたのに、こういうところで抜けているから心配なのだ。
簡単に他人を信じないような、昔の蒼樹だったらこんなことは心配しないのに、今の蒼樹は嘘も真実だと信じてしまうように、疑いを持つことをやめてしまったようだからだ。
特に下心がなく家に招いたり、部屋に入りたがる男はいない。女だってそうだろうし、何かを期待したり、期待させたりする行為なのだ。
だから、無自覚に、無意識に、相手を期待させるような行動を蒼樹がとるのなら、それはやめさせなければならない。
福田のためでもあり、なによりも、蒼樹が嫌な目にためを思ってのことだ。
「俺の言いたいこと判る?」
福田は蒼樹に向かって仏頂面になった。もうちょっと、蒼樹のことを狙っている人間がいることを自覚して欲しい。別に彼氏なんかじゃないけれど。最後にそう一言、自分の中で付け足すと、自身の情けなさに肩を落とした。
「福田さん」
「何」
「私、誰にでもこんな風に言ったりしませんよ」
「は」
「私の言いたいこと判ります?」
行儀悪く肘をついたまま、残りのコーラをずるずると飲み干していた福田に、蒼樹はニヤニヤと笑っていた。福田が嵌められたと、気付く頃には、完全に蒼樹の掌で躍らされたあとだった。
いつから、どこから、天然を演じる小悪魔的な蒼樹紅がいたのだろう。
福田はさぁーと顔が青くなったと思ったら、次の瞬間には火のついたように赤くなっていた
。
まんまと告白じみたことをさせられてしまったと、福田が髪の毛をかき乱して照れ隠しをする頃には、蒼樹は声を立てて笑っていた。
「恋愛の駆け引きぐらい、私だってやりますよ」
ファミレスの飾り気の無いカップを優雅に口に運びながら、はた、と動きを止めた蒼樹に、福田は思いっきりコーラを吸い込んでしまった。炭酸が喉を焼くようだった。コーラは鼻に抜け、思わず鼻水以外のものも鼻から垂れそうになってしまう。あまりの痛さに、思わず涙が滲んでしまった。
「げほっ、げほっ」
「だ、大丈夫ですか?」
咽た福田に驚いて慌てる蒼樹に、福田は叫びたくなった。
蒼樹嬢のせいだぞ!
と、叫びたがったが、げほげほと咳き込む福田は言葉を発することもできない。蒼樹に向かって口の中のコーラを吐き出さなかっただけマシだった。一歩寸前のところまで言ったが、それは危うくも回避され、人間としての尊厳を失わずに済んだ。
原因をつくった蒼樹は、自分が原因だとは露ほどにも感じていないようだった。
「ああ、ペーパー、ペーパー。もう、何してるんですか」
わたわたと添えつけられたペーパーを何枚も取って、福田に手渡した。腰を浮かし、前のめりになって福田の顔を覗き込む。
ああ、相変わらず胸が重そうだな、とか、頭の隅で少し思いながら、これだから天然女は苦手なんだ、と福田は苦々しく思った。
涙目の福田に、
「大丈夫ですか?」
と、蒼樹が覗き込みながら聞いた。
だから、あまり前のめりになるんじゃない、と福田は言わなかったが無言の訴えとして、蒼樹から顔を思い切り背けた。
重そうな胸の谷間が、襟ぐりから見えてしまう。そこを凝視するわけにはいかないし、胸が見えると指摘するわけにもいかない。変態のレッテルを無条件に貼られそうな気がして、福田は何もすることができない。
俺は変態ではない。
不可抗力で見えてしまっただけだ。
何回そんな風に自分に言い聞かせて、なるべく見ないようにしてきただろうか。でも、男の性というやつで、見えてしまうものに目が行かないわけはなく、つい、ちらりと視線を動かしてしまって、ああ、やってしまったと、また大仰に目を反らしてしまう。その繰り返しだった。
福田は受け取ったペーパーナプキンで口を拭い、手を噴いた。若干掌に口から漏れたコーラが付着していて、ごしごし擦った。
恥ずかしいところ見られてしまった。それもこれも、みんな、
「蒼樹嬢のせいだぞ!」
「私、何もしてないじゃないですか!」
「した! ていうか、言った!」
「変なことなんて一言も言ってません!」
福田の指摘に対して、蒼樹は、どこが変なんですかとぷりぷり頬を膨らまして抗議した。
額面通り、蒼樹の言ったこと全てが福田を動揺させる「変なこと」であるのに、蒼樹は全く気付いてないようだ。福田は丸めたペーパーナプキンのゴミを蒼樹に投げつけた。
「汚っ!」
「ふん!」
「何なんですか、もう!」
「それはこっちが言いたいんだ!」
「何でですか!」
「蒼樹嬢こそ、何でだよ!」
「何がです?」
蒼樹が投げ返してきたゴミを顔の目の前で見事にキャッチしながら、福田はそのゴミをぎゅぎゅっと強く握った。
「俺の家の場所知らないからって、どうだってんだよ」
「だって、福田さんは私の自宅の場所知ってるじゃないですか。いつも、送ってもらっているし」
「……まあな」
打ち合わせをした帰りや、福田組で集まった帰りなど、蒼樹を自宅まで送り届けるのは、福田の役割になっていた。誰に指示されたわけではない。蒼樹が図々しく福田に「送ってください」と頼んだわけでもない。
事の切っ掛けは、福田が蒼樹に「乗れば」と声をかけたことだろうか。
「福田さんは知ってて、私は知らないなんて、不公平じゃないですか」
蒼樹を自宅まで送り届けているのだから、福田が蒼樹の自宅マンションの場所を知っていて当然だ。蒼樹が福田を家まで送るという、逆のことが起こる確立はほとんどないに等しい。知らなくても困らないだろうに、知らないことが不公平だなんて、おかしな話だ。福田の自宅の場所を知って、蒼樹は福田の自宅を訪れるとでもいうのか。
あり得ない妄想だ、それは。蒼樹が福田の部屋を訪れる?そこに一体、蒼樹のどんな気持ちが隠れているのか。
「平丸さんや、亜城木先生のお仕事場所だって知ってるのに、福田さんのだけ知らないんですよね。」
福田が蒼樹の真意を掴もうと考えていた矢先の蒼樹の発言に、福田はピクリと反応した。実に突っ込みたい箇所が随所にあった。どういう敬意で平丸の仕事場を知ったのだとか、行ったのかだとか、かなり気になったのに、福田はそれを聞くのを躊躇った。聞いたら気になった理由付けをしなければならないような気がしたからだ。
福田は蒼樹の様子をまじまじと観察した。
福田が蒼樹によって心を乱されているなど、これまた掠りもしないほどに気づかないらしい。
「俺の家の場所なんか知ってどうすんの?」
「どうするって、特には……」
そんなに意識されないものなのかねえ、と福田は頬杖をついて、ため息をついた。
「なにかあったときに、知っておいたほうが、いいじゃないですか」
「なにかってなんだよ」
すぐに答えられない蒼樹に、福田は首を横に振りながらいった。
「そういうことは、男には聞いちゃいけないんだぜ」
「なんでですか?」
そう聞かれると思ったが、それを俺の口から言うのかと、福田はたじろいだ。それを言うということは、自分がそう意識していると宣言するようなものだ。
どうすべきか。言うか言うまいか。福田が迷っている間も、蒼樹はじっと福田を見ていた。
「男だってむやみやたらと女を部屋には入れないの」
福田は仕方なく頬杖をついたまま言った。
「判るだろ?」
と、半眼で見てやっても、なんでですか、と頬を膨らましてむくれるのだから、なんて女だと、福田は驚きを隠せない。判らないはずがないだろう。だって、蒼樹だってそうしているに決まっている。現に福田は蒼樹の部屋には入ったことがない。
「蒼樹嬢が、男を部屋に入れない理由と同じ。ん? 逆か?」
「え」
「普通に考えて、そう簡単に異性を部屋に上がらせないだろ。蒼樹嬢だってそうしてんじゃん。そういう意味で言ってる」
なんとも思ってなければ部屋に入れることもあるのだろうが、別に思っていても思っていなくても、異性が部屋に入るということを特別視するという風潮は、たぶん古今東西存在するのだ。好きとか、好きじゃないとか、そんなことは関係なく、パーソナルな空間に異性との二人きりのシチュエーションという特別な環境が、何も思っていない男女二人の距離をまさしく近くする。
蒼樹と自分がそんな風になり得るか?
わからない。
わからないが、すでにそんな風になり得てしまうことがあるかもしれないと、意識してしまっている。
蒼樹は例の事件から男性不信気味になっている。そんな中で男性である福田に心を開いてくれたということは、嬉しいことであり、また複雑な気分にもさせてくれる。心を開いてくれたことを裏返して見れば、男性として意識されていないということであり、警戒心を抱くはずがない。
だから、そういうことを言うのだ。
ここで、俺は男だと強調してみることは、蒼樹にとって裏切りになるだろうか。
恥ずかしながら、福田は蒼樹のことを女として意識しているし、蒼樹にも男として意識してもらいたいという希望がある。でもそれを直接的に言うのは、福田は照れてしまって言えなかった。遠回しに、間接的に言って、蒼樹に伝わるだろうか。
平丸や亜城木とは違う存在になりたいと伝わるだろうか。
それが伝わってしまったら、この関係は終わるかもしれないことを覚悟すべきだろうか。それを覚悟してまでこんなことを言うのは、蒼樹があんなに男女の付き合いに潔癖な様相を見せていたのに、こういうところで抜けているから心配なのだ。
簡単に他人を信じないような、昔の蒼樹だったらこんなことは心配しないのに、今の蒼樹は嘘も真実だと信じてしまうように、疑いを持つことをやめてしまったようだからだ。
特に下心がなく家に招いたり、部屋に入りたがる男はいない。女だってそうだろうし、何かを期待したり、期待させたりする行為なのだ。
だから、無自覚に、無意識に、相手を期待させるような行動を蒼樹がとるのなら、それはやめさせなければならない。
福田のためでもあり、なによりも、蒼樹が嫌な目にためを思ってのことだ。
「俺の言いたいこと判る?」
福田は蒼樹に向かって仏頂面になった。もうちょっと、蒼樹のことを狙っている人間がいることを自覚して欲しい。別に彼氏なんかじゃないけれど。最後にそう一言、自分の中で付け足すと、自身の情けなさに肩を落とした。
「福田さん」
「何」
「私、誰にでもこんな風に言ったりしませんよ」
「は」
「私の言いたいこと判ります?」
行儀悪く肘をついたまま、残りのコーラをずるずると飲み干していた福田に、蒼樹はニヤニヤと笑っていた。福田が嵌められたと、気付く頃には、完全に蒼樹の掌で躍らされたあとだった。
いつから、どこから、天然を演じる小悪魔的な蒼樹紅がいたのだろう。
福田はさぁーと顔が青くなったと思ったら、次の瞬間には火のついたように赤くなっていた
。
まんまと告白じみたことをさせられてしまったと、福田が髪の毛をかき乱して照れ隠しをする頃には、蒼樹は声を立てて笑っていた。
「恋愛の駆け引きぐらい、私だってやりますよ」
Special thanx
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