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恋のメッセージ

「サプライズとか苦手なんだよ」
 彼はそう言ったけれど、私にとっては随分なサプライズで、私は手のひらに落とされた小さな箱と彼の顔を交互に見比べたのだった。
「なに」
「なにって……えっと……これは?」
 彼が答えを言わなくてもわかっている。
 たぶん、これは、私への誕生日のプレゼントだ。
 だから、彼が、「今日誕生日だろ」と、なぜか苦々しく言ったのを聞いて、「そうですよね」と、心の中で返事をしたのだ。そのまま黙ってしまった私に、居心地が悪くなったのか彼はがしがしと頭を掻いた。
「開けねーの?」
「開けてもいいんですか?」
「俺ならすぐに開ける」
 そうなんだ。
 だったら、今度、彼の誕生日の七月には気をつけなければならない。彼がどういう反応をするか気になるけれど、でも目の前で反応を返されることはなんだか怖いし、すごく恥ずかしい。できれば家に帰って開けてもらえれば、私の精神衛生上とっても良いのだけれど、彼の言葉を聴く限りそういうことはしないのだろう。
 貰ったその場で開けるというのだから。
 小さな箱を開けると、予想通り、ジュエリーボックスが入っていて、私はさらにどきどきした。
 開けようとする指先が微妙に震えていることに気づいて、私はこれ以上ないくらいに緊張しているのだと知った。
 開けたボックスの先に、私が想像する最上級のものが入っていたらどうすればいいのか。
 どういう反応をしたらいいのか。
 もうすでに、私の頭の中は混乱に極みに陥っていて、頭が真っ白になりそうだった。
 だからジュエリーボックスからそれを取り出したときに拍子抜けをした。それを言ったら、彼に怒られるかもしれない。
「……あれ……えっと、これは……?」
「ペンダントトップ」
 クラシカルなフレアモチーフの小ぶりなシルバーペンダントトップだった。ごつくて男性らしいイメージのあったシルバーアクセサリーよりもユニセックスな雰囲気のあるものだった。
 でもどうしてチャームだけなんだろう、そう思って彼の顔を見ると、予想していたのか早口にまくし立てた。
「チェーンはどうしようか迷ったんだけどよ、好みもあるし……ペンダントトップだけど、ジッパーチャームとかストラップとかできるから。蒼樹嬢、シルバーアクセとかしなそうだし」
 彼が早口でまくし立てるように言うときは、大抵照れていることが多くて、私はそんな彼を見ながら自然と笑みがこぼれた。
 確かにシルバーアクセサリーは持っていないし、つけたことも無い。
 逆に彼はそういうものが好きで、彼が良く知るテリトリーの中から、私にあうものを選んでくれたのかと思うと、彼のパーソナルな部分に私を許容してくれたような気がしてうれしくなった。
「ありがとうございます、福田さん」
「おう」
 手に取って掲げてみると、中央部にプリンセスカットの小さな石がはめ込まれていた。両脇をブルーダイヤに挟まれて中央にダイヤと三つ埋め込まれていた。それがキラキラと光っていた。
「ユリの紋章ですよね」
「そうだな」
「どうしてこのモチーフを選んだんですか?」
「安直だけど、蒼樹嬢の本名、優梨子だろ?」
 優梨子の「ゆり」と紋章の「ユリ」を掛け合わせたのだと聞いて、なるほどと納得した。
 フルール・ド・リスはフランス王家のブルボン家の紋章でも使われている紋章だ。ヨーロッパの紋章にも多く使われているし、文明の初期から工芸に使われてきたモチーフの一つだ。シルバーアクセサリーのモチーフでも定番なような気がした。王権や宗教的な意味合いも持っていて、さまざまな解釈がある。
 直訳すればユリの花だけれど、本当はユリがモチーフになったわけではなく、アイリス──アヤメを様式化したモチーフだ。
 確か、アヤメの花言葉は──
 そこまで考えて、私は急激にまた顔に熱が溜まるのを感じた。
 彼が果たしてそこまで意味合いを考えて、このモチーフを選んだという保証は可能性としては一パーセントもないだろう。
 だけれど、どうしてこう彼は、唐突に、突然に、爆弾を落としていくのだろう。
 サプライズが苦手だなんて嘘だ。
 意識してしまったら、どうしたって考えてしまうのが私という人間なのに。
「福田さん、私、チェーンとか持ってないので、買いに行きたいんですけど。お店とか知らないので、連れて行ってくれませんか?」
 何を驚いた顔をしているのだろう。
 まさか、私がこれを身に付けるとは思っていなかったのだろうか。
 好きな人から貰ったものを身に付けない女がいるのだろうか。
 熱烈な愛のメッセージの詰まったものを、身に付けない人がいるというのだろうか。
「いっしょに選んでくれませんか」
 アイリスの花言葉は恋のメッセージ。
 あなたを大切にします、という恋のメッセージ。
 もう少し時間がたったら、彼にそのことを話してみよう。
 そうしたら、盛大に照れて怒るかもしれない。

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桃の気持ち

 真っ赤な顔して走ってた。
 校長室の中。部屋を入ってすぐの場所にそれはあった。
 生徒達と壁を作らないようにという校長の配慮で、校長室はいつもドアが開放されていて、それは廊下からも見えていた。
 だから朝からそれが気になっていたし、放課後の掃除の時間が待ち遠しかった。
 どきどきしながら校長室の中に入ると、しばしその前で立ち止まった。
 これを見るためにわざわざ駆け足で校長室まで来たのだ。
 廊下を走るなんて、普段だったら絶対しない。だから少しだけどきどきした。それを見ることの興奮とは違う、少し悪いことをしてしまったときの好奇心と後ろめたさによるどきどきだ。
 それに興味があることが、どうしてかクラスメイトに知られたくなかった。
 何か言われるかもしれない、という思いもあったし、それを独り占めしたい気持ちもあった。
 果たして、これに気付いている人はどれだけいるだろう。
 自分だけがこれに気付いていればいいのに。
 そうしたら、まるで、これが、自分のもののように感じるのだ。
 両手でほうきをぎゅっと持っていた。そのうち、左手をそっとほうきから離して、それに指を伸ばした。
「あれ、青木だけかよ」
 背後からやたら大きな声が聞こえて、優梨子はびくりと肩を揺らして固まってしまった。
 のばした指をバレないように、不自然にならないようにさりげなく戻そうとした。
 だけど、校長室に入ってきた、優梨子からすれば招かざる客は目ざとく見つけて、優梨子の背後からのぞき込むように手元を見た。
「なに、そのうさぎが気になんの」
「うさぎのお雛さまよ」
「ふぅん。おまえ、こういうの好きだよな。俺は嫌いだけど」
「聞いてないし、別に福田くんが好きでも嫌いでも関係ない」
 福田真太というクラスメイトは、粗雑で声が大きくて、休み時間の度にグループでつるんでいる。
 熱かろうと寒かろうとニット帽を被っているのが特徴的で、先生に注意されてもやめる様子は全くない。
 大抵において彼はグループのリーダー的な存在で、偉そうな態度がクラスの女子達の反感を買っていたけれど、男子達にはすごく人気があった。
 できれば穏やかにすごしたい優梨子には真太は間逆の存在で、疎ましく、そして苦手だった。
「そういえば、ひな人形って言い伝えみたなのあったよな」
 真太がそんなことを言うので、振り返ると、思いがけず顔が近くにあって、優梨子は思わずのけ反った。
「え、」
「知らねーの?ひな祭りの日が終わっても片さないと行き遅れるってやつ」
「何に」
「はあ?嫁にだよ。結婚出来ないってやつ。まじ知んねーのかよ。あ、おまえ、去年もしばらく飾っておいたんだろ」
 ひひひ、と笑う真太の顔に怒りを覚えながらも、頭の片隅にあるのは今年も家の一室に、どん、と構えた大きなひな壇だ。
 祖父母が優梨子のためにと、大きく立派なひな壇を買ってくれた。
 綺麗な衣装をきた人形は豪奢で、値段なんて皆目検討のつかない優梨子だったけれど、それがどれだけ立派なものかわかるくらいだった。
 あまりにも綺麗だからどうしても片付けてしまうのが惜しくて、去年はしばらく出していた気がする。
「ま、青木みたいなやつ貰う相手なんかいないだろうけど」
「うるさい!」
 囃し立てる真太に一喝するも、どうしよう、と優梨子は心配になった。白くて綺麗なウェディングドレスを着て、王子様みたいな人と結婚するのが夢なのに。
 真太に弱みを見せることは屈辱だったけれど、そんな顔をしていることも気付かない程、優梨子は不安になった。
 そんな優梨子に真太はまだ笑っていた。
「行き遅れたら俺が貰ってやるよ!」
「うるさいったら!」
 にやついた真太の顔がイライラする。だけど、優梨子のイライラした表情も真太に
とっては面白いのか、睨んでやると片眉を器用にあげて「おーコワ」と冷やかした。
「じゃあな!俺用事あるから帰る!」
「え、ちょっと!掃除!」
「別にこーちょーいないし、いーんじゃねーの?やんなくても!」
 じゃあな!と言って逃げるように駆けて行く真太の後ろ姿を見ながら、優梨子は真太の言った言葉を反芻した。
「行き遅れたらって……え、ち、ちょっと、待って、」
 真太はなんと言ったっけ。
「なんで、私があんたに貰われなきゃいけないのよ!」
 もう姿が見えなくなった廊下に向かって優梨子は怒鳴った。
「おや、今日は元気のいい子が掃除当番なのかな?」
 と、校長室に戻ってきた校長にそう言われた優梨子の顔は、真っ赤に染まっていた。

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結婚しようよ

 いつのまにか好きになっていたんだと思います。
 下手な編集よりも厳しくダメ出しする、と宣言して蒼樹のパンチラ指導を申し出てからどれくらいの月日が過ぎたろうか。
 パンチラ指導をした青葉の頃はとっくの昔に終了していたし、今は彼女の作品のネームチェックなどしていない。
 元々そりの合わない二人だったから、パンチラ指導がなくなったらそれで接点もほとんどなくなると思っていた。福田組なんて同期の漫画家たちを呼んでいるが、個人的に彼女と親しくなるような接点は皆無だったはずだ。
 だけれど、それは福田の検討違いだったのだろうか。
 つまるところ、蒼樹との接点は失わせないままだったし、同期の中でたぶん、というか絶対に一番逢っているのは蒼樹だった。
 逢えば相変わらず漫画に関して言えば激論を交わし、最終的にはお互いの作風は好きじゃないとまで言ってしまう。それも、出会った頃から全く変わらなくて、結局それを言われたところで、二人にとってはどうでもいいことに思えた。
 互いの作風が好きじゃないのは事実だが、互いの能力については認め合っていたからだ。
 蒼樹はさすがにストーリキング準キングなだけあって、筋道をつけた構成がうまいし、心理表現がずば抜けて高い。原作者一本でやっている高木曰く、どこにでもあるような無難なストーリーを膨らませる力が高いのだそうだ。
 福田はというと、これぞ少年漫画といったスピード感のある漫画を描いてくる。要所要所にギャグもいれつつ、少年が憧れるようなものを題材にする。不良にしろバイクにしろ、男ならかっこよく、一度は少年の誰もが思うようなものを書く。絵は相変わらず荒削りだが、上手い下手を通り越してそれが福田の作風にマッチしているのだから面白い。
 普段の生活だって趣味や好みが合っているとは言いがたく、じゃあどうしてこんなに蒼樹が近い存在になったのか、福田はよくわからなかった。
 青葉の頃が終わってから、また蒼樹と連絡をとるようになったのはいつぐらいからだったろう。青葉の打ち切りが決まって、最終原稿が終了したとき律儀にも「ありがとうございました」と、礼の電話があったことを思い出す。
 そのあと、彼女は平丸と付き合うようになったし、彼氏もちに気安く電話できるほど福田は男女の仲の友情を信じていなかった。
 もしかしたら、もうそのときには蒼樹のことが好きだったのかもしれない。
 「彼氏もちに」なんて相手のことを思ってしまったということは、少なくとも女として蒼樹のことを見ていたに違いないからだ。
 でも彼女はなんの気兼ねもなく、また福田に連絡をとった。
 それは仕事仲間としてだったろうし、そのときの福田も同じように仕事仲間として対応したつもりだったのだけれど、なにがどうしてこうなったのか、やはりわからなかった。
 今も普通に彼女の漫画のアイデアや指摘をするし、彼女も彼女で福田の漫画のアドバイスをするようになった。
 取材と称して、彼女は一人では行きにくいところに福田を連れて行くようになったし、バイクのレースってどういうものなんですか、なんて彼女がいうからわざわざ二人してサーキットまで見に行った。
 そのときはレースクイーンに釘付けになった福田に蒼樹が散々文句を言って、最終的には喧嘩になって何をしにいったのかわからなくなったぐらいだ。
 そんな二人の状況に周りはなんやかんやと騒ぐのだ。
 アシスタントには「それで付き合ってないとかおかしいっす」と言われる。
 一番面倒なのは、担当編集者の雄二郎で、「福田くん、女の口説き方教えようか?」とわざわざ本まで買って送り届けてきた。
 開封した途端に投げ捨てたが、今思い出しても腹が立つ。
「貧乏揺すり」
「お?ああ、スマン」
 イライラして自然と出てしまった貧乏揺すりを、福田の前の席に坐った蒼樹がぴしゃりと注意した。
 いつもそこはアシスタントの安岡の席だったが、生憎風邪を引いて休みだ。そもそも初連載のころから最低限のアシスタントしか入れていないので、一人休まれるとぐんと作業が遅くなる。
 そんな話を電話でしたら、「手伝いにいきます」と言われて、今に至る。
 彼女は今連載を持っていない。ついこの間三年ほど連載していた作品が無事に円満終了して、次回作のネームを作っているところだ。
 たぶん……というか、絶対に、これは確証を持って、自分は蒼樹のことが好きなのだ。
 どこが好きかと聞かれたら、どこだろう。
 強いて言うなら、もういい加減聞きなれてしまった可愛げのない憎まれ口だろうか。それほどまでに一緒にいる時間が長いのかと思って、確かに雄二郎たちが言うように、どうしてつきあっていないのか確かに不思議だ。
 ベタ用の筆ペンを持つ指先は、桜色に綺麗に塗られた爪があって、その綺麗な爪にも墨がついていた。
 汚れを気にすることなく作業をしている蒼樹を見ながら、ぽつりと言った。
「結婚しちまうか」
「いいですよ」
 ぽとりとペンが落ちた音が聞こえて、蒼樹はようやく原稿から顔をあげた。
「福田さん?」
「蒼樹嬢……今、冗談で返した?」
「今の冗談だったんですか。酷いですね」
「いや、本気だけど」
「ならよかった」
「いや、冗談通じないの知ってるけど、それ、本気?」
「私は嘘は言いませんし、言えません」
 知ってるでしょう。とメガネのレンズの向こう側から蒼樹の目が語っていた。
「いや、ま、知ってっけど」
 それにしても、今のやりとりは何だったのだろう。何が起きたのだろう、良いことか悪いことかの判断もできないほど、福田は混乱していたが、蒼樹はしれっとして、何事もなかったかのように原稿に再度向かった。
 だからこそ、冷静な蒼樹が、予想の斜め上を行っていて、福田はどう反応したらいいのかわからなくなった。
「でも、ムードも何もないものですね。原稿やりながらプロポーズされるとは思いませんでした」
「なんつーの?こう、ぼろっと、内心が出たんだよ。こっちこそ拍子抜けだぜ。ちょっとは驚くとか照れるとかしないのかよ」
「必死に隠してるんですって」
 そういってひたすら下を向いてベタ塗りをしている彼女の表情はよくわからない。
 だから福田もペンを握りなおして、インクの中にペン先を付けた。
「そういえば、私たち付き合ってましたっけ?」
「あ〜?いや、別に」
「ですよね」
「でも周りがうるさかった」
 特に雄二郎さんとか。そう言ったら、蒼樹もくすりと微笑んで、うちのスタッフもすごかったですよ。と言った。
「誤解しないように先に言っとくけど、一緒にいてもいいなと思ったから言ったんだけど」
「私も一緒にいれたらいいなと思って返事をしました」
「あそ」
「はい」
 結局なんだ、俺たちは結婚することになったのか。
「これ終わったら、出掛けるか」
「どこへ?」
「指輪でも買いに」
「……え、あ……」
 頬杖をついて、作業に没頭していた蒼樹を見ながらそんなことを言ったら、先ほどとは打って変わっていきなり蒼樹が顔を上げた。目を見開いて心底驚いた表情をしていた。
 視線がかち合うと、ぼっと音がしそうなほど顔を真っ赤にした。
 そんな蒼樹を見て、福田は心底呆れた。
 この女はやっぱりどこか、ズレている。
「いまさら照れんのか!」
「う、うるさいです!」
 見ないでください!と上擦った声をあげて、片手で顔を隠してしまった蒼樹を見ながら福田は笑った。だから飽きない。
 あの、と遠慮がちな声がどこからともなく聞こえて、福田も蒼樹もぎくりと身を強張らせた。
「先生、俺いるの忘れないでほしいんすけど」
 隣で作業していたアシスタントが、心底居場所がなさそうに「すみません」と言った。

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煙の向こうに見える顔

 彼女は意外にも庶民派だったのだろうか。
 もうもうと立ち上がる煙の向こうに見えるかわいらしい顔を見て、平丸はどうしたらいいのか迷った。
「焼肉がいいです」
 蒼樹がそう言ったので、平丸は盛大に「え!」と驚いた。
 驚いた平丸に蒼樹がさらに驚いて、「え!」と重ねるように声を上げたのだった。
「平丸さん焼肉ダメでしたか?」
「いえ……!いえいえ、大好きですよ!」
「本当ですか!」
 顔の前に手を合わせて、不安そうな顔をした蒼樹は平丸のその言葉にほっとしたように肩の力を抜いた。
 実際のところ焼肉は好きでも嫌いでもないが、しいていうなら「食べない」かもしれない。
 それを言うなら、蒼樹の好きなダージリンの紅茶も、お茶会で用意するケーキ類やスコーンも、平丸は日常的には「食べない」。
 そもそも食に対してこだわりなどなく、彼女が好きだから用意するし、食べるし、彼女が食べたいと思えるものを食べればいい。
 蒼樹が焼肉に行きたいなど予想外も予想外で、予想の斜め上を行った答えで、平丸は本当にどうしようか悩む。
 今日の本来の平丸のプランでは、フレンチに連れて行く予定だった。だからそのために予約をしていたほどだったのだけれど、なぜに蒼樹に「何が食べたいですか?」などと聞いてしまったのだろう。
 そこまでプランの中に組み立てていたのなら、「今日はフレンチを予約しているのですが……」と切り出せばいいものを、どうして自分は「何が食べたいですか」なんて聞いたのだろう。
 三分前の自分の行動が理解不能である。
 そして、聞いてしまったら蒼樹の希望をかなえてやりたいと思うのが男の性であって、今更「今日はフレンチなんです」なんて言えない。
 もし言っても、蒼樹だったら「そうなんですか、おいしそうですね」と柔らかに笑んでくれただろう。そこに誇大な平丸の妄想が入っていたとしても、たぶん彼女は平丸に気を遣って「行きましょう」と言ってくれると思う。
 だけれど、今彼女が食べたいのは焼肉なのだ。
 こんな良家のお嬢さん然とした彼女が食べたいのは、じゅーじゅー肉が焼ける焼肉なのだ。

 新宿にあるその焼肉店は少しもデートスポットという雰囲気がしなかった。個室といっても完全な個室ではなく、ついたてがある程度で、隣のどんちゃん騒ぎが否応なしに聞こえてくる。網の上にトングで肉を載せているのは、蒼樹だった。
「平丸さん食べないとこげちゃいますよ」
「は、はい」
 そう言いながら、蒼樹はきらきらと煌くピンクのルージュをつけた小さな口の中に牛タンを押し込んだ。彼女は牛タンが好きなようで、先ほどからそればかりを食べているようだった。
 網の置いてあるコンロから煙は坐れるといっても、人気店なのか満席な店内はうっすらと白い靄が掛かったように煙が充満していた。
 せっかく着てきたスーツもにおいや脂がついてしまうし、蒼樹の服だってそうだ。
 髪や身体全体が脂の匂いに塗れるというのに、彼女はそんなことはお構い無しにおいしそうに食べている。
 結局焼肉なんてどこがいいのかわからなかった平丸は、「新宿に美味しいお店があるんです」といった蒼樹の提案を受け入れざるを得なかった。
 フレンチがぱあになったのに続き、デートのエスコートは失敗続きだ。
 平丸の中ではフレンチで食事をして、ワインを飲みすぎた蒼樹を介抱するといって六本木の平丸の自宅へ連れて行き、あわよくば頂いてしまおうという算段だったのだ。
 そのためのムード作りも昨日までに部屋に施しておいたというのに。
 蒼樹の手にある細身のグラスには高そうなワインでなくて、どこの居酒屋にもありそうなピーチウーロンハイで、肉を食べる合間にコクコクと飲んでいる。
 どんな姿でもかわいいことはかわいいのだが、焼肉がディナーでは全くそんな雰囲気になりそうもない。
「平丸さん、どうぞ」
 と、二人を分かつ炭火の網から蒼樹が平丸の皿に運ぶ最高の焼き加減の肉を、平丸はぎくしゃくと口に運んだのだった。

 結局蒼樹がお酒に酔いすぎることも、ムードが高まることもなく、二人は平丸のポルシェに乗っていた。
 送りますといった平丸に、蒼樹は笑顔で「ありがとうございます」と言ったものだから、もう平丸のマンションに連れて行くこともできないし、無理やり連れて行くことなど平丸にそんな勇気があるはずはなかった。
 案の定ポルシェの中も二人分の焼肉臭が篭り始めていたし、そのことがわかっているのか蒼樹も最初は「いいです」と断っていたのだ。
「なんか、すみません。こんな高級車なのに、匂いのつく場所選んじゃいましたね」
 車に乗り込んでしばらくすると、困ったように笑った蒼樹が言った。
 自分の選択がミスだったと、謝っているのだろう。平丸は恐縮して、ぶんぶんと顔を横に振った。
「大丈夫です、別に車なんか。それより、蒼樹さんが焼肉を好きだとは驚きました」
「そうですか?でも、あそこ本当においしかったでしょう」
「あ、はい、そうですね」
「といっても、私も焼肉店でチェーン店以外で知っている店って、あそこしかないんですけど」
「そうなんですか?」
「ええ、焼肉なんて普段行きませんから」
「あ、蒼樹さんの秘密のお店ってことですね」
 井の頭通りを走らせながら、平丸はちらりと助手席に座る蒼樹の姿を見た。すると、彼女は可笑しそうに口元に手を当てて微笑んでいた。
「秘密というか……前に福田さんに教えてもらったお店なんですよ。おいしかったから、また行きたいなって思っていて。でも一人で行くにはなかなか」
「え、」
 思いも寄らなかった名前が蒼樹の口から出て、平丸は隣の蒼樹を凝視した。丁度信号待ちでよかった。そうでなければわき見運転か、急ブレーキで事故を起こしてしまうところだった。それって、
「福田くんと一緒に行ったってことですか?」
「はい、打ち合わせの帰りに」
 しばらく蒼樹を凝視していた平丸は、蒼樹にいぶかしげに「平丸さん?」と声をかけられて信号が青に変わっていることに気付いて、あわててアクセルを踏んだ。

 およそ一時間のドライブで、沈黙の時間のほうが圧倒的に多く、蒼樹もその沈黙を破ろうとせず窓の外を見ていた。
「今日はご馳走様でした」
 部屋の前まで送ろうと思ったが、蒼樹に「ここでいいです」と断られてしまった。
 車が発進するまではてこでもマンションの前で動かなそうな蒼樹に、何かを言おうとして平丸は口を開きかけた。
 だけど結局何もいえず、「それでは」と一言、なんのムードもない別れの言葉言って、サイドブレーキを下ろしたのだった。

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江古田まで

どうしようもないから、すぐに江古田まで出掛けよう。

「それじゃ頂いていきますね。ご苦労様でした」
「よろしくお願いします」
 深々と頭を下げると、頭の上から「また連絡します」と山久の声が降ってきた。山久のぴかぴかに磨き上げられた革靴を見ながら、蒼樹はバレないように溜め息を小さく吐いた。
 いつも派手なシャツを着ている男の足下は、実は落ち着いた靴を履いているのだと知った。
 いつまでも頭を下げ続ける蒼樹を、「真面目だな」とでも思っているのだろうか、くすり、と山久が苦笑したような気がした。
 玄関のドアノブを回した音がして、カツカツと靴音が去って行く。
 バタンとしまった玄関ドアを蒼樹はぼうっと見ていた。
 開けられた玄関から外の空気が入ってきた。
 今日は随分と暖かいらしい。ふわりと軽くて温い空気の匂いがした。
 そういえば、部屋の空気も暖かかった。
 資料や漫画など書籍の多い部屋は、まるで古書店のように紙とインクの匂いが充満していた。
 昨日までに原稿はほとんど終わっていたので、最終チェックと仕上げを行うだけだった。丁度午前中にそれをやっつけてしまえば、昼近くになって出社してくる山久に連絡を入れてもすぐに取りに来てくれるはずだ。
 一人机に向かった。
 一人で描いていたときと机の配置は変わらない。窓に向かって自然光を十分に取り入れた場所。
 カーテンの隙間から外を見ると、いつもと変わらずテーブルとベンチしかない殺風景な姿しかない。
 今日はスタッフは一人もいない。
 連載を始めてから大して広くもない部屋が、一人でいると途轍もなく広く感じるようになるときがあった。
「逢いたいなあ」
 一人が寂しいなんて、いつから感じはじめたのだろう。
「逢いたくなりました」
「やけに素直だな」
「疲れたんです」
「何かあったのか?」
「特には。でも酷く疲れました」
 だから、電話をした。
 通話履歴に一番名前が残っているから、番号を呼び出すのは簡単だった。
 きっと、向こうも原稿が上がっていると思ったから。
 いつもだったら、「今大丈夫ですか?」くらいの気遣いをするのだけれど、なんだか今日は出来なかった。電話に相手が出ると同時に、「逢いたい」と言った。
 疲れた。
 いろいろなことが。
 仕事が嫌になったわけじゃない。嫌になるわけじゃない。
 確かに今週はネームを起こすのが難しかったし、随分時間をかけたけれど。それでも、今だって、自分の作品が一番好きだ。
 一番面白いか、と言われると以前のように「うん」とは即答できないかもしれないが。
 電話の向こうは押し黙った蒼樹の真意を確かめるかのように、黙ったままだった。
 それが拒絶されているように感じて、胸が苦しくなった。
 胸が苦しくて、鼻の奥がつんと痛くなってきた。
 ああ、だめだ。
「逢いたいです」
 ひたすら、それだけを繰り返す女を、彼はどう思うのだろう。
 ああ、だめだ。
 苦しくて、声が掠れる。喉が張り付いて、うまく言葉を紡げなくなってくる。
 ああ、だめだ。
 それだけは、だめだ。
「逢いに行ってやろうか?」
 彼は優しいから、悟ってしまう、今にも零れてしまう。
「いいえ、逢いに行きます」
 だから、唇を噛んで、せめてもの強がりをする。
 これから急いで着替えて、化粧をする。慌ててマスカラを瞼に落とさないように、ルージュはしないでリップクリームだけで。小さなポシェットに財布とケータイだけで十分だ。
 だから、
「待っていてください」
 今すぐ逢いに行くから、待っていて。
 電話の向こうで、「おい」だの何だの言っているように聞こえた気がしたけれど、通話を切った。
 電話を切ると、すぐにもう一度声を聞きたくなってもう一度履歴を呼び出した。福田真太と表示される名前に、堪えた涙がぽろりと落ちた。
 どうしようもないから、すぐに江古田まで出掛けよう。

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