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デリカテッセン~コミュニケーション~

「おはよう。今日の朝食は──」
 で始まるポストイットをこだわりの無垢のダイニングテーブルから、ぺり、と剥がして、ほあ、と欠伸をする。日は既に高く上っていて、時刻は間もなく九時になるところだった。剥がしたポストイットをもう一度丁寧にテーブルの上に置いて、キッチンへ向かった。
 これまたこだわりの白とターコイズブルーのタイルが印象的なキッチンが「おはよう、お寝坊さん」と、まるでキッチンを我が城とする主の変わりに挨拶しているような気さえする。
 冷蔵庫を開けると、几帳面にストックされた下ごしらえ済みの食材たちがタッパーに入れられ、さらに何が入っているかわかるようにタグが貼り付けられている。いつ見ても整然としていて感心してしまう。ドアポケットから牛乳とポット型の浄水器を取り出して、肘でドアを閉めた。ぱたりと閉じたドアから、ぷすっと中の冷気が小さく飛び出す。
 手に持った牛乳パックとポットを台の上に置くと、ミルクパンを手に取った。ミルクパンにポットの水を入れ、火にかける。お湯が沸くまでの間に紅茶を計っておこう。そう思って棚に手を伸ばすと、おや、と気づく。籐籠の中に昨日まで入っていたレモンがなくなっていて、はて、彼は何に使ったのだろうと思いを巡らす。
 再び冷蔵庫を開けると、ドアポケットに小さなビンが二つ入っていた。あめ色の物体に、ああ、これかなと手に取った。蓋を開けて匂いをくんくんと嗅ぐと、甘い匂いがする。指につけて指につけてぺろりとなめると、甘酸っぱく、どことなくほろ苦い味がして、にやりと思わず笑ってしまった。
 これはおいしい。
 今日のおやつはクラッカーにこれを塗ろう。クラッカーはあったかしら、なんて考えているうちに、鍋の中の水がぐらぐらと揺れて沸騰しかけていた。
 ああ、いけない。茶葉を計ろうとしていたんだった。
 慌てて棚から茶葉を取り出した。小さな耐熱容器に茶葉を計りいれてミルクパンの中へと落とす。同時に火も消して蓋をした。ピンク色の砂時計を逆さにした。
 じっと砂が落ちるさまを見ながら、蓋の隙間から香ってきた紅茶の香りを胸いっぱい吸った。よしよし、大分頭がはっきりしてきた。
 ピンクの砂が完全に落ちるのを待って、蓋を開けるとミルクパンの中は見事なガーネット色だ。牛乳を入れると優しいベージュ色になる。ボーンチャイナの優しい白い色と相性抜群だ。
 カップをダイニングテーブルへ運んでようやく朝食である。ラップをとって、これでもか、というほどに野菜の入ったサンドウィッチを見てくすりと笑みを落とした。ぴりっとしたわさび菜とトマト、かりかりに焼いたベーコンとチーズ、オリーブオイルとブラックペッパーで和えたサラダが、どんっ、と固めのパンに挟み込まれていた。
「いただきます」
 手を合わせて頬張った。
 食べ終わったらシャワーを浴びて着替えよう。仕事をして、お昼になったら外で食事をとろう。そのついでになければクラッカーを買っておこう。午後からスタッフが入る予定だから、今日は冷蔵庫の例のものを振舞おうではないか。

 自宅は三階建てで、仕事場としてその三階を専用にしている。三階の仕事場へは外階段から入ることができ、スタッフや仕事関係者は外階段から直接仕事場にアクセスしてくる。外に仕事場を借りても良かったのだが、できるだけ自分のパーソナルな空間で仕事をするほうが昔からはかどった。もちろんそのことについては同居人である旦那様のご意向を伺った上での決定だったわけであるが、唯一彼が注文をつけたのが、パーソナルスペースと分けることだった。
 旦那さんは決して無断で仕事場に入ったりしないし、許可が無い限り入ろうともしない。そもそも、私が仕事をしている間、ほとんどの時間は彼もまた仕事中であるし、たとえ夜中の泊り込みの作業になってしまったとしても、三階は防音フロアにしてあるので、迷惑が掛からないように配慮している。
 自宅で仕事をしている私に迷惑がかからないかというよりも、外で仕事をしている旦那さんのほうに迷惑がかからないか、私は考えてしまうのだ。
 なにしろ旦那さんは私が起きるよりもずっと早く起きて仕事にいくわけで、私の生活サイクルとは異なっているわけだ。朝早く仕事にいく旦那さんを見送ることも食事をつくることもできない私はなんて不甲斐ないのか、と落ち込むのだが、何せ起きられない。なるべく旦那さんの休みの土日には仕事をいれたくないから、月曜から金曜に全ての工程を仕上げなくてはいけなくて、どうしても旦那さんと生活サイクルが違ってくる。夜中三時寝の人と、朝五時起きの人ではどうしたってすれ違う。
 お昼に買ってきたクラッカーを少しだけトーストして、冷蔵庫に入っていた例のもの──レモンマーマレードを塗って、庭から取ってきたミントの葉をのせた。ああ、写真を撮りたいぐらいにかわいい、そう思って思わずケータイを取り出してピロリンと間抜けな音を立てた。お盆にクラッカーと人数分のカップとポットをのせて、仕事部屋に入った。
「みなさん、休憩にしましょう」
 そういうとがりがりと原稿に向かっていたスタッフたちが一斉に振り返った。
 お盆に乗せられたものを見て一様に「うわあ」と声を上げるので、私もそうでしょう、そうでしょう、と頷いてしまう。
「かわいい、おいしそうですね」
 今も出来る限り女性のスタッフをお願いしているおかげで、一気に仕事場は華やいだ。ポットから紅茶を注いだ。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」
 美味しいものを食べるのは幸福感に満ち溢れる。これは万国共通、男女の違いなんかない。
「このマーマレード、先生の旦那さん作ですか」
「あ、うん、そう。朝、冷蔵庫見たら入っていたの」
「器用ですよねえ。女の子の好み分かっているって感じですよね」
「……クラッカーに塗ったのは私よ?」
「先生、旦那さんと意地張っても仕方ないですよ」
「だって、全部あの人の手柄みたいじゃ、悔しいじゃない」
 言いながらクラッカーを口に入れると、ああ、やっぱり悔しいなんて思ってしまう。おいしい、おいしすぎる。悔しいというか、狡い、のほうが近い感情かもしれない。おいしいもので私を懐柔させる。満ち足りた気分にさせるなんて、狡いではないか。
 そんなことをスタッフに言ったら、惚気ですか、と言われた。
 そんなことは決してないのだけれど、そう聞こえたのならそれでもいいか、と思った。

「おかえりなさい、今日の夕食は──」
 で始まるポストイットをこだわりの無垢のダイニングテーブルの上にぺたりと貼った。
 ランチョンマットの上に筑前煮と菜の花のおひたしを置いてラップをかけた。時刻は八時になろうとしていた。一時間もすれば帰ってくるだろう。
 さて、もうひと頑張り仕事をしよう。
 階段を上がりかけて、ふと、思い出したように足を止め、もう一度ダイニングテーブルへ歩み寄る。
 電話の側にあるペンを手に取って、ポストイットに書き足した。
 本当に直接言いたいけれど、たぶん今日も直接会話をすることは難しいだろう。
「よし」
 ぱちん、とペンの蓋を閉めると、今度こそ階段を上がった。
 明日の朝のポストイットにはきっとこの返事が書かれている。そう思ったら、嬉しくなって足取り軽やかに仕事に向かうのだった。

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