苺のショートケーキをいただきましょう。
ふわふわのスポンジ生地に、生クリームをたっぷりと塗り付けて、赤くきらりと光るいちごを敷き詰める。その上にまたクリームを重ねて、スポンジ生地で蓋をする。すべてを覆い隠すように純白のドレスをまとったベースに、練り袋から繰り出される優雅なデコレーション、粒のそろったいちごを円周上に配置させる。
クリームのとろけるような甘さと、苺の程良い酸味が、このシンプルで基本中の基本とも言えるケーキの最大限の特徴であり魅力だ。
そんな魅力的なケーキがショーケースの中に鎮座している。他のケーキもあるけれど、ホールサイズにでん!と存在しているそれは、ショーケースの中では明らかに他のケーキを越える存在感を放っている。さしずめ主役といったところで、まるで、舞台に立つ主演女優のようだった。
そんな主演女優に心を奪われ、それを見続ける女と、その女の背中を呆れ返った表情で見下ろす男の姿が、デパート地下の食品売場──いわゆるデパ地下のとあるスイーツショップのショーケースの前にあった。
「おーい……いつまでそうやっているつもりだよ……」
「ま、待ってください……」
「早く決めろよ」
「だから、ちょっと待ってください」
ケーキを見つめていた女──蒼樹紅は、「ああ、どうしよう」と言いながら、視線はばっちり主演女優の苺ケーキに釘付けだった。かれこれ十分以上はショーケースの前に陣取り、ケーキを眺めている。店員も営業スマイルを顔に張り付けながら、若干表情筋をひくりと引きつらせているのではないか。腰を屈めてケーキに見入る蒼樹の姿を見下ろしながら、福田はため息をついた。
手に持っている紙袋は大した重さではないのに、こう待たされるとまるで漬け物石でも持っているのではないかと錯覚してしまうから驚きだ。エメラルドグリーンのショップバックは蒼樹の、黒に金字でショップロゴが刻まれているほうが福田の今日の戦利品である。
その二つのショップバックを右手で持ち、空いた左手はもちろん蒼樹の右手専用だ。
「どうせ、金出すのは俺なんだからさ……あーっと、じゃあ、この苺のショートケーキと、えっと、黒胡麻プリン一個ください」
福田の注文を受けて、店員が殊更にこやかに、「かしこまりました」と言うのを聞き終わる前に、その言葉に被せるように蒼樹が「あー!」と叫んだ。
「もう! なんで勝手に決めちゃうんですかあ!」
「勝手もなにも、ずっとこのケーキ見てたろうが!」
「まだ決めてはなかったのに! あっちのガトーショコラもおいしそうだなー、とか迷ってたのに!」
「優柔不断だから、俺が決めてやったんだよ。」
「優柔不断なんかじゃありません!」
「十分優柔不断だろうが。ケーキ一つまともに決められねえのかよ!」
「ば、バカにしたでしょう!? 今、バカにしたでしょう!」
「あーへいへい、うっさいうっさい」
「むか、むかつくー!」
突進しそうな勢いで福田に詰め寄る蒼樹の頭を、がしっ、と捕まえて「猪突猛進」と呟けば、「離してくださいっ!」と喚いた。いちいち行動が小動物のようで、福田はたまらず吹き出してしまった。
そんな二人に、おずおずとケーキ屋の店員が「あのー……」と声をかける。二人は、ハッとして店員を振り返ると、今度こそ引きつった笑みを浮かべる店員が、困惑と呆れの表情を入り混ぜて二人を見ていた。どうやら店員の鉄壁営業スマイルも、さすがに人目もはばからずいちゃつき始めた福田と蒼樹の前では、脆くも崩れさったようである。
「こちらのショートケーキと黒胡麻プリンでよろしいでしょうか?」
そんな店員の表情にようやく恥ずかしさが芽生えたのか、蒼樹の顔は瞬く間に真っ赤に染まり、先ほどまでの勢いはどこへ消えたのか、「あの」としどろもどろに答えようとする声も、尻すぼみになっていく。
「すいません。それで、お願いします」
そう告げた福田も、少しばかり焦った風に、言葉を詰まらせた。
店員がケーキを箱詰めしている間、福田が蒼樹のわき腹をつつくと、熱の引けない真っ赤な顔で下から福田を睨む。案外と目力のある蒼樹が睨むという行為は、時と場合によっては背筋を縮みあがらせる効果があるのだが、今回は明らかに蒼樹のほうが分が悪い。
そんな風に睨んでも、恥ずかしさを隠すためだと分かりきっているので、福田は睨む蒼樹をにやにやと見つめ返した。
「笑わないでくださいよっ!」
店員の前で失態を繰り返したくないのか、蒼樹が小さな声で怒る。それすらもかわいく思えて、福田はにやつく顔を止められずに、蒼樹に背中を叩かれることになるのは、今から数秒後のことだ。
蒼樹の部屋で紅茶を二人分淹れた。もちろん紅茶はダージリンと決まっている。キッチンからクラシックな大振りの花柄が描かれた盆の上にソーサーとカップを置く。
「皿、これでいい?」
後ろを振り返ると福田が食器棚を開けている。
「ええ、どれでもいいですよ」
「んじゃ、これにしよ。スプーンとフォークも、だな……」
「左の引き出しです」
「おお」
柄にリボンが象っているスプーンとフォークを出して、「蒼樹嬢が好きそうなやつだなあ」と、福田が笑った。
「一目惚れして買ったんです」
「多いよな、蒼樹嬢は。一目惚れで買っちゃいましたってやつ」
「だって可愛いんですもん」
今日もぶらりと立ち寄ったキッチン雑貨のお店でランチョンマットを色違いで二枚買った。実はグラスが揃いで二つあったり、男物の箸があったり、色違いのタオルがあったりする。ついつい雑貨屋に寄ると、福田にはこっちかなとか、これが好きそうだなと思って手にとってしまう。
恋をしているな、と蒼樹は自分の行動に恥ずかしくなるときもしばしばだ。
福田はそれに気づいているだろうか。なにも言わないところを見ると、全くそんなことには考えも及んでいないというところだろうか。それとも、分かっていてあえて口には出さないだけなのか。どちらにせよ、もし福田の口からそのことについて言及があるようなら、蒼樹は顔から火を噴くに違いない。
面と向かって、「これは福田さんのです」なんて、まだ恥ずかしくて言えない。
ローテーブルに広げられたデパ地下で買ってきたショートケーキ。生地はプレーン生地ではなくココア生地だ。白と茶色のコントラストがさらにおいしそうに感じる。一口含んで、なめらかな生クリームの感触に口に甘さが広がる。ココア生地のうっすらとした苦みが中和され、最後にいちごの酸味が口の中ではじける。
甘いだけでも、苦いだけでも、酸っぱいだけでもない。すべてが完璧に一つになりハーモニーとなって、完璧な味に仕上がる。どれかがかけても、どれかが多すぎてもよくない、絶妙なバランス。
それはまるで私のよう。このケーキはきっと、恋する人のケーキなのね。
それはまるで恋そのものだ。一筋縄ではいかない恋の味。甘くもあり、苦くもあり、酸っぱくもあり、けれどそのすべてが恋であり、そのどれかがかけても、どれかが多すぎても恋とは言わない。
そう思ったら、一口食べるごとに胸がキュンとして、手足をじたばたさせたい欲求にかられる。落ち着いていられない。
「んん〜!!!」
だらしなくフォークを口にくわえたまま、「おいひい!」とじたばたしていると、福田が呆れた声音で、「どんだけよ」と呟いた。その声にむっとして、福田の目の前にずいっ、と皿を押し出す。味わって食べてみろとの蒼樹の無言の圧力に、福田は渋々一口クリームを舐めた。それだけでこのおいしさがわかるのか?と疑いの目を向けた蒼樹に、福田は案の定「普通?」と首を傾げたのだ。
蒼樹は思わず髪の毛を掻き毟りたくなるような衝動に駆られる。
これは恋の味なのだ。
やっぱり福田は鈍すぎる。さんざん蒼樹のことを鈍いだとか、天然だとかいうけれど、福田のほうがもっと鈍いだろうに。蒼樹の乙女心など、どうやったらわかるのだろうか。
「このおいしさがわからないなんて、福田さん、乙女心をまるでわかっていないですね! 失礼です」
「なんでだよ。なんでおいしさで、乙女心うんぬんなんだよ。意味がわからないから」
そういうと、さらに一つだけ形よく残されていたいちごをひょいっと口の中に放り込んだ。
「あーっ! 私のいちご!」
「ひどいです!せっかく最後に残しておいたのに!」
「ちんたらしてる蒼樹嬢が悪い!」
もぐもぐと口を動かして、ごくんと音が聞こえた。あっという間に福田の口の中からいちごは消えてなくなってしまい、咀嚼されてしまわれた。
「ケーキに使ういちごってちょっと酸っぱくて、硬いよなー。」
満足げに福田が指についたクリームをぺろりと舐めた。もう福田にはとられまいと、蒼樹はケーキを自分のほうへ引き寄せ、囲い込む。そんな蒼樹の様子に福田は笑う。
「甘い匂いを発しておきながら、ちょっとすっぱいとか、ツンデレかよ。」
「そういうのツンデレって言いますか?」
どういう表現なんですか、それ。と、いちごを食べられた恨みがましい視線を福田に送りながら、蒼樹はケーキを頬張る。
「なーんつーか、蒼樹嬢って……」
いちごっぽい、と言おうとして、自分が恥ずかしいことを言おうとしていることに気づいて、福田は慌てて言葉を濁した。わざとらしい咳払いをして、あらぬ方向を向く。
「え、ちょっと。今、何かいいかけませんでした?」
「なにも、何でもねーよ」
「何ですか! 気になるじゃないですか」
いちごだったら食ってしまおうか。きっと柔らかく、甘酸っぱい。それじゃまるで、エロ親父だな。自分の単純な発想に呆れた。男って生き物は女ほど複雑ではないと思うが、と福田はプリンを一口運んだ。
「福田さんの黒胡麻プリン、おいしいですか?」
「結構」
「ふうん」
「……食べたい?」
「……そんなことないです」
微妙な間を持った返事に、福田はのどの奥で、くくっと笑う。正直になればいいのに。
「女つーのは、甘いものには目がねえのなー」
「そういうものなんです」
笑われた理由がわかっているのか、蒼樹は開き直ってつん、と上を向く。開き直りと素直なのは違うけどな、と福田は笑いながらスプーンでプリンを掬う。
「ま、男だってそうともいえるけど」
「何ですか?」
「甘いものが好きだっていう話」
甘いだけじゃつまらないが、こういう甘い雰囲気が嫌いなわけじゃない。男だって単純に甘いものが好きだ。ふわふわしてクリームみたいに、そしていちごのように甘酸っぱくて、そういちごのショートケーキみたいな、そんな甘いものが男だって好きだ。それにコーヒーみたいなたまには苦い思いもするかもしれないが、それはそれ、男女のつきあいなんて、甘いだけが全てじゃない。
「ほらよ」
スプーンに乗せられたプリンを、蒼樹の小さな口の前に差し出した。
クリームのとろけるような甘さと、苺の程良い酸味が、このシンプルで基本中の基本とも言えるケーキの最大限の特徴であり魅力だ。
そんな魅力的なケーキがショーケースの中に鎮座している。他のケーキもあるけれど、ホールサイズにでん!と存在しているそれは、ショーケースの中では明らかに他のケーキを越える存在感を放っている。さしずめ主役といったところで、まるで、舞台に立つ主演女優のようだった。
そんな主演女優に心を奪われ、それを見続ける女と、その女の背中を呆れ返った表情で見下ろす男の姿が、デパート地下の食品売場──いわゆるデパ地下のとあるスイーツショップのショーケースの前にあった。
「おーい……いつまでそうやっているつもりだよ……」
「ま、待ってください……」
「早く決めろよ」
「だから、ちょっと待ってください」
ケーキを見つめていた女──蒼樹紅は、「ああ、どうしよう」と言いながら、視線はばっちり主演女優の苺ケーキに釘付けだった。かれこれ十分以上はショーケースの前に陣取り、ケーキを眺めている。店員も営業スマイルを顔に張り付けながら、若干表情筋をひくりと引きつらせているのではないか。腰を屈めてケーキに見入る蒼樹の姿を見下ろしながら、福田はため息をついた。
手に持っている紙袋は大した重さではないのに、こう待たされるとまるで漬け物石でも持っているのではないかと錯覚してしまうから驚きだ。エメラルドグリーンのショップバックは蒼樹の、黒に金字でショップロゴが刻まれているほうが福田の今日の戦利品である。
その二つのショップバックを右手で持ち、空いた左手はもちろん蒼樹の右手専用だ。
「どうせ、金出すのは俺なんだからさ……あーっと、じゃあ、この苺のショートケーキと、えっと、黒胡麻プリン一個ください」
福田の注文を受けて、店員が殊更にこやかに、「かしこまりました」と言うのを聞き終わる前に、その言葉に被せるように蒼樹が「あー!」と叫んだ。
「もう! なんで勝手に決めちゃうんですかあ!」
「勝手もなにも、ずっとこのケーキ見てたろうが!」
「まだ決めてはなかったのに! あっちのガトーショコラもおいしそうだなー、とか迷ってたのに!」
「優柔不断だから、俺が決めてやったんだよ。」
「優柔不断なんかじゃありません!」
「十分優柔不断だろうが。ケーキ一つまともに決められねえのかよ!」
「ば、バカにしたでしょう!? 今、バカにしたでしょう!」
「あーへいへい、うっさいうっさい」
「むか、むかつくー!」
突進しそうな勢いで福田に詰め寄る蒼樹の頭を、がしっ、と捕まえて「猪突猛進」と呟けば、「離してくださいっ!」と喚いた。いちいち行動が小動物のようで、福田はたまらず吹き出してしまった。
そんな二人に、おずおずとケーキ屋の店員が「あのー……」と声をかける。二人は、ハッとして店員を振り返ると、今度こそ引きつった笑みを浮かべる店員が、困惑と呆れの表情を入り混ぜて二人を見ていた。どうやら店員の鉄壁営業スマイルも、さすがに人目もはばからずいちゃつき始めた福田と蒼樹の前では、脆くも崩れさったようである。
「こちらのショートケーキと黒胡麻プリンでよろしいでしょうか?」
そんな店員の表情にようやく恥ずかしさが芽生えたのか、蒼樹の顔は瞬く間に真っ赤に染まり、先ほどまでの勢いはどこへ消えたのか、「あの」としどろもどろに答えようとする声も、尻すぼみになっていく。
「すいません。それで、お願いします」
そう告げた福田も、少しばかり焦った風に、言葉を詰まらせた。
店員がケーキを箱詰めしている間、福田が蒼樹のわき腹をつつくと、熱の引けない真っ赤な顔で下から福田を睨む。案外と目力のある蒼樹が睨むという行為は、時と場合によっては背筋を縮みあがらせる効果があるのだが、今回は明らかに蒼樹のほうが分が悪い。
そんな風に睨んでも、恥ずかしさを隠すためだと分かりきっているので、福田は睨む蒼樹をにやにやと見つめ返した。
「笑わないでくださいよっ!」
店員の前で失態を繰り返したくないのか、蒼樹が小さな声で怒る。それすらもかわいく思えて、福田はにやつく顔を止められずに、蒼樹に背中を叩かれることになるのは、今から数秒後のことだ。
蒼樹の部屋で紅茶を二人分淹れた。もちろん紅茶はダージリンと決まっている。キッチンからクラシックな大振りの花柄が描かれた盆の上にソーサーとカップを置く。
「皿、これでいい?」
後ろを振り返ると福田が食器棚を開けている。
「ええ、どれでもいいですよ」
「んじゃ、これにしよ。スプーンとフォークも、だな……」
「左の引き出しです」
「おお」
柄にリボンが象っているスプーンとフォークを出して、「蒼樹嬢が好きそうなやつだなあ」と、福田が笑った。
「一目惚れして買ったんです」
「多いよな、蒼樹嬢は。一目惚れで買っちゃいましたってやつ」
「だって可愛いんですもん」
今日もぶらりと立ち寄ったキッチン雑貨のお店でランチョンマットを色違いで二枚買った。実はグラスが揃いで二つあったり、男物の箸があったり、色違いのタオルがあったりする。ついつい雑貨屋に寄ると、福田にはこっちかなとか、これが好きそうだなと思って手にとってしまう。
恋をしているな、と蒼樹は自分の行動に恥ずかしくなるときもしばしばだ。
福田はそれに気づいているだろうか。なにも言わないところを見ると、全くそんなことには考えも及んでいないというところだろうか。それとも、分かっていてあえて口には出さないだけなのか。どちらにせよ、もし福田の口からそのことについて言及があるようなら、蒼樹は顔から火を噴くに違いない。
面と向かって、「これは福田さんのです」なんて、まだ恥ずかしくて言えない。
ローテーブルに広げられたデパ地下で買ってきたショートケーキ。生地はプレーン生地ではなくココア生地だ。白と茶色のコントラストがさらにおいしそうに感じる。一口含んで、なめらかな生クリームの感触に口に甘さが広がる。ココア生地のうっすらとした苦みが中和され、最後にいちごの酸味が口の中ではじける。
甘いだけでも、苦いだけでも、酸っぱいだけでもない。すべてが完璧に一つになりハーモニーとなって、完璧な味に仕上がる。どれかがかけても、どれかが多すぎてもよくない、絶妙なバランス。
それはまるで私のよう。このケーキはきっと、恋する人のケーキなのね。
それはまるで恋そのものだ。一筋縄ではいかない恋の味。甘くもあり、苦くもあり、酸っぱくもあり、けれどそのすべてが恋であり、そのどれかがかけても、どれかが多すぎても恋とは言わない。
そう思ったら、一口食べるごとに胸がキュンとして、手足をじたばたさせたい欲求にかられる。落ち着いていられない。
「んん〜!!!」
だらしなくフォークを口にくわえたまま、「おいひい!」とじたばたしていると、福田が呆れた声音で、「どんだけよ」と呟いた。その声にむっとして、福田の目の前にずいっ、と皿を押し出す。味わって食べてみろとの蒼樹の無言の圧力に、福田は渋々一口クリームを舐めた。それだけでこのおいしさがわかるのか?と疑いの目を向けた蒼樹に、福田は案の定「普通?」と首を傾げたのだ。
蒼樹は思わず髪の毛を掻き毟りたくなるような衝動に駆られる。
これは恋の味なのだ。
やっぱり福田は鈍すぎる。さんざん蒼樹のことを鈍いだとか、天然だとかいうけれど、福田のほうがもっと鈍いだろうに。蒼樹の乙女心など、どうやったらわかるのだろうか。
「このおいしさがわからないなんて、福田さん、乙女心をまるでわかっていないですね! 失礼です」
「なんでだよ。なんでおいしさで、乙女心うんぬんなんだよ。意味がわからないから」
そういうと、さらに一つだけ形よく残されていたいちごをひょいっと口の中に放り込んだ。
「あーっ! 私のいちご!」
「ひどいです!せっかく最後に残しておいたのに!」
「ちんたらしてる蒼樹嬢が悪い!」
もぐもぐと口を動かして、ごくんと音が聞こえた。あっという間に福田の口の中からいちごは消えてなくなってしまい、咀嚼されてしまわれた。
「ケーキに使ういちごってちょっと酸っぱくて、硬いよなー。」
満足げに福田が指についたクリームをぺろりと舐めた。もう福田にはとられまいと、蒼樹はケーキを自分のほうへ引き寄せ、囲い込む。そんな蒼樹の様子に福田は笑う。
「甘い匂いを発しておきながら、ちょっとすっぱいとか、ツンデレかよ。」
「そういうのツンデレって言いますか?」
どういう表現なんですか、それ。と、いちごを食べられた恨みがましい視線を福田に送りながら、蒼樹はケーキを頬張る。
「なーんつーか、蒼樹嬢って……」
いちごっぽい、と言おうとして、自分が恥ずかしいことを言おうとしていることに気づいて、福田は慌てて言葉を濁した。わざとらしい咳払いをして、あらぬ方向を向く。
「え、ちょっと。今、何かいいかけませんでした?」
「なにも、何でもねーよ」
「何ですか! 気になるじゃないですか」
いちごだったら食ってしまおうか。きっと柔らかく、甘酸っぱい。それじゃまるで、エロ親父だな。自分の単純な発想に呆れた。男って生き物は女ほど複雑ではないと思うが、と福田はプリンを一口運んだ。
「福田さんの黒胡麻プリン、おいしいですか?」
「結構」
「ふうん」
「……食べたい?」
「……そんなことないです」
微妙な間を持った返事に、福田はのどの奥で、くくっと笑う。正直になればいいのに。
「女つーのは、甘いものには目がねえのなー」
「そういうものなんです」
笑われた理由がわかっているのか、蒼樹は開き直ってつん、と上を向く。開き直りと素直なのは違うけどな、と福田は笑いながらスプーンでプリンを掬う。
「ま、男だってそうともいえるけど」
「何ですか?」
「甘いものが好きだっていう話」
甘いだけじゃつまらないが、こういう甘い雰囲気が嫌いなわけじゃない。男だって単純に甘いものが好きだ。ふわふわしてクリームみたいに、そしていちごのように甘酸っぱくて、そういちごのショートケーキみたいな、そんな甘いものが男だって好きだ。それにコーヒーみたいなたまには苦い思いもするかもしれないが、それはそれ、男女のつきあいなんて、甘いだけが全てじゃない。
「ほらよ」
スプーンに乗せられたプリンを、蒼樹の小さな口の前に差し出した。
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Happy Halloween
太陽がさんさんと輝く秋の昼下がり。もう少ししたら日が陰って寒くなってくる。秋は遅刻ぎりぎりにやってきたかと思いきや、足早に過ぎ去ろうとしていた。
そんな微睡みかけた秋の午後のある日、福田は机の上で震えだしたケータイにびくりと肩を揺らした。眠りかけの意識を無理矢理覚醒させられ、福田はしばらく震えるケータイを眺めるだけだった。しばらくして、ケータイがなっているという事実に気づき、福田は慌てて電話をとった。
あっ、と聞こえた電話越しの声に、相手が切ろうとしていたことがわかる。
「高木ですけど……」
遠慮がちに名乗った相手に、珍しいなと福田は目を瞬いた。
いつも何かしら用事があるときは、真城のほうが連絡をしてくる。つきあいからいっても、原作者の高木よりも作画の真城とのほうが長いし、直接的な関わりがあった。
そして大抵の場合、連絡をするのは福田からの方が多かった。
「高木くんか、どうした?珍しいじゃん」
電話の向こうから若干緊張したような気配がして、福田は、ん?と高木の気配に注意した。電話越しで伺うようにして耳を澄ませた。
つきあいは長いといっても、私用で連絡を取ることはほとんどなかった。何か問題があったとき、もしくはそうなりそうなとき連絡をとるぐらいで、プライベートなつきあいはほとんどなかった。
だから、福田もまた何かあったのかと緊張する。
また、と思ってしまうほど、同期のメンバー間で面倒事があったのだなあと高木の声を待ちながら思った。
けれど、意を決して口を開いた高木の言葉に、福田は一気に気が抜けた。
「福田さん、ハロウィンパーティーしませんか?」
「はろうぃんぱあてぃだあ?」
面倒事はないに越したことはないが、あまりにも想像していた話とは違いすぎて、福田にはなにがなにやらわからなくなってしまった。ハロウィンパーティーとは一体何の話だ。
福田は壁に掛けられたカレンダーを見る。十月三十一日、日付の脇に小さくハロウィンと記載されている。
昨今、日本でも定例イベントと根付きつつあるそれだ。某ネズミ王国でも、毎年のようにお祭りになっている。
ただ本来の意味とは異なるお祭りごととして日本では流行っている。また流行っていても、クリスマスほど国民のほとんどが意識するほどのイベントとして盛り上がっているわけではない。
「カヤちゃんが……あ、うちの奥さんが、はりきっちゃってて……みんな気晴らしにどうかなーっと思いまして」
「嫁……」
高木のハハハと乾いた笑いが受話器越しに響く。
福田は天を仰いだ。高木の結婚式に出ているし、高木の嫁とは多少なりとも面識はあるが、確かにこういうイベントごとは好きそうなイメージだ。
顔を覆った片手の指の間から蛍光灯が光る天井を見た。ハロウィンパーティーというと、仮装をするということだろうか。
コスプレは趣味じゃない。ハロウィンというイベントも興味がない。気晴らしになるというよりも疲れそうではないか。
断ろう、そう思った。
「で、あんたはなんで、俺に電話してくんだよ」
福田が相手に聞こえるようにあからさまにため息をつくと、電話の向こうから「だって!」と反論が聞こえてきた。
「だって、話を聞いてくれる人が……」
「俺はいつからあんたの専門相談員になったわけ?」
「別に相談をしているわけじゃ」
「じゃあ、なんなの。相談じゃなかったら、何で電話してくんだよ。」
高木から電話があったその日の夜、もう一度福田のケータイを鳴らした人物に、福田は遠慮なく呆れとため息と、そして少々の嬉しさを滲ませていた。
蒼樹嬢と登録されたアドレスが表示された震えるケータイに出るのに、実は深呼吸しているなんて絶対本人には教えない。
「福田さんも、行くのでしょう? ハロウィンパーティー」
「う、何で知ってる。」
「カヤさんから聞きました。」
「嫁……」
女の情報網は早くて細かくて困る。
結局福田は高木に了承の返事をしていたのだ。それがこんなにも早く彼女に知られるとは、福田は恥ずかしくなってぶっきらぼうに、「で?」と続きを促した。
「どんな仮装をしたらいいかなと思いまして」
「やっぱ相談なんじゃねえか!」
「違います! 偵察です! 福田さんは何の仮装をするのかなと思って」
「違わねえじゃん……」
「何か言いました?」
っていうか、偵察ってなんだよ。俺を偵察して何になるってんだよ。とつっこみたかったが、きっと眉間に皺を寄せて福田の一言一句を聞き漏らすまいとしているであろう蒼樹を想像して黙っていた。
「蒼樹嬢はどんな仮装がしたいんだよ」
「だから、それを相談したくて電話したんですけど」
「相談って言ったって、希望とかないと俺は何も言えないと思うんだけどよ」
「まあ、そうですね」
どんな仮装をしたらいいか、と聞かれて、これに対して福田の回答を求めるということはどういうことなんだろうか、と考えてしまう。これがいいんじゃないか、と提案や希望をしたらその格好をしてくれるのだろうか。
「ハロウィンっていうと、なんだろうな」
「そうですねえ、おばけ……でしょうか」
「シーツでもかぶるか?」
「それじゃあ、なんか面白味がないですよね」
「蒼樹嬢も面白味とか考えるのかよ」
「やるなら、ちゃんと楽しみたいじゃないですか!」
なんだかんだ言って女の子というのは集まってきゃあきゃあするお祭りが大好きだ。パーティーを主催するのがカヤだというのもあって、気心しれた仲間の前でなら楽しめる、そう思ったに違いない。
何しろ蒼樹には友人が少ないから、こういうった誘いはうれしかったに違いない。
「そのノリで、高木くんの嫁さんの言葉に乗ったんだろう」
「楽しそうじゃないですか」
「俺はめんどくせえよ」
「じゃあ、なんで、行くって言ったんですか」
「それは……」
高木との電話を思い出して、カーッと火がつくのではないかというほどに顔を赤くした。浅はかだし、ミーハーだし、願望丸だしだな、と思うけれど、仕方がない。結局ノリで返事をしてしまったようなものだ。
高木から「蒼樹さんも来ますよ」と言われたら、行かない、と言えなくなってしまうじゃないか。
「あ、蒼樹嬢に関係ないじゃん!」
電話でよかったと思いつつ、それでもこの焦りが伝わっているとわかっていて、福田はますます恥ずかしくなった。今すぐ電話を切りたい衝動に駆られるけれど、蒼樹との電話を早々簡単に切らせたくなかった。
「か、関係ないかもしれないですけど! そんな言い方しなくたっていいじゃないですか! 何、キレてるんですか」
「キレてないし!」
「キレてるじゃないですか」
「キレてない!」
「なんか古いですよ、そのネタ」
いつもの言い合いになって、やっと少しだけ平常心が戻ってくる。けれど、いつもと進展のない展開を繰り広げてしまうことに、これではいけないのになー、と心の片隅で苦く思ってしまうことも事実だ。ただし、いつもとは違う行動をしたら、「どうしたんですか?」と蒼樹だったら何も考えずに天然の切り返しをしてくるような気がして、切り返されたら、やはりどうやって説明したらいいのかわからなくなって、売り言葉に買い言葉のいつもの喧嘩になるのだろうなと考えると、先の見えない関係性に頭を抱えたくなる。
関係をもう一歩先に進めたいのに、進まないジレンマ。
なんだ、自分相当恋愛しているなと思うと、似合わな過ぎて鳥肌が立ちそうになる。
無言になった福田が、本気で機嫌を損ねたと感じたのか蒼樹がおずおずと「福田さん?」と呼んだ。
「なんでもねえ。大丈夫」
「怒らせてしまったのかと思いました」
「なんで、俺が怒るんだよ」
感性が違うから衝突することはしばしばあるけれど、怒ったことはほとんどない。意見の食い違いは誰にだってあることだし、それは致し方がない。そのことについて、自分の考えと違うからと、いきり立ってもどうしようもないことだ。相手には相手の考え方があるのだと、その点は認めないといつまでたっても良好な人間関係を構築することはできない。
認めた上での否定ならともかく、認めもしない、話を聞きもしないで否定するのは、人付き合いはできない。
そのことを蒼樹という女性に出会ってから嫌と言うほど経験した。
「えっと、仮装の話だっけ?」
「そうです。とりあえず思いつくものを上げてみてくれませんか?」
なんでもいいです、と蒼樹が言うので、うーんと唸ったあとに、ぼそぼそと言った。
「じゃあ……ネコミミ、とか?」
「え!?」
福田の頭に浮かんだ蒼樹のネコミミを付けた姿に、福田はぶんぶんと頭を振るった。
ネコミミを付けるだけならまだしも、モフ手、尻尾まで装着し、なぜかファーのベアトップとホットパンツという格好だ。
自分で言っておきながら、想像した蒼樹の姿に思わず、ぶほぁと吹き出してしまう。よかった、何も口に入れていなくてよかった。それでなくても、唾が飛んだ。
「ふ、福田さん!?」
驚いた蒼樹の声は、福田の噎せた咳に掻き消えて、全く福田の耳に届かなかった。
「ネコミミって……それハロウィンですか?」
「いや、思いつき! 思いつきだから!」
ちょっといやらしい思いつきをしたなんて知れたら、蒼樹に確実に白い目で見られることは間違いない。潔癖なくせに疎い蒼樹にはきっと福田の困惑と焦りの原因が何かなんて、想像もつかないだろう。
ベアトップ姿の蒼樹が「にゃん?」だなんて言いながら、小首を傾げて福田に迫っている想像をしているだなんて、全くもって絶対に蒼樹になんて悟られてたまるか。
焦りから福田はいつの間にか立ち上がって部屋の中をうろうろしていた。檻の中をぐるぐると回っている動物園のライオンみたいだ。
そんなライオン福田に蒼樹が大まじめな声で言った。思わずケータイに耳を押しつけて聞き返してしまった。
「だったら、福田さんも耳つけてください。」
「はあ!? 何で俺!?」
「福田さんもネコミミつけたらかわいいですよ」
福田は白目を剥きそうだった。蒼樹は至ってまじめに言っているようだが、果たして本当にそうなのだろうか。実は楽しくて楽しくて仕方ないのではないのだろうか。福田の反応を楽しんで、にやついているのではないだろうか。
自分がネコミミをつけているところなんか、想像しても楽しくない。それに、なんだ、かわいいとはなんだ。
「断じて言うが、俺がかわいいとかまずありえねえ、きしょい、きもい。」
「そこまで言わなくてもいいじゃないですか。福田さん、結構髪の毛さらさらしてるし、白ミミとか付けたら似合いそうですよ。かわいいと思います。」
弾んだ蒼樹の声に、福田はとうとう気が遠くなって、ソファにどさりと身を沈めた。女のかわいいの観点は男は違うのだと思い知らされる。
「嫌だ、絶対つけない!」
「えー絶対かわいいし、萌えるのに」
「萌えだぁ!?」
どんな姿を想像しているのだろうか。まさかベアトップ姿じゃあるまい。全く萌えない。萌えるといったら、蒼樹のほうじゃないか、と照れも恥も外聞もなくそう思ったけれど、本人に言えるはずもない。
嫌だとごねる福田に、蒼樹が、じゃあ、と言った。
「狼男とか。もふ耳ともふ手と、もふ尻尾で。ハロウィンらしくていいと思いません?」
獣耳からは離れないのか。最初にネコミミの話を振ったのは福田のほうだというのに、すっかりそれを忘れてしまっていた。
なんだか福田の反応で楽しんでいるような蒼樹に、少しだけ、ほんのちょっとだけ慌てされてやろうと思って、福田はにやりと笑って言った。
「狼男って……何?襲って欲しいってか」
にやりと笑ったまま、慌てふためく蒼樹の怒号を待っていたのだが、予想外の反応だった。
電話の向こうから想像できる蒼樹は、顔を真っ赤にして口をぱくぱくとさせているのだろう。
「え、いや、あの、いえ、えっと……」
「は? ちょっと、いやいや、なんかあんたが動揺すると、こっちも伝染るっていうか。いや、そこは、何言っているんですかって返してもらわないと、あのちょっと?」
「何言っているんですか!」
「今更言うな! 遅いわ!」
予想していた怒号は全く聞こえず、そのかわり伝わる気配は、先ほどの福田のそれだ。檻の中をうろつくライオン状態だ。
これは、この状況は、一体蒼樹は何を想像していたのだろう。
福田の顔も徐々に赤くなって、体温がかーっとあがっていくのがわかる。
ぱたぱたと手で仰ぐけれど、全く涼しくない。
「あのさ」
福田が口火を切ると同じタイミングで、蒼樹も「あの」と言った。
「え?」
「ネコミミ、付けて欲しい、ですか?」
蒼樹がらしくもないことを言うものだから、福田は全く思考が止まってしまったような感覚で、「あ、うん」と何も考えずに自分の欲求のままに答えてしまった。
「じゃあ、あの、そうします。」
蒼樹の返事が頭をぐるぐる回っていて、本当に白目を剥いて意識を飛ばした。
そんな微睡みかけた秋の午後のある日、福田は机の上で震えだしたケータイにびくりと肩を揺らした。眠りかけの意識を無理矢理覚醒させられ、福田はしばらく震えるケータイを眺めるだけだった。しばらくして、ケータイがなっているという事実に気づき、福田は慌てて電話をとった。
あっ、と聞こえた電話越しの声に、相手が切ろうとしていたことがわかる。
「高木ですけど……」
遠慮がちに名乗った相手に、珍しいなと福田は目を瞬いた。
いつも何かしら用事があるときは、真城のほうが連絡をしてくる。つきあいからいっても、原作者の高木よりも作画の真城とのほうが長いし、直接的な関わりがあった。
そして大抵の場合、連絡をするのは福田からの方が多かった。
「高木くんか、どうした?珍しいじゃん」
電話の向こうから若干緊張したような気配がして、福田は、ん?と高木の気配に注意した。電話越しで伺うようにして耳を澄ませた。
つきあいは長いといっても、私用で連絡を取ることはほとんどなかった。何か問題があったとき、もしくはそうなりそうなとき連絡をとるぐらいで、プライベートなつきあいはほとんどなかった。
だから、福田もまた何かあったのかと緊張する。
また、と思ってしまうほど、同期のメンバー間で面倒事があったのだなあと高木の声を待ちながら思った。
けれど、意を決して口を開いた高木の言葉に、福田は一気に気が抜けた。
「福田さん、ハロウィンパーティーしませんか?」
「はろうぃんぱあてぃだあ?」
面倒事はないに越したことはないが、あまりにも想像していた話とは違いすぎて、福田にはなにがなにやらわからなくなってしまった。ハロウィンパーティーとは一体何の話だ。
福田は壁に掛けられたカレンダーを見る。十月三十一日、日付の脇に小さくハロウィンと記載されている。
昨今、日本でも定例イベントと根付きつつあるそれだ。某ネズミ王国でも、毎年のようにお祭りになっている。
ただ本来の意味とは異なるお祭りごととして日本では流行っている。また流行っていても、クリスマスほど国民のほとんどが意識するほどのイベントとして盛り上がっているわけではない。
「カヤちゃんが……あ、うちの奥さんが、はりきっちゃってて……みんな気晴らしにどうかなーっと思いまして」
「嫁……」
高木のハハハと乾いた笑いが受話器越しに響く。
福田は天を仰いだ。高木の結婚式に出ているし、高木の嫁とは多少なりとも面識はあるが、確かにこういうイベントごとは好きそうなイメージだ。
顔を覆った片手の指の間から蛍光灯が光る天井を見た。ハロウィンパーティーというと、仮装をするということだろうか。
コスプレは趣味じゃない。ハロウィンというイベントも興味がない。気晴らしになるというよりも疲れそうではないか。
断ろう、そう思った。
「で、あんたはなんで、俺に電話してくんだよ」
福田が相手に聞こえるようにあからさまにため息をつくと、電話の向こうから「だって!」と反論が聞こえてきた。
「だって、話を聞いてくれる人が……」
「俺はいつからあんたの専門相談員になったわけ?」
「別に相談をしているわけじゃ」
「じゃあ、なんなの。相談じゃなかったら、何で電話してくんだよ。」
高木から電話があったその日の夜、もう一度福田のケータイを鳴らした人物に、福田は遠慮なく呆れとため息と、そして少々の嬉しさを滲ませていた。
蒼樹嬢と登録されたアドレスが表示された震えるケータイに出るのに、実は深呼吸しているなんて絶対本人には教えない。
「福田さんも、行くのでしょう? ハロウィンパーティー」
「う、何で知ってる。」
「カヤさんから聞きました。」
「嫁……」
女の情報網は早くて細かくて困る。
結局福田は高木に了承の返事をしていたのだ。それがこんなにも早く彼女に知られるとは、福田は恥ずかしくなってぶっきらぼうに、「で?」と続きを促した。
「どんな仮装をしたらいいかなと思いまして」
「やっぱ相談なんじゃねえか!」
「違います! 偵察です! 福田さんは何の仮装をするのかなと思って」
「違わねえじゃん……」
「何か言いました?」
っていうか、偵察ってなんだよ。俺を偵察して何になるってんだよ。とつっこみたかったが、きっと眉間に皺を寄せて福田の一言一句を聞き漏らすまいとしているであろう蒼樹を想像して黙っていた。
「蒼樹嬢はどんな仮装がしたいんだよ」
「だから、それを相談したくて電話したんですけど」
「相談って言ったって、希望とかないと俺は何も言えないと思うんだけどよ」
「まあ、そうですね」
どんな仮装をしたらいいか、と聞かれて、これに対して福田の回答を求めるということはどういうことなんだろうか、と考えてしまう。これがいいんじゃないか、と提案や希望をしたらその格好をしてくれるのだろうか。
「ハロウィンっていうと、なんだろうな」
「そうですねえ、おばけ……でしょうか」
「シーツでもかぶるか?」
「それじゃあ、なんか面白味がないですよね」
「蒼樹嬢も面白味とか考えるのかよ」
「やるなら、ちゃんと楽しみたいじゃないですか!」
なんだかんだ言って女の子というのは集まってきゃあきゃあするお祭りが大好きだ。パーティーを主催するのがカヤだというのもあって、気心しれた仲間の前でなら楽しめる、そう思ったに違いない。
何しろ蒼樹には友人が少ないから、こういうった誘いはうれしかったに違いない。
「そのノリで、高木くんの嫁さんの言葉に乗ったんだろう」
「楽しそうじゃないですか」
「俺はめんどくせえよ」
「じゃあ、なんで、行くって言ったんですか」
「それは……」
高木との電話を思い出して、カーッと火がつくのではないかというほどに顔を赤くした。浅はかだし、ミーハーだし、願望丸だしだな、と思うけれど、仕方がない。結局ノリで返事をしてしまったようなものだ。
高木から「蒼樹さんも来ますよ」と言われたら、行かない、と言えなくなってしまうじゃないか。
「あ、蒼樹嬢に関係ないじゃん!」
電話でよかったと思いつつ、それでもこの焦りが伝わっているとわかっていて、福田はますます恥ずかしくなった。今すぐ電話を切りたい衝動に駆られるけれど、蒼樹との電話を早々簡単に切らせたくなかった。
「か、関係ないかもしれないですけど! そんな言い方しなくたっていいじゃないですか! 何、キレてるんですか」
「キレてないし!」
「キレてるじゃないですか」
「キレてない!」
「なんか古いですよ、そのネタ」
いつもの言い合いになって、やっと少しだけ平常心が戻ってくる。けれど、いつもと進展のない展開を繰り広げてしまうことに、これではいけないのになー、と心の片隅で苦く思ってしまうことも事実だ。ただし、いつもとは違う行動をしたら、「どうしたんですか?」と蒼樹だったら何も考えずに天然の切り返しをしてくるような気がして、切り返されたら、やはりどうやって説明したらいいのかわからなくなって、売り言葉に買い言葉のいつもの喧嘩になるのだろうなと考えると、先の見えない関係性に頭を抱えたくなる。
関係をもう一歩先に進めたいのに、進まないジレンマ。
なんだ、自分相当恋愛しているなと思うと、似合わな過ぎて鳥肌が立ちそうになる。
無言になった福田が、本気で機嫌を損ねたと感じたのか蒼樹がおずおずと「福田さん?」と呼んだ。
「なんでもねえ。大丈夫」
「怒らせてしまったのかと思いました」
「なんで、俺が怒るんだよ」
感性が違うから衝突することはしばしばあるけれど、怒ったことはほとんどない。意見の食い違いは誰にだってあることだし、それは致し方がない。そのことについて、自分の考えと違うからと、いきり立ってもどうしようもないことだ。相手には相手の考え方があるのだと、その点は認めないといつまでたっても良好な人間関係を構築することはできない。
認めた上での否定ならともかく、認めもしない、話を聞きもしないで否定するのは、人付き合いはできない。
そのことを蒼樹という女性に出会ってから嫌と言うほど経験した。
「えっと、仮装の話だっけ?」
「そうです。とりあえず思いつくものを上げてみてくれませんか?」
なんでもいいです、と蒼樹が言うので、うーんと唸ったあとに、ぼそぼそと言った。
「じゃあ……ネコミミ、とか?」
「え!?」
福田の頭に浮かんだ蒼樹のネコミミを付けた姿に、福田はぶんぶんと頭を振るった。
ネコミミを付けるだけならまだしも、モフ手、尻尾まで装着し、なぜかファーのベアトップとホットパンツという格好だ。
自分で言っておきながら、想像した蒼樹の姿に思わず、ぶほぁと吹き出してしまう。よかった、何も口に入れていなくてよかった。それでなくても、唾が飛んだ。
「ふ、福田さん!?」
驚いた蒼樹の声は、福田の噎せた咳に掻き消えて、全く福田の耳に届かなかった。
「ネコミミって……それハロウィンですか?」
「いや、思いつき! 思いつきだから!」
ちょっといやらしい思いつきをしたなんて知れたら、蒼樹に確実に白い目で見られることは間違いない。潔癖なくせに疎い蒼樹にはきっと福田の困惑と焦りの原因が何かなんて、想像もつかないだろう。
ベアトップ姿の蒼樹が「にゃん?」だなんて言いながら、小首を傾げて福田に迫っている想像をしているだなんて、全くもって絶対に蒼樹になんて悟られてたまるか。
焦りから福田はいつの間にか立ち上がって部屋の中をうろうろしていた。檻の中をぐるぐると回っている動物園のライオンみたいだ。
そんなライオン福田に蒼樹が大まじめな声で言った。思わずケータイに耳を押しつけて聞き返してしまった。
「だったら、福田さんも耳つけてください。」
「はあ!? 何で俺!?」
「福田さんもネコミミつけたらかわいいですよ」
福田は白目を剥きそうだった。蒼樹は至ってまじめに言っているようだが、果たして本当にそうなのだろうか。実は楽しくて楽しくて仕方ないのではないのだろうか。福田の反応を楽しんで、にやついているのではないだろうか。
自分がネコミミをつけているところなんか、想像しても楽しくない。それに、なんだ、かわいいとはなんだ。
「断じて言うが、俺がかわいいとかまずありえねえ、きしょい、きもい。」
「そこまで言わなくてもいいじゃないですか。福田さん、結構髪の毛さらさらしてるし、白ミミとか付けたら似合いそうですよ。かわいいと思います。」
弾んだ蒼樹の声に、福田はとうとう気が遠くなって、ソファにどさりと身を沈めた。女のかわいいの観点は男は違うのだと思い知らされる。
「嫌だ、絶対つけない!」
「えー絶対かわいいし、萌えるのに」
「萌えだぁ!?」
どんな姿を想像しているのだろうか。まさかベアトップ姿じゃあるまい。全く萌えない。萌えるといったら、蒼樹のほうじゃないか、と照れも恥も外聞もなくそう思ったけれど、本人に言えるはずもない。
嫌だとごねる福田に、蒼樹が、じゃあ、と言った。
「狼男とか。もふ耳ともふ手と、もふ尻尾で。ハロウィンらしくていいと思いません?」
獣耳からは離れないのか。最初にネコミミの話を振ったのは福田のほうだというのに、すっかりそれを忘れてしまっていた。
なんだか福田の反応で楽しんでいるような蒼樹に、少しだけ、ほんのちょっとだけ慌てされてやろうと思って、福田はにやりと笑って言った。
「狼男って……何?襲って欲しいってか」
にやりと笑ったまま、慌てふためく蒼樹の怒号を待っていたのだが、予想外の反応だった。
電話の向こうから想像できる蒼樹は、顔を真っ赤にして口をぱくぱくとさせているのだろう。
「え、いや、あの、いえ、えっと……」
「は? ちょっと、いやいや、なんかあんたが動揺すると、こっちも伝染るっていうか。いや、そこは、何言っているんですかって返してもらわないと、あのちょっと?」
「何言っているんですか!」
「今更言うな! 遅いわ!」
予想していた怒号は全く聞こえず、そのかわり伝わる気配は、先ほどの福田のそれだ。檻の中をうろつくライオン状態だ。
これは、この状況は、一体蒼樹は何を想像していたのだろう。
福田の顔も徐々に赤くなって、体温がかーっとあがっていくのがわかる。
ぱたぱたと手で仰ぐけれど、全く涼しくない。
「あのさ」
福田が口火を切ると同じタイミングで、蒼樹も「あの」と言った。
「え?」
「ネコミミ、付けて欲しい、ですか?」
蒼樹がらしくもないことを言うものだから、福田は全く思考が止まってしまったような感覚で、「あ、うん」と何も考えずに自分の欲求のままに答えてしまった。
「じゃあ、あの、そうします。」
蒼樹の返事が頭をぐるぐる回っていて、本当に白目を剥いて意識を飛ばした。
振り返れば、或る
久しぶりに一人でぶらぶらと街を歩く。自宅が仕事場だから、一歩も外に出ないことも少なくない。健康に悪いとは思っていても、特に用がないのに外に出る理由もなく、普段は基本的にインドア一辺倒だ。
それもこれも、ジャンプで一番になりたい、そう願って我武者羅に漫画を描いてきたせいだ。デビューする前から、今まで一度も気を抜いたことなんてない。作品がアニメ化して、人気作品の列に並ぶことができているのだとしても、それでも盤石な状態とは言い難い。週刊連載なんてそんなものだ。漫画は水ものだ。面白くないと思えば、すぐに読者は離れて行ってしまう。平丸や新妻のように、自分の描きたい話だけを書いて人気がでるような天才タイプなんか、あまり多くはいない。話を作りながら、原稿の向こうに読者の反応がちらつく。読者を引っ張り込めるようにしなければならない。読者の希望通りの流れにしようとは思っていない。けれど、あまりにちらつく読者の陰に、たまに酷く疲れることがある。
福田は街をぶらぶらと歩きながら、空を見上げた。曇天は目にまぶしい。太陽の光は雲の粒子に乱反射して、それなりに明るい。常日頃、屋内にいる福田には目の奥が痛くなるまぶしさだった。目頭を押さえて押し揉んだ。
「部屋に籠ってばかりいてはだめですよ」
いつだったかそう言われた。やけに口うるさい女で、逢うたびにイライラする女だった。見た目は運動しそうもないのに、健康のためだといって、軽いジョギングをしているのだと言った。何やら形にもこだわる女で、そこらへんのジャージなどではなく、ジョギング用の靴やら、スカートやら、なんやかんやと揃えていた。なんだかそれらを見るだけでおなかいっぱいだった。
「今度一緒に走りましょう」
と、言われたけれど、結局一度も走らずに終わったし、福田はジョギングウェアを買うこともなかった。
運動することは嫌いじゃない。たまに担当の雄二郎に誘われてフットサルをしたりする。そのたび体力の衰えを感じて、若年寄になった気分だった。
ゆったりと歩いて向かった先は、お気に入りのラーメン屋。最近見つけた店で、やはりとんこつラーメンがおいしい。
ラーメンばかり食べていないで、野菜も摂りなさいと、やはりあの口うるさい女に言われた。某漫画の主人公か!と内心で突っ込みつつ、適当に返事を返した記憶がある。呆れるどころか、イラつきが増したらしく、なぜかスーパーに寄って、白菜とベーコンの鍋を振舞われた。
「野菜って、白菜しかねーじゃねえか!」
と、言ったら、
「私はこれが食べたかったんです!」
なんて、数秒の沈黙のあと、苦しい言い訳をした女を思い出して、福田はくすりと笑った。後から知ったことだが、その女の得意料理らしい。といっても、大きく切った白菜の間にベーコンをはさんで、土鍋に無理やり押し込んで、味付けは塩コショウとコンソメだけの簡単料理だった。けれどそれが意外に、それもかなりおいしくて、あんなに大量にいれた白菜をぺろりと食べてしまった。
手料理を振舞われたのはあれが一回きりで、そのおいしかった白菜ベーコン鍋も、それから一度だって福田は作ったことはなかった。
あれから食生活が劇的に変化したということは全くもってない。劇的ではないけれど、たまに自炊をするようになった。確かに、ラーメンばかり食べているというのもどうか、と思うのも事実で、それが原因で体調を壊して休載するような話にでもなってしまったら、一気に今の地位から陥落してしまう。
そういう事例を身近な人間で知っているだけに、余計に気を付けるようになった。
漫画は水物。一度落ちた人気を再び取り戻すなんて、よほどの力がなければ無理だ。それも、並大抵のことではない。
今が安定しているように見えても、数年後にどうなっているかわからない。
かといって、いつでも後ろ暗い未来を想像していても仕方がない。そんな後ろ向きな想像ばかりしていたら、本当にそれに飲み込まれていってしまうような気がした。だから、いつだって、多少の辛いことがあっても、福田はいつだって前向きに捉えてきた。次を頑張ればいい。そうやって、今の地位まで駆け上がってきた。
平日の昼時。平日だろと休日だろうとお構いなしに人が溢れている。ラーメン屋は路地裏。アンダーグラウンドな雰囲気を醸し出す路地裏に構える小さな店。外観同様に店内も薄暗く小汚いのかと思いきや、真新しいテーブルと証明、アジアンテイストを意識した派手なガールズイラストが飾られた不思議な雰囲気のラーメン屋だった。店主は福田と同じくらいかそれよりも幾分年上の若い男で、つかみどころのない笑顔を浮かべるこれまた不思議な男だった。
店に現れた福田に、店主がにっこり笑って出迎えた。
店内には数人の客がいた。カップルが二組と、いかにもラーメン好きを自称していそうな男が二人。狭い店内では客がめい一杯入っているように見える。カウンター席に座り、ラーメンが出てくるのを待つ間、福田はパンツの尻ポケットからケータイを取り出した。手持無沙汰にケータイをいじる。メールや着信はなかった。ただ暇な時間をつぶすためにケータイをいじる。
服部雄二郎の名前が並ぶ着信履歴。その合間にアシスタントの名前。見事に女っけのない着信履歴に、福田は思いっきり自嘲した。数年前まで、口うるさい女の名前ばかりが着信履歴を占拠していた。ケータイの着信も、FAXの着信もその女からのものばかりで、まるで生活の一部を乗っ取られたみたいだった。それが楽しかっただなんて、遠い記憶に思いを馳せると、急に気分が沈み込む。いかんいかん、と首を振った。
ラーメンを食べ終わると、またぶらぶらとした。原宿駅で降りる。洋服とアクセサリーを買おう。今日はそう決めていた。数件のセレクトショップを覗き、シルバーアクセサリーの専門店へと足を運ぶ。洋服の入ったショップ袋が歩くたびに膝にあたった。その道姿、独特なヘアスタイルの人物を見つけて、福田は足を止める。似合っているのか似合っていないのかわからない白のスーツを着た姫カットの男の後ろ姿に、福田は声をかけようかどうしようか一瞬迷った。迷った末に、福田は声を掛けざるを得なくなった。
「あ」
振り返った平丸が、福田に気づいたからだ。そしてそのまま、勢いよく福田の元へ走ってくる。大抵、何が言いたいのか福田はすぐに思い浮かんで露骨に嫌な顔をした。
「福田くん!吉田氏には連絡しないでくれ!」
「まだ逃げてんすか……」
やはりと言って風に首をゆるゆると振ると、それに相反するように、体を前後に激しく揺す振られる。
「そんな呆れたような顔をしないでくれ!僕にとっては死活問題なんだ!」
がくがくと揺すられる頭で、仕事が嫌いで漫画を描くのをこうして逃げているような作家が、とんとん拍子に人気作家になっていったのだから、神様は不公平だなどと、信じてもいない神を恨んだ。新妻とは違うタイプの天才。天才なんて言葉、福田は嫌いだった。編集部は誰にでも天才つけたがる。天才と持て囃される作家が嫌いなわけではない。けれど、天から与えられた才能を生かすも殺すも自分自身なのであって、誰しも天才にも凡才にも成りえる可能性を秘めているのだというのが、福田の持論だった。
確かに新妻も平丸も、凡才の自分からみたら天才なのかもしれない。けれど、どんな天才にも努力なしでの成功はありえない。福田はそう思っていた。
だから、平丸の行動には時々不愉快な気分になる。これが平丸なのだとわかってはいるものの、漫画から逃げているのに、それが面白いなんて、どうやったってマネできない。
いつまでも肩を揺すり続ける平丸から強引に逃れると、福田はぐらぐらと揺れる頭を押さえた。酔いそうだ。
「いい加減逃げるの、やめたらどうっすか?」
「やりたくないものから逃げたっていいじゃないか」
「やりたくないんすか、漫画」
「しぶしぶといった状態だね。やらなくてもいいと言われたら、絶対にやらない」
「そうすか」
「でも、蒼樹嬢と約束してるんでしょ?」
「そうなんだ、ちゃんと漫画書いてくださいって約束したんだよ」
でれでれと鼻の下が伸びる平丸の顔を、アッパーで顎の下から元に戻してやりたくなる。
「っていうか、なんでそれを福田くんが知ってるの」
「何言ってんすか、自分で言ってたじゃないですか」
中井が蒼樹のところに泥酔して乗り込もうとしたとき、わけのわからない理屈を捏ねて、中井を丸め込んでしまったじゃないか。
中井とのことは屈辱的だった。自分の言葉は一つとして通じなかった。アシスタントに誘ったことに情けや同情が一つもなかったわけではないが、それでも中井に漫画に向き合って欲しかったのに、何も、これっぽっちも福田の気持ちが伝わることはなかった。うるさい、と切り捨てられ、真面目に聞いてくれることすらしてくれなかった。
自分の言葉が伝わらないことの惨めさ屈辱感は、福田を苛んだ。こんな堕落した男のことなどどうでもいいと、もう自分とは関係ない、知ったこっちゃないと思っているのに、蝕んでいく。その大きな存在に、苛立ちを隠せなかった。
どこかで、心の奥底、今でも中井に頑張って欲しいと思う気持ちがあるのだろうか。
そんな気持ち、屈辱的な気分が増幅されるだけで、もう捨ててしまいたい。
この屈辱感は、あの日、屈辱的な行為を受けた蒼樹よりも大きいかもしれない。
平丸の影には蒼樹の姿が滲む。それが、随分と福田に苦い思いをさせているなんて、福田自身も気付きたくなかった。
「……蒼樹嬢は……?」
「え?」
「蒼樹嬢、元気?」
けれど、平丸との会話で蒼樹の名前を出すことは自然なことだった。むしろ、それしか話題にできることがなかった。
「中井さんのこと、何か言ってる?」
「中井さんのこと? いや、特には聞いてないなー」
「そうすっか……」
元来彼女には潔癖なところがある。酔っ払いふざけるのも大概にしろという程に暴れまくった中井の前に、私を殴れと出て行った蒼樹の姿こそ、生来の姿なのだと思う。出会った頃より格段の取れた角のせいで忘れかけていたが、自分の納得のいかないことにはNOを突きつける度胸は昔からあったのだ。
何も話題にしないというところを見ると、かなり怒っているのだろう。
屈辱を受けたのだ、怒って当たり前だ。自分と同じように。
福田は少し俯いて小さく笑った。
彼女らしいと思って。
未練がましく彼女のことを考えてしまう自分を憐れんで。
いつだったか平丸に蒼樹のケータイ番号を聞いたときに、「愛の告白か」と言われた。
平丸にはそれを行う勇気があって、福田には蚤みたいなちっぽけなものしかなくて、態とらしく外野から応援していただけだった。
「なーんで、あんなことしてんだろうな」
「福田くん?」
今更言ったところで何も変わらない。
振り返るとそこにあるのは、苦くなってしまった楽しかったはずの思い出だけだった。
それもこれも、ジャンプで一番になりたい、そう願って我武者羅に漫画を描いてきたせいだ。デビューする前から、今まで一度も気を抜いたことなんてない。作品がアニメ化して、人気作品の列に並ぶことができているのだとしても、それでも盤石な状態とは言い難い。週刊連載なんてそんなものだ。漫画は水ものだ。面白くないと思えば、すぐに読者は離れて行ってしまう。平丸や新妻のように、自分の描きたい話だけを書いて人気がでるような天才タイプなんか、あまり多くはいない。話を作りながら、原稿の向こうに読者の反応がちらつく。読者を引っ張り込めるようにしなければならない。読者の希望通りの流れにしようとは思っていない。けれど、あまりにちらつく読者の陰に、たまに酷く疲れることがある。
福田は街をぶらぶらと歩きながら、空を見上げた。曇天は目にまぶしい。太陽の光は雲の粒子に乱反射して、それなりに明るい。常日頃、屋内にいる福田には目の奥が痛くなるまぶしさだった。目頭を押さえて押し揉んだ。
「部屋に籠ってばかりいてはだめですよ」
いつだったかそう言われた。やけに口うるさい女で、逢うたびにイライラする女だった。見た目は運動しそうもないのに、健康のためだといって、軽いジョギングをしているのだと言った。何やら形にもこだわる女で、そこらへんのジャージなどではなく、ジョギング用の靴やら、スカートやら、なんやかんやと揃えていた。なんだかそれらを見るだけでおなかいっぱいだった。
「今度一緒に走りましょう」
と、言われたけれど、結局一度も走らずに終わったし、福田はジョギングウェアを買うこともなかった。
運動することは嫌いじゃない。たまに担当の雄二郎に誘われてフットサルをしたりする。そのたび体力の衰えを感じて、若年寄になった気分だった。
ゆったりと歩いて向かった先は、お気に入りのラーメン屋。最近見つけた店で、やはりとんこつラーメンがおいしい。
ラーメンばかり食べていないで、野菜も摂りなさいと、やはりあの口うるさい女に言われた。某漫画の主人公か!と内心で突っ込みつつ、適当に返事を返した記憶がある。呆れるどころか、イラつきが増したらしく、なぜかスーパーに寄って、白菜とベーコンの鍋を振舞われた。
「野菜って、白菜しかねーじゃねえか!」
と、言ったら、
「私はこれが食べたかったんです!」
なんて、数秒の沈黙のあと、苦しい言い訳をした女を思い出して、福田はくすりと笑った。後から知ったことだが、その女の得意料理らしい。といっても、大きく切った白菜の間にベーコンをはさんで、土鍋に無理やり押し込んで、味付けは塩コショウとコンソメだけの簡単料理だった。けれどそれが意外に、それもかなりおいしくて、あんなに大量にいれた白菜をぺろりと食べてしまった。
手料理を振舞われたのはあれが一回きりで、そのおいしかった白菜ベーコン鍋も、それから一度だって福田は作ったことはなかった。
あれから食生活が劇的に変化したということは全くもってない。劇的ではないけれど、たまに自炊をするようになった。確かに、ラーメンばかり食べているというのもどうか、と思うのも事実で、それが原因で体調を壊して休載するような話にでもなってしまったら、一気に今の地位から陥落してしまう。
そういう事例を身近な人間で知っているだけに、余計に気を付けるようになった。
漫画は水物。一度落ちた人気を再び取り戻すなんて、よほどの力がなければ無理だ。それも、並大抵のことではない。
今が安定しているように見えても、数年後にどうなっているかわからない。
かといって、いつでも後ろ暗い未来を想像していても仕方がない。そんな後ろ向きな想像ばかりしていたら、本当にそれに飲み込まれていってしまうような気がした。だから、いつだって、多少の辛いことがあっても、福田はいつだって前向きに捉えてきた。次を頑張ればいい。そうやって、今の地位まで駆け上がってきた。
平日の昼時。平日だろと休日だろうとお構いなしに人が溢れている。ラーメン屋は路地裏。アンダーグラウンドな雰囲気を醸し出す路地裏に構える小さな店。外観同様に店内も薄暗く小汚いのかと思いきや、真新しいテーブルと証明、アジアンテイストを意識した派手なガールズイラストが飾られた不思議な雰囲気のラーメン屋だった。店主は福田と同じくらいかそれよりも幾分年上の若い男で、つかみどころのない笑顔を浮かべるこれまた不思議な男だった。
店に現れた福田に、店主がにっこり笑って出迎えた。
店内には数人の客がいた。カップルが二組と、いかにもラーメン好きを自称していそうな男が二人。狭い店内では客がめい一杯入っているように見える。カウンター席に座り、ラーメンが出てくるのを待つ間、福田はパンツの尻ポケットからケータイを取り出した。手持無沙汰にケータイをいじる。メールや着信はなかった。ただ暇な時間をつぶすためにケータイをいじる。
服部雄二郎の名前が並ぶ着信履歴。その合間にアシスタントの名前。見事に女っけのない着信履歴に、福田は思いっきり自嘲した。数年前まで、口うるさい女の名前ばかりが着信履歴を占拠していた。ケータイの着信も、FAXの着信もその女からのものばかりで、まるで生活の一部を乗っ取られたみたいだった。それが楽しかっただなんて、遠い記憶に思いを馳せると、急に気分が沈み込む。いかんいかん、と首を振った。
ラーメンを食べ終わると、またぶらぶらとした。原宿駅で降りる。洋服とアクセサリーを買おう。今日はそう決めていた。数件のセレクトショップを覗き、シルバーアクセサリーの専門店へと足を運ぶ。洋服の入ったショップ袋が歩くたびに膝にあたった。その道姿、独特なヘアスタイルの人物を見つけて、福田は足を止める。似合っているのか似合っていないのかわからない白のスーツを着た姫カットの男の後ろ姿に、福田は声をかけようかどうしようか一瞬迷った。迷った末に、福田は声を掛けざるを得なくなった。
「あ」
振り返った平丸が、福田に気づいたからだ。そしてそのまま、勢いよく福田の元へ走ってくる。大抵、何が言いたいのか福田はすぐに思い浮かんで露骨に嫌な顔をした。
「福田くん!吉田氏には連絡しないでくれ!」
「まだ逃げてんすか……」
やはりと言って風に首をゆるゆると振ると、それに相反するように、体を前後に激しく揺す振られる。
「そんな呆れたような顔をしないでくれ!僕にとっては死活問題なんだ!」
がくがくと揺すられる頭で、仕事が嫌いで漫画を描くのをこうして逃げているような作家が、とんとん拍子に人気作家になっていったのだから、神様は不公平だなどと、信じてもいない神を恨んだ。新妻とは違うタイプの天才。天才なんて言葉、福田は嫌いだった。編集部は誰にでも天才つけたがる。天才と持て囃される作家が嫌いなわけではない。けれど、天から与えられた才能を生かすも殺すも自分自身なのであって、誰しも天才にも凡才にも成りえる可能性を秘めているのだというのが、福田の持論だった。
確かに新妻も平丸も、凡才の自分からみたら天才なのかもしれない。けれど、どんな天才にも努力なしでの成功はありえない。福田はそう思っていた。
だから、平丸の行動には時々不愉快な気分になる。これが平丸なのだとわかってはいるものの、漫画から逃げているのに、それが面白いなんて、どうやったってマネできない。
いつまでも肩を揺すり続ける平丸から強引に逃れると、福田はぐらぐらと揺れる頭を押さえた。酔いそうだ。
「いい加減逃げるの、やめたらどうっすか?」
「やりたくないものから逃げたっていいじゃないか」
「やりたくないんすか、漫画」
「しぶしぶといった状態だね。やらなくてもいいと言われたら、絶対にやらない」
「そうすか」
「でも、蒼樹嬢と約束してるんでしょ?」
「そうなんだ、ちゃんと漫画書いてくださいって約束したんだよ」
でれでれと鼻の下が伸びる平丸の顔を、アッパーで顎の下から元に戻してやりたくなる。
「っていうか、なんでそれを福田くんが知ってるの」
「何言ってんすか、自分で言ってたじゃないですか」
中井が蒼樹のところに泥酔して乗り込もうとしたとき、わけのわからない理屈を捏ねて、中井を丸め込んでしまったじゃないか。
中井とのことは屈辱的だった。自分の言葉は一つとして通じなかった。アシスタントに誘ったことに情けや同情が一つもなかったわけではないが、それでも中井に漫画に向き合って欲しかったのに、何も、これっぽっちも福田の気持ちが伝わることはなかった。うるさい、と切り捨てられ、真面目に聞いてくれることすらしてくれなかった。
自分の言葉が伝わらないことの惨めさ屈辱感は、福田を苛んだ。こんな堕落した男のことなどどうでもいいと、もう自分とは関係ない、知ったこっちゃないと思っているのに、蝕んでいく。その大きな存在に、苛立ちを隠せなかった。
どこかで、心の奥底、今でも中井に頑張って欲しいと思う気持ちがあるのだろうか。
そんな気持ち、屈辱的な気分が増幅されるだけで、もう捨ててしまいたい。
この屈辱感は、あの日、屈辱的な行為を受けた蒼樹よりも大きいかもしれない。
平丸の影には蒼樹の姿が滲む。それが、随分と福田に苦い思いをさせているなんて、福田自身も気付きたくなかった。
「……蒼樹嬢は……?」
「え?」
「蒼樹嬢、元気?」
けれど、平丸との会話で蒼樹の名前を出すことは自然なことだった。むしろ、それしか話題にできることがなかった。
「中井さんのこと、何か言ってる?」
「中井さんのこと? いや、特には聞いてないなー」
「そうすっか……」
元来彼女には潔癖なところがある。酔っ払いふざけるのも大概にしろという程に暴れまくった中井の前に、私を殴れと出て行った蒼樹の姿こそ、生来の姿なのだと思う。出会った頃より格段の取れた角のせいで忘れかけていたが、自分の納得のいかないことにはNOを突きつける度胸は昔からあったのだ。
何も話題にしないというところを見ると、かなり怒っているのだろう。
屈辱を受けたのだ、怒って当たり前だ。自分と同じように。
福田は少し俯いて小さく笑った。
彼女らしいと思って。
未練がましく彼女のことを考えてしまう自分を憐れんで。
いつだったか平丸に蒼樹のケータイ番号を聞いたときに、「愛の告白か」と言われた。
平丸にはそれを行う勇気があって、福田には蚤みたいなちっぽけなものしかなくて、態とらしく外野から応援していただけだった。
「なーんで、あんなことしてんだろうな」
「福田くん?」
今更言ったところで何も変わらない。
振り返るとそこにあるのは、苦くなってしまった楽しかったはずの思い出だけだった。
サプライズゲスト
池袋駅で西武池袋線へ乗り換えて二駅先の江古田を目指す。
電車内でじろじろ見られた、当の本人はそれに気づかない。にやける顔そのままに時折「ぶくく」と笑っている男を、近くに座っていた女子高生が不審な目で見ると、隣にいた同じ学校の友人だと思われる少女にこそこそと耳打ちした。
あちこちで耳打ちされていることも気づかないで、男は江古田駅で降りた。
江古田駅から徒歩五分。
打ちっ放しのマンションの角部屋にたどり着くと、ごほん、とわざとらしく咳を一回。インターフォンボタンを押す。
「宅配便で〜す」
インターフォン越しからも、玄関の向こう側からも「はーい」と間延びした声と同時に、どたどたと廊下を歩く音がした。
宅配便だと疑いもせずに玄関を開けようとするのは、日頃からこの部屋の住人が宅配便を使っているからだ。
毎月定期購読しているバイク雑誌が数冊もあるのを知っているし、大量の手紙が入った段ボール箱が届いたり、資料が届くことも知っている。
何しろ部屋の住人、仮に住人をFとすると、Fのマネージメント的役割を果たしているこの男は、Fの行動が手に取るように判るようだった。Fの性格から、行動特性、予定、プライベート関係まで、大抵のことがわかっている……はずだ。
キーチェーンとキーロックがはずされる音を聞きながら、男は息を吸い込んだ。
「お荷物のお届けに参りました〜」
「え? ちょ、は? え?」
玄関扉が開かれると同時に、体をぐいとねじ込んだ。けれど、手に持った大きな荷物がじゃまで、見えているのが自慢のアフロだけという状況を男は判っているのだろうか。
「誕生日に百本のバラの花束、びっくりした?びっくりしたでしょ?というわけで、おじゃましまーす。」
「ちょ、待て! 雄二郎!」
雄二郎は、待てという制止の声を無視して、靴を放り投げずかずかと勝手知ったる部屋の中へと踏み込んでいった。
慌ててアフロ編集者を追いかけてきた部屋の住人F──福田は慌てた様子だった。福田の慌てた様子に、雄二郎は満足げだった。
「なんで来たんだよ」
「サプライズバースデーをするために決まってんじゃない。ケーキも買ってきたんだよ?あと新妻くんも来るから」
「なんで!?」
福田の裏返った声を聞くことなんて滅多にない。
これはどっきりは成功したと言えるだろう。雄二郎は、うんうんと頷きながら追いかけてきた福田に持っていたバラの花束を押しつけた。
動かす度にバラの匂いがする。
「先週新妻くんに、福田くんの誕生日もうすぐだねーって言ったら、来たいって言うから」
「はあ!?」
「福田くん、新妻くんに誕生日教えてなかったの? すごくショック受けてたよ、彼」
「いや、俺だって師匠の誕生日がいつなんか知らないし、知ってどうなるもんでもないだろが」
「ひどいなー、祝ってくれる人がいるって幸せなことじゃないの」
「別に雄二郎さんたちに祝ってほしいとか言ってないし、つか、悪ぃ、今日はちょっと、帰って」
「素直じゃないなー」
「いやいや、人の話聞けよ、雄二郎」
押しつけられたバラの花束と雄二郎を交互に見ながら突っ込む福田を無視して、雄二郎は作業テーブルにケーキの入ったボックスを置く。
「もうすぐ新妻くんも来ると思うからさー、ねえ、福田くん、ケーキ分ける皿とかあるよね?」
「雄二郎さん、今日はまじで遠慮してくんね?」
「なんでだよー!せっかく祝おうと思って来たのにぃ」
「のにぃ、とか語尾伸ばされても可愛くともないっすから、むしろきしょいっすから」
「ひどいよ、福田くん。僕たち福田くんの喜ぶ姿がみたいって思って、サプライズ計画したのに」
喜ぶ顔ってなんだ、狼狽えた様子が見たかっただけだろう、と言いたいのを我慢して、福田はため息をついた。百本のバラを花束で持ってくるなんて、どんな神経しているんだ、と真っ赤なバラをまじまじと見た。
どこでバラを買ったのだろう、まさかこのバラの花束を持って電車に乗ったのだろうか。
恥ずかしいにもほどがある。
勝手にキッチンを物色する雄二郎にもう一度言った。
「とにかく、本当、今日はだめ。忙しいんだよ」
そう最後まで言えずに、部屋のインターフォンが鳴った。
「あ、新妻くん来た!」
「え、ちょっと、勝手に出ないでよ!」
アフロの上に花がぽんぽん浮かんでいるように見える。今にもスキップをし始めそうな雄二郎を捕まえようとしたが、一歩及ばず雄二郎は玄関を開けてしまっていた。
「新妻くん! 迷わず来れた、ん……だ……?」
「ハッピーバースデーです! 福田先生!」
「まじで師匠まで来たのか、よ……あ……」
「こんにちは」
ドアノブを握って、玄関ドアを開けた状態のままの雄二郎と、その背中に張り付いた福田の二人の目の前に現れたのは、いつも通り羽根箒を至る所に指している新妻だけではなかった。
青いボーダーのマリン調の服装の蒼樹と、いつものスウェットの新妻という滅多に見ない組み合わせだった。
「途中で蒼樹先生と一緒になって、福田先生のところまで一緒に来たので迷わなかったですー」
「あ、そ……」
空気も読まずに新妻がへらっと笑った。
新妻にはひきつった表情を浮かべる雄二郎と福田は見えないのだろうか。
新妻の横で笑っているように見える蒼樹の表情が、目が、完全に笑っていないのを見て、福田はひくひくと片頬が引きつるのを感じて、なおさらひきつった。
「どうしたんです?」
やっと様子のおかしい福田と雄二郎に気がついた新妻が首を傾げたが、どうした、と言われてもバカ正直に理由を話すことなんてできない。
あなたの隣に立つ女の人が怖いんです。なんて言えるわけがない。
雄二郎が体の半身を捻った。鼻先に当たったアフロから整髪剤の匂いがする。
「もしかして、今日、蒼樹先生と約束してた?」
福田にしか聞こえないような小さな声で言った。福田は眦をつり上げて雄二郎の顔を見た。
「だから、帰ってって言ったじゃないっすか!」
「だったら最初っからそう言ってよ。蒼樹先生が来るんですって」
「雄二郎さんにプライベートなことまで、全部話す必要があるんすか!?」
「俺の立場が今危ういじゃん!」
「雄二郎さんじゃなくて、俺が一番やばいんすよ!」
「二人ともコソコソ、何話してるんですー?」
狭い玄関先で、顔をつき合わせて内緒話をする雄二郎と福田の間を割り込んで、新妻が下からにょきっと顔を出した。
神出鬼没な新妻に、福田も雄二郎も大げさなぐらい驚いた。
「暑いので入れて欲しいんですケド」
唇をとがらした新妻の格好は、通年お馴染みになっている長袖長ズボンのスウェットだった。
今日は三十三度を越える真夏日で、日本特有の湿気の多さで体感温度はもっと上のように感じる。風さえあれば、まだ快適に過ごせるのに、今日は無風状態だ。
新妻は犬のように舌を出していて、福田はその様子につっこみを入れたくなったが、外から内へと浸食してくる負のオーラに口を噤んでしまう。
ああ、どうしようか。だから無理だと言ったのに、タイミングと要領の悪い雄二郎が憎い。
相変わらずにこやかに笑っているその顔には、汗一つ滲んでいないように見えた。
「新妻くん、今日は帰ろう」
同じように蒼樹の氷の微笑みを見ていた雄二郎が言った。恥ずかしながら声が焦りで揺れているのには、誰も突っ込まないでくれるな、と雄二郎は内心で思ったが、新妻の発言でますますどつぼにハマっていくようだった。
「何でですかー? 福田先生のサプライズバースデーパーティーじゃないんです? 蒼樹先生もそのために来たんじゃないんデス?」
本人曰く、恋愛経験のない永遠の少年は、福田と雄二郎の慌てている原因には思いも至らないのだろうか。いや、むしろ天然を装って、実は何もかもお見通しなのかもしれない。要するにからかって、反応を楽しんでいるのではないか。
雄二郎は半分泣き笑いのような状態で、新妻の肩をぐいと押し出した。
「福田くん、今日は忙しいらしいんだ。また今度にしよう、な?」
えー、と抗議する新妻の背中をぐいぐいと押しやって、雄二郎は靴をつっかけて、慌ただしく「おじゃましましたー」と言って出ていこうとする。
福田は我に返って、「雄二郎、さん!」と声を張り上げながら、部屋の中に消えたかと思うと、玄関にとって返した。
「雄二郎さん、鞄!」
「おお! すまん!」
投げると雄二郎は器用に鞄を受け取った。
蒼樹とすれ違いざま、「ごめんねー」と小さく謝ると、新妻の腕を引っ張って、早く、と急かして消えていった。
嵐が去って、福田はふぅと息を吐くと、ぎくり、と身を堅くした。
「福田さん」
氷の微笑を浮かべる蒼樹が、福田の名前を呼ぶと、福田は「はい」と背筋を伸ばした。
「ここでは近所迷惑ですから、中に入ってもいいですか?」
「あ、はい、どうぞ」
妙にカクカクした動きで、福田は玄関の端に寄って、蒼樹がサンダルを脱ぐのを息を詰めて眺めていた。
部屋に入るなり、フローリングの上で正座をして向き合った。
「どういうことでしょう」
「はい」
蒼樹の沸点は決して低くはないはずだが、何しろタイミングが悪かった。
「今日は私と以前から約束していましたよね」
「はい」
「二人きりで逢うって約束でしたよね?」
「そうですね」
福田の誕生日に二人で逢おうと約束を持ちかけたのは、蒼樹からだった。もちろん祝ってもらえるのだろうなと、簡単に予想がつくものだったから、福田は即座に頷いたのだ。
誰にも言ったことはないが、恋人に誕生日を祝ってもらえるという、願ってもない状況になったことなど、恥ずかしながら二十数年間の人生の中で一度もない。
だから福田も嬉しかったのだ。
「なんで服部さんと、新妻さんがいたんでしょうか?」
「ええとですね。突然来まして」
「突然」
「帰って、って言ったんですけど、ちょっと、タイミングが悪くて……」
「タイミングが悪い」
「あ、タイミングが悪いっていうのは、向こうが、ですよ?」
普段は絶対にしないような、デスマス調で、蒼樹に向き合う福田は、福田を知っている人なら目を丸くしてしまうほど、首を竦めて縮こまっていた。
まるで亀のようだった。
「……全く……」
「すみません」
サプライズを仕掛けてきたのは雄二郎だったし、自分のせいではない、と正直なところ反論したい気持ちもあったが、言い訳がましくなるのはもっと嫌だった。確かに雄二郎に、蒼樹が来るから、と言えば、もっと早く雄二郎は帰ったかもしれない。
けれど、なんだか恥ずかしいではないか。
大ぴらに蒼樹をつき合っていると宣言したことはないし、こういうとき、どうすればいいのかなんて、恥ずかしいことに女性とつき合ったことのない福田には、わからなかったのだ。
「ぷっ」
「へ?」
ぐるぐる考えて叫び出したくなるほどもんもんとしたものを抱いていた福田の目の前で、蒼樹が肩を震わせていた。
だが泣いているのではない。
先ほど聞いた音は──
「福田さん、笑わせないでくださ、い」
しょんぼりした福田が顔をあげると、氷の微笑みから、心の底から笑んでいる蒼樹の笑顔だった。
「そんな殊勝な福田さんなんて初めて見ました! ああ、おかしい!」
蒼樹にしては珍しく腹を抱えて大笑いしている様子を見て、福田は「はは」と気の抜けた笑い声をあげた。
「最初は福田さんが、勝手に服部さんと新妻さんを呼んだんだと思っていたんですけど、あまりにも服部さんと福田さんが必死なものだか、途中からおもしろくなってしまって、少し調子にのってしまいました。」
すみません、と目尻に涙をうっすらと浮かべた蒼樹が笑って言った。浮かんだ涙は笑いすぎによるものだ。
蒼樹は机の上に置いてあった、雄二郎の置きみやげであるバラの花束を見て、少しだけ目を見開いた。
「バラの花束って……あれ、百本はありますよね」
「ああ、雄二郎のいたずらだから。ああ、腹立つ、まじで」
「情熱的ですねえ」
「似合わない冗談なんか言うな」
福田は唇をとがらした。
幼い子供がするような拗ねた表情に、蒼樹は柔らかく笑んだ。
あんなにおろおろした様子を見るのは初めてだったので、ついつい遊んでしまった。
雄二郎と新妻には悪いことをしたな、と少しばかり思ったけれど、こちらは一ヶ月以上も前から約束を取り付けてあるのだ。祝う気持ちは同じだと思うが、今日という日だけは、譲って欲しい。
「今日は遊ばれてばっかりだ」
拗ねて愚痴を言う福田の目の前に、小さめの箱を差し出した。
「何?」
「お誕生日おめでとうございます。プレゼントです」
夏だからか、青系に統一された包装紙と、幅の広いリボン。
今日は遊ばれてばかりだ、と拗ねて愚痴を言う福田が、疑うように蒼樹を見るので、「ちゃんとしたプレゼントですから、心配しないでください。」と、少しだけ困ったように笑った。
恐る恐る箱に手を伸ばし、リボンを解く福田の姿を真正面から見ながら、蒼樹は内心どきどきしていた。
目の前で自分が買ったプレゼントを開けられる瞬間、相手がどういった反応をするのか間近で確認できてしまうという状況に、少しだけ蒼樹は逃げたくなった。
元来恥ずかしいのは苦手だ。
箱が少しずつ解かれていく様子に、蒼樹は次第に恥ずかしさが増して、視線が床へと降りていってしまう。
まともに福田の顔を見ていられなくなった。
「香水?」
箱の中から小瓶を取り出して目の前に翳している。紫色の小瓶が、同色の陰を福田に落としていた。
「違うの買おうかなって言っていたじゃないですか」
ずっと安物の香水をつけているから変えたいな、と以前言っていたのを思い出して、ここは奮発しようと決めた。
「つけてみてもいい?」
「どうぞ」
そういうと、福田がおもむろに服の裾を持ち上げると、腰を出すと香水をつける。
「腰につけるんですか?」
「手首とかだときついから」
「なるほど……」
「甘い匂いだなー」
確かに、甘いな、と蒼樹も部屋の中に漂った匂いを嗅いで思う。
福田のイメージを店員に伝えたら、予想に反して甘い香りのものを選んできた。店員曰く、ワイルドでセクシーな香りらしい。
福田がセクシーかと聞かれたら、蒼樹は少し首を傾げてしまいそうになる。
普段は粗野で乱暴だ。ワイルドの部分だけは大きく頷いてしまうところだ。
けれど、まあ、確かに、寝起きの少しかすれた声だとか、挑戦的な目つきだとか、そういうところは、セクシーなのかもしれない。と、そこまで思って、何を考えているのだろうか、と慌てて頭を振った。
「ありがとな」
福田がやっと笑って言った。
香水のせいだろうか、いつもと違うように感じて、蒼樹は途端に顔が赤くなったような気がした。
心を許したような笑みに、どきどきした。
「……心臓が持たないので、やめてくれますか」
「何の話だよ」
福田が動く度、香りが揺らいで蒼樹を包み込むようだった。
店員が、ラストノートが甘美的でセクシーですよ、と言っていたのを思い出す。
すうすうと寝息を立てるリズムに合わせて、体が動いている。体温で温められて、潜り込んだシーツの中から甘い香りがほんのり漂ってくる。
体臭と混ざって、テスターで嗅いだ時とは違う匂いのように感じた。
ワイルドというより、エキゾチックでセクシーだ。
すん、と鼻を鳴らして匂いを嗅いでしまった。ああ、いい匂い、と蒼樹は微笑んで、寝返りをうって向けられた背中に張り付いた。
電車内でじろじろ見られた、当の本人はそれに気づかない。にやける顔そのままに時折「ぶくく」と笑っている男を、近くに座っていた女子高生が不審な目で見ると、隣にいた同じ学校の友人だと思われる少女にこそこそと耳打ちした。
あちこちで耳打ちされていることも気づかないで、男は江古田駅で降りた。
江古田駅から徒歩五分。
打ちっ放しのマンションの角部屋にたどり着くと、ごほん、とわざとらしく咳を一回。インターフォンボタンを押す。
「宅配便で〜す」
インターフォン越しからも、玄関の向こう側からも「はーい」と間延びした声と同時に、どたどたと廊下を歩く音がした。
宅配便だと疑いもせずに玄関を開けようとするのは、日頃からこの部屋の住人が宅配便を使っているからだ。
毎月定期購読しているバイク雑誌が数冊もあるのを知っているし、大量の手紙が入った段ボール箱が届いたり、資料が届くことも知っている。
何しろ部屋の住人、仮に住人をFとすると、Fのマネージメント的役割を果たしているこの男は、Fの行動が手に取るように判るようだった。Fの性格から、行動特性、予定、プライベート関係まで、大抵のことがわかっている……はずだ。
キーチェーンとキーロックがはずされる音を聞きながら、男は息を吸い込んだ。
「お荷物のお届けに参りました〜」
「え? ちょ、は? え?」
玄関扉が開かれると同時に、体をぐいとねじ込んだ。けれど、手に持った大きな荷物がじゃまで、見えているのが自慢のアフロだけという状況を男は判っているのだろうか。
「誕生日に百本のバラの花束、びっくりした?びっくりしたでしょ?というわけで、おじゃましまーす。」
「ちょ、待て! 雄二郎!」
雄二郎は、待てという制止の声を無視して、靴を放り投げずかずかと勝手知ったる部屋の中へと踏み込んでいった。
慌ててアフロ編集者を追いかけてきた部屋の住人F──福田は慌てた様子だった。福田の慌てた様子に、雄二郎は満足げだった。
「なんで来たんだよ」
「サプライズバースデーをするために決まってんじゃない。ケーキも買ってきたんだよ?あと新妻くんも来るから」
「なんで!?」
福田の裏返った声を聞くことなんて滅多にない。
これはどっきりは成功したと言えるだろう。雄二郎は、うんうんと頷きながら追いかけてきた福田に持っていたバラの花束を押しつけた。
動かす度にバラの匂いがする。
「先週新妻くんに、福田くんの誕生日もうすぐだねーって言ったら、来たいって言うから」
「はあ!?」
「福田くん、新妻くんに誕生日教えてなかったの? すごくショック受けてたよ、彼」
「いや、俺だって師匠の誕生日がいつなんか知らないし、知ってどうなるもんでもないだろが」
「ひどいなー、祝ってくれる人がいるって幸せなことじゃないの」
「別に雄二郎さんたちに祝ってほしいとか言ってないし、つか、悪ぃ、今日はちょっと、帰って」
「素直じゃないなー」
「いやいや、人の話聞けよ、雄二郎」
押しつけられたバラの花束と雄二郎を交互に見ながら突っ込む福田を無視して、雄二郎は作業テーブルにケーキの入ったボックスを置く。
「もうすぐ新妻くんも来ると思うからさー、ねえ、福田くん、ケーキ分ける皿とかあるよね?」
「雄二郎さん、今日はまじで遠慮してくんね?」
「なんでだよー!せっかく祝おうと思って来たのにぃ」
「のにぃ、とか語尾伸ばされても可愛くともないっすから、むしろきしょいっすから」
「ひどいよ、福田くん。僕たち福田くんの喜ぶ姿がみたいって思って、サプライズ計画したのに」
喜ぶ顔ってなんだ、狼狽えた様子が見たかっただけだろう、と言いたいのを我慢して、福田はため息をついた。百本のバラを花束で持ってくるなんて、どんな神経しているんだ、と真っ赤なバラをまじまじと見た。
どこでバラを買ったのだろう、まさかこのバラの花束を持って電車に乗ったのだろうか。
恥ずかしいにもほどがある。
勝手にキッチンを物色する雄二郎にもう一度言った。
「とにかく、本当、今日はだめ。忙しいんだよ」
そう最後まで言えずに、部屋のインターフォンが鳴った。
「あ、新妻くん来た!」
「え、ちょっと、勝手に出ないでよ!」
アフロの上に花がぽんぽん浮かんでいるように見える。今にもスキップをし始めそうな雄二郎を捕まえようとしたが、一歩及ばず雄二郎は玄関を開けてしまっていた。
「新妻くん! 迷わず来れた、ん……だ……?」
「ハッピーバースデーです! 福田先生!」
「まじで師匠まで来たのか、よ……あ……」
「こんにちは」
ドアノブを握って、玄関ドアを開けた状態のままの雄二郎と、その背中に張り付いた福田の二人の目の前に現れたのは、いつも通り羽根箒を至る所に指している新妻だけではなかった。
青いボーダーのマリン調の服装の蒼樹と、いつものスウェットの新妻という滅多に見ない組み合わせだった。
「途中で蒼樹先生と一緒になって、福田先生のところまで一緒に来たので迷わなかったですー」
「あ、そ……」
空気も読まずに新妻がへらっと笑った。
新妻にはひきつった表情を浮かべる雄二郎と福田は見えないのだろうか。
新妻の横で笑っているように見える蒼樹の表情が、目が、完全に笑っていないのを見て、福田はひくひくと片頬が引きつるのを感じて、なおさらひきつった。
「どうしたんです?」
やっと様子のおかしい福田と雄二郎に気がついた新妻が首を傾げたが、どうした、と言われてもバカ正直に理由を話すことなんてできない。
あなたの隣に立つ女の人が怖いんです。なんて言えるわけがない。
雄二郎が体の半身を捻った。鼻先に当たったアフロから整髪剤の匂いがする。
「もしかして、今日、蒼樹先生と約束してた?」
福田にしか聞こえないような小さな声で言った。福田は眦をつり上げて雄二郎の顔を見た。
「だから、帰ってって言ったじゃないっすか!」
「だったら最初っからそう言ってよ。蒼樹先生が来るんですって」
「雄二郎さんにプライベートなことまで、全部話す必要があるんすか!?」
「俺の立場が今危ういじゃん!」
「雄二郎さんじゃなくて、俺が一番やばいんすよ!」
「二人ともコソコソ、何話してるんですー?」
狭い玄関先で、顔をつき合わせて内緒話をする雄二郎と福田の間を割り込んで、新妻が下からにょきっと顔を出した。
神出鬼没な新妻に、福田も雄二郎も大げさなぐらい驚いた。
「暑いので入れて欲しいんですケド」
唇をとがらした新妻の格好は、通年お馴染みになっている長袖長ズボンのスウェットだった。
今日は三十三度を越える真夏日で、日本特有の湿気の多さで体感温度はもっと上のように感じる。風さえあれば、まだ快適に過ごせるのに、今日は無風状態だ。
新妻は犬のように舌を出していて、福田はその様子につっこみを入れたくなったが、外から内へと浸食してくる負のオーラに口を噤んでしまう。
ああ、どうしようか。だから無理だと言ったのに、タイミングと要領の悪い雄二郎が憎い。
相変わらずにこやかに笑っているその顔には、汗一つ滲んでいないように見えた。
「新妻くん、今日は帰ろう」
同じように蒼樹の氷の微笑みを見ていた雄二郎が言った。恥ずかしながら声が焦りで揺れているのには、誰も突っ込まないでくれるな、と雄二郎は内心で思ったが、新妻の発言でますますどつぼにハマっていくようだった。
「何でですかー? 福田先生のサプライズバースデーパーティーじゃないんです? 蒼樹先生もそのために来たんじゃないんデス?」
本人曰く、恋愛経験のない永遠の少年は、福田と雄二郎の慌てている原因には思いも至らないのだろうか。いや、むしろ天然を装って、実は何もかもお見通しなのかもしれない。要するにからかって、反応を楽しんでいるのではないか。
雄二郎は半分泣き笑いのような状態で、新妻の肩をぐいと押し出した。
「福田くん、今日は忙しいらしいんだ。また今度にしよう、な?」
えー、と抗議する新妻の背中をぐいぐいと押しやって、雄二郎は靴をつっかけて、慌ただしく「おじゃましましたー」と言って出ていこうとする。
福田は我に返って、「雄二郎、さん!」と声を張り上げながら、部屋の中に消えたかと思うと、玄関にとって返した。
「雄二郎さん、鞄!」
「おお! すまん!」
投げると雄二郎は器用に鞄を受け取った。
蒼樹とすれ違いざま、「ごめんねー」と小さく謝ると、新妻の腕を引っ張って、早く、と急かして消えていった。
嵐が去って、福田はふぅと息を吐くと、ぎくり、と身を堅くした。
「福田さん」
氷の微笑を浮かべる蒼樹が、福田の名前を呼ぶと、福田は「はい」と背筋を伸ばした。
「ここでは近所迷惑ですから、中に入ってもいいですか?」
「あ、はい、どうぞ」
妙にカクカクした動きで、福田は玄関の端に寄って、蒼樹がサンダルを脱ぐのを息を詰めて眺めていた。
部屋に入るなり、フローリングの上で正座をして向き合った。
「どういうことでしょう」
「はい」
蒼樹の沸点は決して低くはないはずだが、何しろタイミングが悪かった。
「今日は私と以前から約束していましたよね」
「はい」
「二人きりで逢うって約束でしたよね?」
「そうですね」
福田の誕生日に二人で逢おうと約束を持ちかけたのは、蒼樹からだった。もちろん祝ってもらえるのだろうなと、簡単に予想がつくものだったから、福田は即座に頷いたのだ。
誰にも言ったことはないが、恋人に誕生日を祝ってもらえるという、願ってもない状況になったことなど、恥ずかしながら二十数年間の人生の中で一度もない。
だから福田も嬉しかったのだ。
「なんで服部さんと、新妻さんがいたんでしょうか?」
「ええとですね。突然来まして」
「突然」
「帰って、って言ったんですけど、ちょっと、タイミングが悪くて……」
「タイミングが悪い」
「あ、タイミングが悪いっていうのは、向こうが、ですよ?」
普段は絶対にしないような、デスマス調で、蒼樹に向き合う福田は、福田を知っている人なら目を丸くしてしまうほど、首を竦めて縮こまっていた。
まるで亀のようだった。
「……全く……」
「すみません」
サプライズを仕掛けてきたのは雄二郎だったし、自分のせいではない、と正直なところ反論したい気持ちもあったが、言い訳がましくなるのはもっと嫌だった。確かに雄二郎に、蒼樹が来るから、と言えば、もっと早く雄二郎は帰ったかもしれない。
けれど、なんだか恥ずかしいではないか。
大ぴらに蒼樹をつき合っていると宣言したことはないし、こういうとき、どうすればいいのかなんて、恥ずかしいことに女性とつき合ったことのない福田には、わからなかったのだ。
「ぷっ」
「へ?」
ぐるぐる考えて叫び出したくなるほどもんもんとしたものを抱いていた福田の目の前で、蒼樹が肩を震わせていた。
だが泣いているのではない。
先ほど聞いた音は──
「福田さん、笑わせないでくださ、い」
しょんぼりした福田が顔をあげると、氷の微笑みから、心の底から笑んでいる蒼樹の笑顔だった。
「そんな殊勝な福田さんなんて初めて見ました! ああ、おかしい!」
蒼樹にしては珍しく腹を抱えて大笑いしている様子を見て、福田は「はは」と気の抜けた笑い声をあげた。
「最初は福田さんが、勝手に服部さんと新妻さんを呼んだんだと思っていたんですけど、あまりにも服部さんと福田さんが必死なものだか、途中からおもしろくなってしまって、少し調子にのってしまいました。」
すみません、と目尻に涙をうっすらと浮かべた蒼樹が笑って言った。浮かんだ涙は笑いすぎによるものだ。
蒼樹は机の上に置いてあった、雄二郎の置きみやげであるバラの花束を見て、少しだけ目を見開いた。
「バラの花束って……あれ、百本はありますよね」
「ああ、雄二郎のいたずらだから。ああ、腹立つ、まじで」
「情熱的ですねえ」
「似合わない冗談なんか言うな」
福田は唇をとがらした。
幼い子供がするような拗ねた表情に、蒼樹は柔らかく笑んだ。
あんなにおろおろした様子を見るのは初めてだったので、ついつい遊んでしまった。
雄二郎と新妻には悪いことをしたな、と少しばかり思ったけれど、こちらは一ヶ月以上も前から約束を取り付けてあるのだ。祝う気持ちは同じだと思うが、今日という日だけは、譲って欲しい。
「今日は遊ばれてばっかりだ」
拗ねて愚痴を言う福田の目の前に、小さめの箱を差し出した。
「何?」
「お誕生日おめでとうございます。プレゼントです」
夏だからか、青系に統一された包装紙と、幅の広いリボン。
今日は遊ばれてばかりだ、と拗ねて愚痴を言う福田が、疑うように蒼樹を見るので、「ちゃんとしたプレゼントですから、心配しないでください。」と、少しだけ困ったように笑った。
恐る恐る箱に手を伸ばし、リボンを解く福田の姿を真正面から見ながら、蒼樹は内心どきどきしていた。
目の前で自分が買ったプレゼントを開けられる瞬間、相手がどういった反応をするのか間近で確認できてしまうという状況に、少しだけ蒼樹は逃げたくなった。
元来恥ずかしいのは苦手だ。
箱が少しずつ解かれていく様子に、蒼樹は次第に恥ずかしさが増して、視線が床へと降りていってしまう。
まともに福田の顔を見ていられなくなった。
「香水?」
箱の中から小瓶を取り出して目の前に翳している。紫色の小瓶が、同色の陰を福田に落としていた。
「違うの買おうかなって言っていたじゃないですか」
ずっと安物の香水をつけているから変えたいな、と以前言っていたのを思い出して、ここは奮発しようと決めた。
「つけてみてもいい?」
「どうぞ」
そういうと、福田がおもむろに服の裾を持ち上げると、腰を出すと香水をつける。
「腰につけるんですか?」
「手首とかだときついから」
「なるほど……」
「甘い匂いだなー」
確かに、甘いな、と蒼樹も部屋の中に漂った匂いを嗅いで思う。
福田のイメージを店員に伝えたら、予想に反して甘い香りのものを選んできた。店員曰く、ワイルドでセクシーな香りらしい。
福田がセクシーかと聞かれたら、蒼樹は少し首を傾げてしまいそうになる。
普段は粗野で乱暴だ。ワイルドの部分だけは大きく頷いてしまうところだ。
けれど、まあ、確かに、寝起きの少しかすれた声だとか、挑戦的な目つきだとか、そういうところは、セクシーなのかもしれない。と、そこまで思って、何を考えているのだろうか、と慌てて頭を振った。
「ありがとな」
福田がやっと笑って言った。
香水のせいだろうか、いつもと違うように感じて、蒼樹は途端に顔が赤くなったような気がした。
心を許したような笑みに、どきどきした。
「……心臓が持たないので、やめてくれますか」
「何の話だよ」
福田が動く度、香りが揺らいで蒼樹を包み込むようだった。
店員が、ラストノートが甘美的でセクシーですよ、と言っていたのを思い出す。
すうすうと寝息を立てるリズムに合わせて、体が動いている。体温で温められて、潜り込んだシーツの中から甘い香りがほんのり漂ってくる。
体臭と混ざって、テスターで嗅いだ時とは違う匂いのように感じた。
ワイルドというより、エキゾチックでセクシーだ。
すん、と鼻を鳴らして匂いを嗅いでしまった。ああ、いい匂い、と蒼樹は微笑んで、寝返りをうって向けられた背中に張り付いた。
SLOW LIFE 【4】
「福田せんせー猫飼ったです?」
携帯電話に新妻からの着信を見て、慌てて電話をとった第一声がそれだった。
新妻から電話が掛かってくることは滅多にない。アシスタントとして新妻の元で仕事をしていたときですら、連絡がくることは稀だったのに、新妻と同じように連載作家になってからはますますだ。
大抵電話をかけるのは福田からで、新妻の携帯電話はもはや受信専用状態であると、福田と担当の雄二郎は知っていた。
「雄二郎さんから聞いたのか?」
「そうです! 見に行ってもいいですか?」
「いいけど。うちの場所知ってるっけ?」
自分から新妻に「猫を飼いはじめた」、という報告は一度もしていない。新妻と共通の知りあいは作家仲間を含めればそれなりにいるが、どう考えても同じ担当である雄二郎に聞いたのだろうということは、すぐに見当ができた。
何しろこの間雄二郎は、福田の飼い猫から自慢のアフロへのダイブをされてしまったのだから、話題にもなるのだろう。
「住所は知ってますけど、たどり着けるかわからないです。迎えに来てください」
「ええ〜」
いつも新妻は無理な注文をしてくる。冗談と本気の区別がつき辛く、さらに一度決めてしまったことは、これといった確実に納得した理由がないかぎり覆ることはない。それらは大抵、一般人からすると突拍子もないことだから、新妻と接しているときは驚くことばかりだ。
新妻の初期のキャリアからアシスタントを勤めていたおかげで、新妻とまともに会話ができる数少ない人間の一人だということは、福田も薄々感じている。
そして無理なお願いはしても、福田に対しては一応こちらの意見や機嫌を伺おうとしていることも、薄々気付いていた。
同じ担当編集者である雄二郎には、無理なお願いもごり押しで通そうとするのが新妻だ。
それを考えたら福田だって雄二郎には言いたいことの全てを言っている気がして、担当する漫画家の二人ともがそれでは、雄二郎も大変だろうか、なんて普段はしない同情を少しだけして、でもやっぱりそんなことはないか、とかぶりを振る。
雄二郎だって、編集内では自分の考えは率直に言う方だし、野心を隠そうともしない。癖の強い二人の漫画家に対して上手くコントロールしているのだから、出来た編集である。二人に気後れすることもないし、あの新妻を上手く泳がせてコントロールしている。福田にあった題材を見付けてくるし、かなり自由に描かせてくれるが、重要な要所を押さえるところはシビアに指摘するのも忘れない。
漫画家同様に担当も成長しているのかと思って、今度は感心してしまった。
まあ、たまには雄二郎のことを褒めてやってもいい。
結局、この漫画家にして担当有りという状態なのかもしれない。
「行っちゃダメです?」
返事のない福田の機嫌を伺うように、新妻の声が聞こえた。
たぶん電話の向こうで、しょんぼりしている姿でいるのだろう。
いつもの羽帚をスウェットの中に何本も差し込んだ姿で、椅子の上で丸くなっているのを想像して、福田は苦笑した。
「……わかったよ」
年下であるからか、結局福田は新妻には甘くしてしまう。電話の向こうでいつものテンションを取り戻した新妻に、いつがいいのか予定を聞き出すのに、随分時間がかかってしまって、電話を切ったあとの通話時間にびっくりした。それなのに、新妻と何を話していたか、明確には記憶していなくて、あまりにも他愛のない話だったのだなと、またしても苦笑して、膝の上の特等席に居座る黒猫をひと撫でした。
「おおー福田せんせーの仕事場はじめてです!」
「そうだな。新妻くんとこより狭いけど、ゆっくりしてっていいよ」
「ありがとうございます!」
電話が来てから間を置かずに部屋を訪れた新妻は、初めて入る福田の仕事場兼自宅に興味津々といったようにあちらこちらに視線を彷徨わせていた。
東京は怖いだの何だの言って、ろくに買い物すらも行かない新妻の面倒を、スタッフ時代は見ていたのを思い出して、福田は「そういえば」と切り出した。
「師匠、買い物とか行ってる? やっぱりいつも弁当食べてんの?」
「東京怖いです。外出たくないです」
「上京して何年たってんだよ」
「それでも怖いです。なんであんなに人がいるんです?」
怖い怖いと、眉を寄せた新妻の表情に、福田は呆れながら問うた。
「いつもどうしてんの? やっぱりスタッフに面倒みてもらってんの?」
「雄二郎さんがいろいろやってくれますし」
「ああ……」
やはり、と納得した表情で頷いた。新妻が上京したのは高校生の頃だ。何も知らない世間知らずの変人(といってもいいだろう)を一人暮らしさせるのだから、編集部としてもかなり気を遣ったに違いない。
担当である雄二郎は当時もかなり新妻の生活面での面倒も見ていたが、成人してもなお見続けているのか。
「師匠、そろそろ自炊とかすれば?」
「作る余裕がないですし、作れませんし」
漫画を描くことが、食事よりも好きな新妻のことだから、食べるものなんてどうでもいいのかもしれない。何を食べているのか自覚もないままに食事を終え、漫画を描いている光景がリアルに想像できて、福田は溜め息をついた。
「そのうち身体壊すよ?」
「そういう福田先生は、自炊してるです?」
「うっ、お、俺は、してるさ!」
「本当ですか〜?」
下から覗き込まれて、思わず赤くなってしまう。実際はほとんどしていないし、新妻の言う通りしている時間があまりない。それはついこの間蒼樹にも同じように指摘されたところだ。
墓穴を掘ってしまった。
慌てる福田に助け船を出すように、足下でみゃあと鳴き声がした。
「おおージジですね! 魔女の宅●便ですね!」
某有名アニメの黒猫の名前を出して、ばさっと持っていた羽帚を広げた。
新妻のトレードマークである羽帚と、相変わらずのオーバーリアクションに見慣れている福田はなんとも思わなかったが、それを初めて見た飼い猫のほうは、驚いたらしく、びくっと固まってしまった。
その様子が可笑しくて、福田はくくっと小さく笑った。
「どうしたです?」
「びびってんだよ、新妻くんに」
「そうなんです?」
「ああ」
恐る恐る近づこうとするところは、まだまだ興味津々の仔猫といったところだろうか。前脚を出しつ引っ込めつつをくり返していた。
「怖がらなくていいです」
しゃがんだ新妻が、手に持った羽帚をわさわさと動かした。その羽帚の動きに途端に黒猫は興味を奪われる。新妻の操る羽帚を追い掛け回すのに、時間はかからなかった。
「そういえば」
「なに?」
すっかり猫と打ち解けた新妻が、キッチンでコーヒーを入れていた福田を呼んだ。
「この猫の名前、まだ聞いてないです。」
「そういや、決めてなかった。」
「そうなんです? それはかわいそうです!」
「そうだなあ……」
コーヒーを啜りながら、うーんと唸る。
「僕がつけてもいいです?」
「師匠が?」
「はい」
「……いいよ。ぱっと思い浮かばないし、何かあるの?」
「クロウはどうです!」
「いやそれ、自分の漫画の主人公じゃん。カラスじゃん!」
「でも真っ黒で似てます!」
「色だけね。なんで俺が、俺の飼い猫にライバル作家のキャラクターの名前つけなきゃいけないんだよ。」
「だめですか……」
しゅんとうな垂れる新妻に、福田はうっと言葉に詰まる。そうやってあからさまにしゅんとされると、罪悪感に塗れてしまう。これは、作戦なのだ。新妻の福田を陥落させるために作戦に違いない。そうしてあからさまな残念な態度を見せることで、うんと言わそうとしているのだ。福田がこういう顔に弱いのを知っているのだ。
その手には乗らないぞ、福田はそう思った。
「いい名前だと思ったんですケド。ねえ、クロウ?」
「クロウじゃないし」
けれど、福田の意思とは逆に、飼い猫はみゃあと新妻に呼応するように鳴いた。
「返事しました!」
「ええ〜」
新妻の作戦には乗らないぞと思った矢先にこれだ。新妻は調子に乗って、しきりにクロウと連呼した。
そんな楽しそうな新妻を見ていたら、なんだかどうでもよくなった。
「もう、いいよ、クロウで。そいつも気に入ってるみたいだし?」
「ヤッターピーンです! うれしいです!」
はしゃいでカラスの鳴き真似をする新妻と、新妻の振り回す羽帚を追いかけるクロウのせいで、福田はへとへとに疲れることになるのは、もう少しだけ、本当にほんのちょっと先の話だろうか。
携帯電話に新妻からの着信を見て、慌てて電話をとった第一声がそれだった。
新妻から電話が掛かってくることは滅多にない。アシスタントとして新妻の元で仕事をしていたときですら、連絡がくることは稀だったのに、新妻と同じように連載作家になってからはますますだ。
大抵電話をかけるのは福田からで、新妻の携帯電話はもはや受信専用状態であると、福田と担当の雄二郎は知っていた。
「雄二郎さんから聞いたのか?」
「そうです! 見に行ってもいいですか?」
「いいけど。うちの場所知ってるっけ?」
自分から新妻に「猫を飼いはじめた」、という報告は一度もしていない。新妻と共通の知りあいは作家仲間を含めればそれなりにいるが、どう考えても同じ担当である雄二郎に聞いたのだろうということは、すぐに見当ができた。
何しろこの間雄二郎は、福田の飼い猫から自慢のアフロへのダイブをされてしまったのだから、話題にもなるのだろう。
「住所は知ってますけど、たどり着けるかわからないです。迎えに来てください」
「ええ〜」
いつも新妻は無理な注文をしてくる。冗談と本気の区別がつき辛く、さらに一度決めてしまったことは、これといった確実に納得した理由がないかぎり覆ることはない。それらは大抵、一般人からすると突拍子もないことだから、新妻と接しているときは驚くことばかりだ。
新妻の初期のキャリアからアシスタントを勤めていたおかげで、新妻とまともに会話ができる数少ない人間の一人だということは、福田も薄々感じている。
そして無理なお願いはしても、福田に対しては一応こちらの意見や機嫌を伺おうとしていることも、薄々気付いていた。
同じ担当編集者である雄二郎には、無理なお願いもごり押しで通そうとするのが新妻だ。
それを考えたら福田だって雄二郎には言いたいことの全てを言っている気がして、担当する漫画家の二人ともがそれでは、雄二郎も大変だろうか、なんて普段はしない同情を少しだけして、でもやっぱりそんなことはないか、とかぶりを振る。
雄二郎だって、編集内では自分の考えは率直に言う方だし、野心を隠そうともしない。癖の強い二人の漫画家に対して上手くコントロールしているのだから、出来た編集である。二人に気後れすることもないし、あの新妻を上手く泳がせてコントロールしている。福田にあった題材を見付けてくるし、かなり自由に描かせてくれるが、重要な要所を押さえるところはシビアに指摘するのも忘れない。
漫画家同様に担当も成長しているのかと思って、今度は感心してしまった。
まあ、たまには雄二郎のことを褒めてやってもいい。
結局、この漫画家にして担当有りという状態なのかもしれない。
「行っちゃダメです?」
返事のない福田の機嫌を伺うように、新妻の声が聞こえた。
たぶん電話の向こうで、しょんぼりしている姿でいるのだろう。
いつもの羽帚をスウェットの中に何本も差し込んだ姿で、椅子の上で丸くなっているのを想像して、福田は苦笑した。
「……わかったよ」
年下であるからか、結局福田は新妻には甘くしてしまう。電話の向こうでいつものテンションを取り戻した新妻に、いつがいいのか予定を聞き出すのに、随分時間がかかってしまって、電話を切ったあとの通話時間にびっくりした。それなのに、新妻と何を話していたか、明確には記憶していなくて、あまりにも他愛のない話だったのだなと、またしても苦笑して、膝の上の特等席に居座る黒猫をひと撫でした。
「おおー福田せんせーの仕事場はじめてです!」
「そうだな。新妻くんとこより狭いけど、ゆっくりしてっていいよ」
「ありがとうございます!」
電話が来てから間を置かずに部屋を訪れた新妻は、初めて入る福田の仕事場兼自宅に興味津々といったようにあちらこちらに視線を彷徨わせていた。
東京は怖いだの何だの言って、ろくに買い物すらも行かない新妻の面倒を、スタッフ時代は見ていたのを思い出して、福田は「そういえば」と切り出した。
「師匠、買い物とか行ってる? やっぱりいつも弁当食べてんの?」
「東京怖いです。外出たくないです」
「上京して何年たってんだよ」
「それでも怖いです。なんであんなに人がいるんです?」
怖い怖いと、眉を寄せた新妻の表情に、福田は呆れながら問うた。
「いつもどうしてんの? やっぱりスタッフに面倒みてもらってんの?」
「雄二郎さんがいろいろやってくれますし」
「ああ……」
やはり、と納得した表情で頷いた。新妻が上京したのは高校生の頃だ。何も知らない世間知らずの変人(といってもいいだろう)を一人暮らしさせるのだから、編集部としてもかなり気を遣ったに違いない。
担当である雄二郎は当時もかなり新妻の生活面での面倒も見ていたが、成人してもなお見続けているのか。
「師匠、そろそろ自炊とかすれば?」
「作る余裕がないですし、作れませんし」
漫画を描くことが、食事よりも好きな新妻のことだから、食べるものなんてどうでもいいのかもしれない。何を食べているのか自覚もないままに食事を終え、漫画を描いている光景がリアルに想像できて、福田は溜め息をついた。
「そのうち身体壊すよ?」
「そういう福田先生は、自炊してるです?」
「うっ、お、俺は、してるさ!」
「本当ですか〜?」
下から覗き込まれて、思わず赤くなってしまう。実際はほとんどしていないし、新妻の言う通りしている時間があまりない。それはついこの間蒼樹にも同じように指摘されたところだ。
墓穴を掘ってしまった。
慌てる福田に助け船を出すように、足下でみゃあと鳴き声がした。
「おおージジですね! 魔女の宅●便ですね!」
某有名アニメの黒猫の名前を出して、ばさっと持っていた羽帚を広げた。
新妻のトレードマークである羽帚と、相変わらずのオーバーリアクションに見慣れている福田はなんとも思わなかったが、それを初めて見た飼い猫のほうは、驚いたらしく、びくっと固まってしまった。
その様子が可笑しくて、福田はくくっと小さく笑った。
「どうしたです?」
「びびってんだよ、新妻くんに」
「そうなんです?」
「ああ」
恐る恐る近づこうとするところは、まだまだ興味津々の仔猫といったところだろうか。前脚を出しつ引っ込めつつをくり返していた。
「怖がらなくていいです」
しゃがんだ新妻が、手に持った羽帚をわさわさと動かした。その羽帚の動きに途端に黒猫は興味を奪われる。新妻の操る羽帚を追い掛け回すのに、時間はかからなかった。
「そういえば」
「なに?」
すっかり猫と打ち解けた新妻が、キッチンでコーヒーを入れていた福田を呼んだ。
「この猫の名前、まだ聞いてないです。」
「そういや、決めてなかった。」
「そうなんです? それはかわいそうです!」
「そうだなあ……」
コーヒーを啜りながら、うーんと唸る。
「僕がつけてもいいです?」
「師匠が?」
「はい」
「……いいよ。ぱっと思い浮かばないし、何かあるの?」
「クロウはどうです!」
「いやそれ、自分の漫画の主人公じゃん。カラスじゃん!」
「でも真っ黒で似てます!」
「色だけね。なんで俺が、俺の飼い猫にライバル作家のキャラクターの名前つけなきゃいけないんだよ。」
「だめですか……」
しゅんとうな垂れる新妻に、福田はうっと言葉に詰まる。そうやってあからさまにしゅんとされると、罪悪感に塗れてしまう。これは、作戦なのだ。新妻の福田を陥落させるために作戦に違いない。そうしてあからさまな残念な態度を見せることで、うんと言わそうとしているのだ。福田がこういう顔に弱いのを知っているのだ。
その手には乗らないぞ、福田はそう思った。
「いい名前だと思ったんですケド。ねえ、クロウ?」
「クロウじゃないし」
けれど、福田の意思とは逆に、飼い猫はみゃあと新妻に呼応するように鳴いた。
「返事しました!」
「ええ〜」
新妻の作戦には乗らないぞと思った矢先にこれだ。新妻は調子に乗って、しきりにクロウと連呼した。
そんな楽しそうな新妻を見ていたら、なんだかどうでもよくなった。
「もう、いいよ、クロウで。そいつも気に入ってるみたいだし?」
「ヤッターピーンです! うれしいです!」
はしゃいでカラスの鳴き真似をする新妻と、新妻の振り回す羽帚を追いかけるクロウのせいで、福田はへとへとに疲れることになるのは、もう少しだけ、本当にほんのちょっと先の話だろうか。
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