FROM YOU
「俺たち学年的には、一個違いなんだよな」
爽やかな新緑シーズンの到来は、ようやく長かった冬に完全に終止符を打った。春の少し花冷えするなか花見をしたが、暑くもなく寒くもないこの時期を迎えると、やっと冬も終わったなと思うのだ。これから梅雨が訪れるまでの数週間は快適に過ごせるだろう。梅雨に突入し、それが明ければ暑い夏の到来だ。
新緑の鮮やかな緑は、風景が煌めいて見える。そんな季節に外出しないのはかなり勿体ないことだ。
ゴールデンウィークに入った福田と蒼樹は、正月休み以来の少し長めの休暇を貰って、久しぶりに福田のバイクを走らせて那須へやってきた。
保養地として知名度の高い那須は、豊かな自然とその中に広大なアウトレットモールや遊園地などがあり、デートスポットや観光スポットとして、カップルや家族連れ、団体旅行客など多くの人が訪れる場所だ。
やはり観光としては時期が良く、いつも以上に人が集まっている印象を覚える。
人ごみが苦手だからといって、このシーズンを外していくと、新緑シーズンは終わってしまうのだから仕方がない。
福田と蒼樹はようやくカフェレストランのテーブル席についた。どこもかしこも人が多く、レストランに入るにも三十分待ちの店が続出だ。長時間待つのは苦痛だが、かといってわざわざ遠出をしたのに、普段入れるような、どこにでもあるファストフード店やファミレスに入ったのでは意味がない。福田と蒼樹が席についたころにはランチタイムのピークは過ぎており、少しはゆっくり食事を楽しめそうだった。
那須牛や高原野菜を使った料理に舌鼓をうちながら、福田がおもむろに言った。
「そうですね。たった半年しか違わないのに、理不尽ですよね」
「そうかー? 理不尽とかまで思うかー?」
「思いますよ! もう少し遅かったら福田さんと同学年だったんですよ」
同学年だったらよかったのにな、そんな風に思うことがある。
そう言うと、福田は肩を少しあげた。
「つっても、今は大人だし、学年うんぬんってあんまり意識しないじゃん。確かに蒼樹嬢の方が半年年上だけど、なんかあんま年上って感覚ないし」
蒼樹の予想した通り、福田の反応は相変わらずリアリズムの固まりだ。少しは膨らませてものを考えられないのかと、蒼樹はむっとした。それが福田なのだと言われてしまえばそれで終わりなのだろうが、相手と話を続けようとは思わないのだろうか。
現実主義なのは大いに結構、そこが問題なのではない。話題を振ったのは福田の方なのに、「はい、そうですね」と切り返すだけだったら、そこで会話が終わってしまう。それでもいいと思えるのは、長年連れ添った、互いのことを知り尽くした夫婦のような間柄だけで、そんな関係でさえも、考え方の相違や長年の鬱憤が爆発して熟年離婚だなんてあるのだから、コミュニケーションを取るということは、大切なことで、努力しなければ成り立たないものなのである。
おしなべて男性はそういう努力を怠る傾向がある。特に、気心の知れたつきあいになればなるほど、わかるだろ、と勝手に思いこむ癖がある。もしくは、恥ずかしいと思う気持ちもあるのかもしれない。
けれどそうやってコミュニケーションを怠ると、結局喧嘩になってしまう。
誰も好き好んで喧嘩をしたいわけではない。
それになんだろう、今の最後の方の言葉は。失礼な。福田よりも年上であるということを強調されるのも気分が良くないが、年上に見えないと言われるのも癪に触るものだ。
蒼樹は少しだけ唇を尖らして言った。
「同学年だったらもっと会話があうかもなーとか思いません?」
「うーん。共通の話題はあんのかもしんないけど、それもたかだか一年の違いじゃん。対して差なんかないと思うぜ。それに学生時代の思い出話で盛り上がったことなくね? 俺ら」
「そうかもしれませんね」
「だろ?」
高原野菜のパスタを皿に取り分けていた福田が、蒼樹に皿を手渡してくる。福田が苦手だというトマトが、福田の分までこっそり蒼樹の皿に乗っていた。毎度のことなので、怒る気にもなれないが福田が見ていない隙に一個ぐらいはトマトを乗せてやろうと福田から皿を受け取りながら思った。
生トマトを使った料理が出てくると、熾烈な争いが繰り広げられることがある。特にミニトマトが丸ごと一個添えられているようなメニューの場合、食事の最後の最後までトマトをどちらが食べるか争いをしている。
福田はトマトが嫌いだが、蒼樹は好きでも嫌いでもない。普通に食べることができる。
食べられる人が食べればいいのだと福田は言い、少しでも食生活の偏りをなくして欲しいと蒼樹は主張する。
さりげなく相手の皿にトマトを置くと、相手が気を緩めている間に、またさりげなく移し変える。無言の応酬を何回か繰り返した後、食事の最後までそのトマトが残った場合は、結局互いの主張を言い張りながらどちらかが折れるということを繰り返している。
今のところ七勝八敗と、福田に一勝だけ勝ち越されている。次こそは福田に食べてもらうのだからと、蒼樹は乗せられたトマトを見ながら思っていた。
一瞬のうちに物思いに耽っていた蒼樹は、今の今まで何の話をしていたかすっかり抜け落ちてしまっていた。
「でも、どうしてそんなにこだわんの?」
「何がですか?」
「だから、同学年だったらよかったのにって、言ったじゃん。ていうか、俺の話聞いてんの?」
「福田さんがトマトを全部私のお皿に乗っけるから、ついついそっちに意識が行ってしまったんです」
「ちっ……ばれてるか」
「当たり前でしょう? これだけあからさまにトマトを大量に乗っけられたら、誰だって分かります。一個は食べてくださいね」
「えーやだよ」
やはりそう言うか、と蒼樹は思いながらも、容赦なく福田のパスタ皿にトマトを一個だけ移した。
「えー、じゃありませんからね! この間も福田さんの分のトマトを私が食べたんですよ? トマトが嫌いなら、トマトのないものを頼めばいいのに、どうしてトマトが入っているものを頼むんですか。好き嫌いはないほうがいいですけれど、いっつも大量のトマトを食べさせられるこちらの身にもなってください。たまにはそういう気遣いがあってもいいと思います」
「だって、これがうまそうだったんだ! トマトは確かに入ってっけど! 彩りがいいっていうか?」
「彩りとか考えられるんですから、どうしてトマトが食べられないのか不思議で仕方がありませんよ!」
「いーじゃん! 彩りは綺麗だけど味は苦手なの!」
不思議な人だ。蒼樹は納得がいかなかったが、延々とこの話を繰り返していても仕方がない。これが出先でなければ、はっきりさせるまでしつこい程に話をするかもしれない。蒼樹の性格上、白黒はっきりさせないと気が済まないからだ。
でもここは観光地で、レストランだ。
酷い言い争いは避けるべきだし、しかも理由がかなり小さなものである。
蒼樹は小さく首を振ると、フォークでぷすりとトマトを刺した。
「先ほどの質問の回答ですけれど、それは乙女心だと思います。たぶん」
同学年であったらよかったのにと、どうしてそこにこだわるのかという福田の疑問への答えだ。
「たぶん、かよ」
「もし、私と福田さんが同じ学校に通っていたとしましょう。そして、面識があったとしましょう。そのときお互いのことが好きで、つき合っていたかもしれません。そうしたら、私が一学年上で、福田さんが一学年下。私が先に卒業をしてしまうわけじゃないですか。たった半年の差しかないのに。同学年だったら、もっとそばにいれるし、同じ時間をもっと過ごせるのになって……まあ、たとえばの話ですよ。そういう感じの乙女心というものがあるんですよ」
「マンガの読みすぎなんじゃねえか?」
福田は呆れたように苦笑していた。
「福田さんに言われたくないですね」
マンガの読みすぎじゃないか、なんて、漫画家の言うことか。現実はありえそうになくて、でも現実ともどこかでリンクしている。そんな非現実社会を作品の題材にしながら、少年誌で連載している作家が使う言葉ではない。
マンガをほとんど読まず作家になった人もいるだろうが、ほとんどの作家はマンガが好きで、マンガの虫になるぐらい読み込み、台詞も逐一覚え、空で言えるぐらいのマンガオタクが多い。
目標があって、憧れがあって、そういうきっかけを元に漫画家になる。
蒼樹はそうだったし、福田の話を聞く限り、彼も蒼樹と同じである。
だから、マンガの読みすぎだなんて、福田から言われるのは心外である。
そうだ、マンガの読みすぎである。
それは認めよう。その世界に憧れているのも認めよう。
「でもさー、現実は違うし、俺らは学生でもないし、大人だし。会いたいときには会えるし、逆に会えないときもあるけど、それには理由があるってわかってるし。同じところを目指してて、それをお互いに理解してるっていう、今の状況は、学生時代より、もっとずっと濃い関係だと思うけど。違う?」
マンガの世界に憧れていても、それを越えるものがこの現実にはあることも認めよう。
「俺は、学生時代に出会ってたらとか考えるより、今の方が幸せだと思う」
現実主義と理想主義。真反対に位置するはずのその考え方は、真反対だからこそ背中合わせの表裏一体。振り返ればすぐそこに、相手の顔がキスできるほどにそばにあるような、そんな近しい考え方なのかもしれない。
理想に近づくためにより現実を注視し、現実を見ているそれだけでは未来に向かって一歩も先へ進むことができないから、理想を求める。
この世にあるものの見方考え方は、常に否定しあうものばかりではない。
「そんな風に考えてたんですか」
「何だよ、悪いかよ」
蒼樹はさぞかし驚いたとばかりに目を見開いていた。福田の少しふてくされたような態度に、蒼樹は目を見開いたまま首を振った。
「そんなわけないじゃないですか。私、今告白されたんですよ? うれしくないわけないじゃないですか」
「お、おう」
今が幸せだと、恋人からそう言われてうれしくないはずがない。
「変えられないことや、過去のことを振り返って、過去に戻って夢見て、ああだったらよかったのにとかそんな風に思うのはやめます。」
蒼樹は薄く笑った。
「本当は、たった半年でも私が年上なことに、ちょっとコンプレックスを持ってるんです」
「年齢なんか関係ないだろ。しかも半年。さっきも言ったけど、俺には蒼樹嬢が年上にはなんとなく思えないんだよなあ。いろんな意味でな?」
「本当に失礼ですね」
「そうそう、そうやって言い返すのが蒼樹嬢なんだよな」
きっ、とたれ目気味の目尻を少しだけつり上げて福田を睨む蒼樹の顔を指さして、福田は目を細めた。
「そんなコンプレックス持ってたんだ」
「そうですよ。女の人って幾つになっても年齢を意識するものだと思うんですよ。年上好きか、年下好きかでも変わってくるのかもしれないですけど、私は好きな人より年上だっていうことに、コンプレックスを抱く性格みたいで」
「あれだろ、男に守ってもらいたい意識が強いんじゃねえの?」
「そうでしょうか?」
「なんとなくさ。そんで強い男、頼れる男のイメージつーと、年上って感じなんじゃねえの」
「……それはあるかもしれません」
「年上年下関係ねえけどな! なんかそう言われると、俺もコンプレックスになりそうだわ!」
「え?」
「だってそうじゃん?」
誰にだってコンプレックスはある。性格や容姿、能力。他人と勝手に比較して、コンプレックスを生み出すのは決まって自分自身だ。
コンプレックスを持たない人なんて、ほとんどいないだろう。誰しも大なり小なりコンプレックスを持っている。蒼樹が福田との年齢さにコンプレックスを抱いているように、福田にだってコンプレックスはある。
「頼りないって思われてんのかなって、男としては情けないじゃん。」
「そうですか……」
「そうだよ。」
他人と比較してしまうのは、人にどう思われているか気になるからだ。どう思われているか気になる人がいるからだ。
「私、失礼なことしちゃいましたか?」
「失礼つーか、俺は、何も心配いらねーんじゃねえの! って言いたいだけだ」
そうやって他人の顔色や視線を気にしてばかりでは息苦しい。
行きすぎた卑屈さは、自分を傷つけると同時に相手をも傷つけてしまう行為だ。それでは誰も幸せになれない。
「たった半年だぜ?」
蒼樹との年の差なんて、たった半年だ。たかだか半年で、年上年下と区別されたくない。たった半年年下だからって、確かに学年は違うとも、頼りない男だなんて思われたくない。
冗談ではなく本当に、蒼樹の抱えるコンプレックスが、二人のコンプレックスになってしまう。
たった半年の誕生日の差だけで。
なんてばかばかしい話だ。福田は鼻で笑い飛ばす。
「三月と、七月。春と夏だ。季節は隣同士だし、真ん中バースデーは五月だ!」
「真ん中バースデー?」
「お互いの誕生日のちょうど半分の日。五月十九日だぜ! すげー過ごしやすくて、すげー綺麗な季節だぜ? 俺五月って大好きなんだ。暑くもないし、寒くもない。外に出るには最高に天気だし。俺の好きな季節が俺らの真ん中バースデーだから、俺はついてるなーって思ってんだ。」
いつの時間も、その時間でしか体験できない、体感できないものがある。過去にも未来にも現在にも、その時々の環境によって、それぞれの幸せな時間があるものだ。
その環境は、居場所、年齢など様々な要因が合わさったものだ。それらはすべて自分という存在をつくりだすものだ。
その環境次第で受け止め方が変わってくる。
同じ映画を二度三度と見ても、常に発見があるような、そんな良質な映画を見たときと同じように、人生にはその年齢、その時々でしか味わえないものが確かに存在する。
それが人生というものであり、恋愛というものであり、そのために後悔しないために、今が幸せだと思える人生を歩むことだ。
「なんだか、やっぱり福田さんって、すごくポジティブですよね」
「おう。人生考え方一つだぜ?」
それはたった一つ、心がけ次第でどうにでも変われるもの。
考え方、見方を一つ変えるだけで、一筋の光が射し込むようだ。
「そうですね」
全くその通りだった。年齢なんて関係なく、福田は蒼樹より大人だった。
時々誰よりも子供っぽい理由をつけてだだをコネるのに、時々誰よりも大人な意見を言う。
トマト一つでムキになって、人生について力説する。
全く、不思議な人だ。
「その真ん中バースデー、お祝いしましょうか?」
「だな」
「私たちの真ん中バースデー」
「おう」
爽やかな新緑シーズンの到来は、ようやく長かった冬に完全に終止符を打った。春の少し花冷えするなか花見をしたが、暑くもなく寒くもないこの時期を迎えると、やっと冬も終わったなと思うのだ。これから梅雨が訪れるまでの数週間は快適に過ごせるだろう。梅雨に突入し、それが明ければ暑い夏の到来だ。
新緑の鮮やかな緑は、風景が煌めいて見える。そんな季節に外出しないのはかなり勿体ないことだ。
ゴールデンウィークに入った福田と蒼樹は、正月休み以来の少し長めの休暇を貰って、久しぶりに福田のバイクを走らせて那須へやってきた。
保養地として知名度の高い那須は、豊かな自然とその中に広大なアウトレットモールや遊園地などがあり、デートスポットや観光スポットとして、カップルや家族連れ、団体旅行客など多くの人が訪れる場所だ。
やはり観光としては時期が良く、いつも以上に人が集まっている印象を覚える。
人ごみが苦手だからといって、このシーズンを外していくと、新緑シーズンは終わってしまうのだから仕方がない。
福田と蒼樹はようやくカフェレストランのテーブル席についた。どこもかしこも人が多く、レストランに入るにも三十分待ちの店が続出だ。長時間待つのは苦痛だが、かといってわざわざ遠出をしたのに、普段入れるような、どこにでもあるファストフード店やファミレスに入ったのでは意味がない。福田と蒼樹が席についたころにはランチタイムのピークは過ぎており、少しはゆっくり食事を楽しめそうだった。
那須牛や高原野菜を使った料理に舌鼓をうちながら、福田がおもむろに言った。
「そうですね。たった半年しか違わないのに、理不尽ですよね」
「そうかー? 理不尽とかまで思うかー?」
「思いますよ! もう少し遅かったら福田さんと同学年だったんですよ」
同学年だったらよかったのにな、そんな風に思うことがある。
そう言うと、福田は肩を少しあげた。
「つっても、今は大人だし、学年うんぬんってあんまり意識しないじゃん。確かに蒼樹嬢の方が半年年上だけど、なんかあんま年上って感覚ないし」
蒼樹の予想した通り、福田の反応は相変わらずリアリズムの固まりだ。少しは膨らませてものを考えられないのかと、蒼樹はむっとした。それが福田なのだと言われてしまえばそれで終わりなのだろうが、相手と話を続けようとは思わないのだろうか。
現実主義なのは大いに結構、そこが問題なのではない。話題を振ったのは福田の方なのに、「はい、そうですね」と切り返すだけだったら、そこで会話が終わってしまう。それでもいいと思えるのは、長年連れ添った、互いのことを知り尽くした夫婦のような間柄だけで、そんな関係でさえも、考え方の相違や長年の鬱憤が爆発して熟年離婚だなんてあるのだから、コミュニケーションを取るということは、大切なことで、努力しなければ成り立たないものなのである。
おしなべて男性はそういう努力を怠る傾向がある。特に、気心の知れたつきあいになればなるほど、わかるだろ、と勝手に思いこむ癖がある。もしくは、恥ずかしいと思う気持ちもあるのかもしれない。
けれどそうやってコミュニケーションを怠ると、結局喧嘩になってしまう。
誰も好き好んで喧嘩をしたいわけではない。
それになんだろう、今の最後の方の言葉は。失礼な。福田よりも年上であるということを強調されるのも気分が良くないが、年上に見えないと言われるのも癪に触るものだ。
蒼樹は少しだけ唇を尖らして言った。
「同学年だったらもっと会話があうかもなーとか思いません?」
「うーん。共通の話題はあんのかもしんないけど、それもたかだか一年の違いじゃん。対して差なんかないと思うぜ。それに学生時代の思い出話で盛り上がったことなくね? 俺ら」
「そうかもしれませんね」
「だろ?」
高原野菜のパスタを皿に取り分けていた福田が、蒼樹に皿を手渡してくる。福田が苦手だというトマトが、福田の分までこっそり蒼樹の皿に乗っていた。毎度のことなので、怒る気にもなれないが福田が見ていない隙に一個ぐらいはトマトを乗せてやろうと福田から皿を受け取りながら思った。
生トマトを使った料理が出てくると、熾烈な争いが繰り広げられることがある。特にミニトマトが丸ごと一個添えられているようなメニューの場合、食事の最後の最後までトマトをどちらが食べるか争いをしている。
福田はトマトが嫌いだが、蒼樹は好きでも嫌いでもない。普通に食べることができる。
食べられる人が食べればいいのだと福田は言い、少しでも食生活の偏りをなくして欲しいと蒼樹は主張する。
さりげなく相手の皿にトマトを置くと、相手が気を緩めている間に、またさりげなく移し変える。無言の応酬を何回か繰り返した後、食事の最後までそのトマトが残った場合は、結局互いの主張を言い張りながらどちらかが折れるということを繰り返している。
今のところ七勝八敗と、福田に一勝だけ勝ち越されている。次こそは福田に食べてもらうのだからと、蒼樹は乗せられたトマトを見ながら思っていた。
一瞬のうちに物思いに耽っていた蒼樹は、今の今まで何の話をしていたかすっかり抜け落ちてしまっていた。
「でも、どうしてそんなにこだわんの?」
「何がですか?」
「だから、同学年だったらよかったのにって、言ったじゃん。ていうか、俺の話聞いてんの?」
「福田さんがトマトを全部私のお皿に乗っけるから、ついついそっちに意識が行ってしまったんです」
「ちっ……ばれてるか」
「当たり前でしょう? これだけあからさまにトマトを大量に乗っけられたら、誰だって分かります。一個は食べてくださいね」
「えーやだよ」
やはりそう言うか、と蒼樹は思いながらも、容赦なく福田のパスタ皿にトマトを一個だけ移した。
「えー、じゃありませんからね! この間も福田さんの分のトマトを私が食べたんですよ? トマトが嫌いなら、トマトのないものを頼めばいいのに、どうしてトマトが入っているものを頼むんですか。好き嫌いはないほうがいいですけれど、いっつも大量のトマトを食べさせられるこちらの身にもなってください。たまにはそういう気遣いがあってもいいと思います」
「だって、これがうまそうだったんだ! トマトは確かに入ってっけど! 彩りがいいっていうか?」
「彩りとか考えられるんですから、どうしてトマトが食べられないのか不思議で仕方がありませんよ!」
「いーじゃん! 彩りは綺麗だけど味は苦手なの!」
不思議な人だ。蒼樹は納得がいかなかったが、延々とこの話を繰り返していても仕方がない。これが出先でなければ、はっきりさせるまでしつこい程に話をするかもしれない。蒼樹の性格上、白黒はっきりさせないと気が済まないからだ。
でもここは観光地で、レストランだ。
酷い言い争いは避けるべきだし、しかも理由がかなり小さなものである。
蒼樹は小さく首を振ると、フォークでぷすりとトマトを刺した。
「先ほどの質問の回答ですけれど、それは乙女心だと思います。たぶん」
同学年であったらよかったのにと、どうしてそこにこだわるのかという福田の疑問への答えだ。
「たぶん、かよ」
「もし、私と福田さんが同じ学校に通っていたとしましょう。そして、面識があったとしましょう。そのときお互いのことが好きで、つき合っていたかもしれません。そうしたら、私が一学年上で、福田さんが一学年下。私が先に卒業をしてしまうわけじゃないですか。たった半年の差しかないのに。同学年だったら、もっとそばにいれるし、同じ時間をもっと過ごせるのになって……まあ、たとえばの話ですよ。そういう感じの乙女心というものがあるんですよ」
「マンガの読みすぎなんじゃねえか?」
福田は呆れたように苦笑していた。
「福田さんに言われたくないですね」
マンガの読みすぎじゃないか、なんて、漫画家の言うことか。現実はありえそうになくて、でも現実ともどこかでリンクしている。そんな非現実社会を作品の題材にしながら、少年誌で連載している作家が使う言葉ではない。
マンガをほとんど読まず作家になった人もいるだろうが、ほとんどの作家はマンガが好きで、マンガの虫になるぐらい読み込み、台詞も逐一覚え、空で言えるぐらいのマンガオタクが多い。
目標があって、憧れがあって、そういうきっかけを元に漫画家になる。
蒼樹はそうだったし、福田の話を聞く限り、彼も蒼樹と同じである。
だから、マンガの読みすぎだなんて、福田から言われるのは心外である。
そうだ、マンガの読みすぎである。
それは認めよう。その世界に憧れているのも認めよう。
「でもさー、現実は違うし、俺らは学生でもないし、大人だし。会いたいときには会えるし、逆に会えないときもあるけど、それには理由があるってわかってるし。同じところを目指してて、それをお互いに理解してるっていう、今の状況は、学生時代より、もっとずっと濃い関係だと思うけど。違う?」
マンガの世界に憧れていても、それを越えるものがこの現実にはあることも認めよう。
「俺は、学生時代に出会ってたらとか考えるより、今の方が幸せだと思う」
現実主義と理想主義。真反対に位置するはずのその考え方は、真反対だからこそ背中合わせの表裏一体。振り返ればすぐそこに、相手の顔がキスできるほどにそばにあるような、そんな近しい考え方なのかもしれない。
理想に近づくためにより現実を注視し、現実を見ているそれだけでは未来に向かって一歩も先へ進むことができないから、理想を求める。
この世にあるものの見方考え方は、常に否定しあうものばかりではない。
「そんな風に考えてたんですか」
「何だよ、悪いかよ」
蒼樹はさぞかし驚いたとばかりに目を見開いていた。福田の少しふてくされたような態度に、蒼樹は目を見開いたまま首を振った。
「そんなわけないじゃないですか。私、今告白されたんですよ? うれしくないわけないじゃないですか」
「お、おう」
今が幸せだと、恋人からそう言われてうれしくないはずがない。
「変えられないことや、過去のことを振り返って、過去に戻って夢見て、ああだったらよかったのにとかそんな風に思うのはやめます。」
蒼樹は薄く笑った。
「本当は、たった半年でも私が年上なことに、ちょっとコンプレックスを持ってるんです」
「年齢なんか関係ないだろ。しかも半年。さっきも言ったけど、俺には蒼樹嬢が年上にはなんとなく思えないんだよなあ。いろんな意味でな?」
「本当に失礼ですね」
「そうそう、そうやって言い返すのが蒼樹嬢なんだよな」
きっ、とたれ目気味の目尻を少しだけつり上げて福田を睨む蒼樹の顔を指さして、福田は目を細めた。
「そんなコンプレックス持ってたんだ」
「そうですよ。女の人って幾つになっても年齢を意識するものだと思うんですよ。年上好きか、年下好きかでも変わってくるのかもしれないですけど、私は好きな人より年上だっていうことに、コンプレックスを抱く性格みたいで」
「あれだろ、男に守ってもらいたい意識が強いんじゃねえの?」
「そうでしょうか?」
「なんとなくさ。そんで強い男、頼れる男のイメージつーと、年上って感じなんじゃねえの」
「……それはあるかもしれません」
「年上年下関係ねえけどな! なんかそう言われると、俺もコンプレックスになりそうだわ!」
「え?」
「だってそうじゃん?」
誰にだってコンプレックスはある。性格や容姿、能力。他人と勝手に比較して、コンプレックスを生み出すのは決まって自分自身だ。
コンプレックスを持たない人なんて、ほとんどいないだろう。誰しも大なり小なりコンプレックスを持っている。蒼樹が福田との年齢さにコンプレックスを抱いているように、福田にだってコンプレックスはある。
「頼りないって思われてんのかなって、男としては情けないじゃん。」
「そうですか……」
「そうだよ。」
他人と比較してしまうのは、人にどう思われているか気になるからだ。どう思われているか気になる人がいるからだ。
「私、失礼なことしちゃいましたか?」
「失礼つーか、俺は、何も心配いらねーんじゃねえの! って言いたいだけだ」
そうやって他人の顔色や視線を気にしてばかりでは息苦しい。
行きすぎた卑屈さは、自分を傷つけると同時に相手をも傷つけてしまう行為だ。それでは誰も幸せになれない。
「たった半年だぜ?」
蒼樹との年の差なんて、たった半年だ。たかだか半年で、年上年下と区別されたくない。たった半年年下だからって、確かに学年は違うとも、頼りない男だなんて思われたくない。
冗談ではなく本当に、蒼樹の抱えるコンプレックスが、二人のコンプレックスになってしまう。
たった半年の誕生日の差だけで。
なんてばかばかしい話だ。福田は鼻で笑い飛ばす。
「三月と、七月。春と夏だ。季節は隣同士だし、真ん中バースデーは五月だ!」
「真ん中バースデー?」
「お互いの誕生日のちょうど半分の日。五月十九日だぜ! すげー過ごしやすくて、すげー綺麗な季節だぜ? 俺五月って大好きなんだ。暑くもないし、寒くもない。外に出るには最高に天気だし。俺の好きな季節が俺らの真ん中バースデーだから、俺はついてるなーって思ってんだ。」
いつの時間も、その時間でしか体験できない、体感できないものがある。過去にも未来にも現在にも、その時々の環境によって、それぞれの幸せな時間があるものだ。
その環境は、居場所、年齢など様々な要因が合わさったものだ。それらはすべて自分という存在をつくりだすものだ。
その環境次第で受け止め方が変わってくる。
同じ映画を二度三度と見ても、常に発見があるような、そんな良質な映画を見たときと同じように、人生にはその年齢、その時々でしか味わえないものが確かに存在する。
それが人生というものであり、恋愛というものであり、そのために後悔しないために、今が幸せだと思える人生を歩むことだ。
「なんだか、やっぱり福田さんって、すごくポジティブですよね」
「おう。人生考え方一つだぜ?」
それはたった一つ、心がけ次第でどうにでも変われるもの。
考え方、見方を一つ変えるだけで、一筋の光が射し込むようだ。
「そうですね」
全くその通りだった。年齢なんて関係なく、福田は蒼樹より大人だった。
時々誰よりも子供っぽい理由をつけてだだをコネるのに、時々誰よりも大人な意見を言う。
トマト一つでムキになって、人生について力説する。
全く、不思議な人だ。
「その真ん中バースデー、お祝いしましょうか?」
「だな」
「私たちの真ん中バースデー」
「おう」
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嘘吐きの恋
たまに嫌になることがある。 現状と自分自身に嫌になることがある。
その現象は、最近特に酷く感じるようになっていた。そのことに戸惑いを隠せない。戸惑うことに更に戸惑い、混乱する。
全く自分は一体何がしたいのだろう。そんな風に思う自分が、また嫌だった。
「あんた、本当に何しに来たんだ……」
そんな台詞を言っても、押しかけてきた男は何も聞いてはいなかった。
それはいつもの威勢の良い福田の声にしては、ぼそりと呟いた程度の音量であったから、福田の仕事場兼自宅に押し掛けてきた男の耳には届かなかったのかもしれない。
押しかけてきた男──平丸は勝手にアシスタントの座る椅子に座っていた。
今日という日に限ってアシスタントが来ない日だった。週七日間のうち、毎日アシスタントが来るわけではない。ペン入れができる作業ができるまで、結局漫画家というのは一人で作業しなければならない。ちょうど一週間の中で今日という日はその日にあたっていて、たぶんどの作家も筆が早かろうが遅かろうが、今日という日はネームを作っているに違いないのだ。
だから平丸も福田と同じはずなのだ。同じ漫画家なのだから、平丸もネームを作って、編集に見せる。そういうことをしていなければならない日のはずなのだ。けれどこうして仕事中の福田の部屋に無遠慮にも押しかけてきている。
要するに平丸の逃亡癖が今週も出ていて、それが今回はたまたま福田のところだったということなのだと思う。
平丸の担当編集者である吉田からは、冗談なのか本気なのか判別のつかないお触れが出ている。
平丸が逃亡してきた時には吉田に連絡をしてくれというお達しだ。
働くことが嫌いだという平丸に、福田は理解することはできない。特に漫画を描いていたわけではないという理由には、到底理解が及ばない。
漫画が描きたくて、漫画家になりたくてようやっと掴んだ夢を離さまいとしている福田には、平丸の持っている価値観は到底理解できるものはない。
セクションペーパーにネームを書きながら、ずるずると平丸がコーヒーを啜る音を聞いていた。その特徴的な飲み方に、若干イライラする。
「福田くんのところにはコーヒーしかないのかい?」
「そーすよ。インスタントコーヒーしかねえっすよ」
「僕は紅茶が好きで、特にダージリンが、す」
「しらねーっすよ。俺は紅茶なんか飲まないんで」
福田は平丸の言葉に覆い被せるように言った。
紅茶なんか飲まない。これからもこの先も、飲む機会なんて殆どないだろう。仕事場で飲むのはコーヒーかビールくらいで、出先でも注文するのはコーヒーだ。スタッフも担当もコーヒー党ばかりで紅茶なんかティーバックすらない。飲まなくても困らない。
それに──
「いいよ、紅茶、心が安らぐというか、癒されるというか。特にユリタンが淹れてくれたお茶が……」
ぴたっとシャーペンを持っていた右手が止まってしまった。
どうせ出るだろうと思ったのだ。平丸が紅茶と言い出した瞬間から、その言葉が、その人物の名前が出るだろう事はある程度予測していた。
だから嫌だった。
だからこの話は、紅茶の話題を反らそうと思って平丸の言葉を遮ったのに、そんなことは平丸には全く通じなかったようだ。
イライラする。
イライラすることにイライラする。
どうしてこんなに心がざわつくのか、判っている。判っているけれどその感情を自覚する勇気はなかった。言葉に出すことは愚か、ぐっと飲み込むこともできない。持て余すその感情に、れっきとした名前があることも判っていたけれど、福田は見て見ぬふりをし続けてきた。
そのことが自分自身を嫌いにさせる要因だ。
だからまた、余計に自分が嫌になる。こんな風になってしまった現状に酷く憂鬱になる。
平丸が部屋にやってきたときから全く集中できなかったが、もっと集中できなくなってしまった。
これではネームを作ることが出来ない。夕方には雄二郎にファックスを送りたかったが、きっと無理だ。
平丸はやたらユリタンユリタンと繰り返していた。
福田は、はっ、と笑った。
嫌になる。
自分の知らない呼び方、呼び名。今何をしているだろう、今どんな風な感情を抱いているのだろう。平丸とどんな会話をしているのだろう。どんな風に、どんな様子で。二人の世界を築き上げ、何者もそこには進入できない世界を作っているのか。
嫌になる。
どうしても話したいのだろう。ようやく実った恋に、平丸は浮かれているのだろう。福田の変化に気付かずに、平丸は心底幸せな様子で、福田に語りかける。
歪むどころか、捩れてしまった福田の心に、それはかなりの刺激だった。
痛くて痛くて堪らない。
どうして平丸は福田の所に来たのだろう。嫌がらせだろうか。
そう思ったら、一泡吹かせたくなった。
少しはうろたえればいい。
少しは、少しは、少しは──
「平丸さん、俺、平丸さんに一つ言いわすれてたことがあるんすよ」
「え?なんだい?」
平丸の鼻がピノキオみたいに長く見える。得意になって話すその鼻を、へし折ってやりたい。
「俺、蒼樹嬢のこと好きっすよ」
「え!?」
言ってしまってから、福田は泣きたくなった。
今更言ったって、どうしようもない。本当に、どうしようもない。しかも平丸に言っても、どうにもならない。一泡吹かすどころか、ますます自分が傷ついた。
馬鹿みたいだ。
本当に。
気付きたくなかったその感情に、どうしようもなく気付いているんだと思い知らされて、馬鹿らしくなったけれど、自分を笑えなかった。
笑えないくらい、心が痛かった。
今にも掴みかからんばかりの勢いの平丸に、福田は精一杯笑った。情けない笑顔になったはずで、でもそれは平丸にはどんな風に見えただろう。
「嘘っすよ……なに、まじにとってんすか」
「本当かい!? 本当に!? 福田くん、それ本当だよね」
「当たり前じゃないっすか。なんで俺が蒼樹嬢なんすか」
福田は、ぐっと唾を飲み込んだ。これを言ったら、もっと傷つくのに。
「俺は蒼樹嬢のことは嫌いっすよ」
嫌いになれたらこんなに辛くないのに、どうして嫌いになれないのだろう。
嫌いにさせてくれたらよかったのに。
結局嫌いにさせてもらえるほど、福田は蒼樹に思いを告げることも、行動を移すこともしなかっただけだ。
嫌になる。自分が嫌で仕方がない。
「あと、平丸さん……今から吉田さん呼ぶっすけど、いいっすか?」
これ以上は耐えられなくて、福田はケータイを手に取った。
本当に馬鹿みたいだ。
その現象は、最近特に酷く感じるようになっていた。そのことに戸惑いを隠せない。戸惑うことに更に戸惑い、混乱する。
全く自分は一体何がしたいのだろう。そんな風に思う自分が、また嫌だった。
「あんた、本当に何しに来たんだ……」
そんな台詞を言っても、押しかけてきた男は何も聞いてはいなかった。
それはいつもの威勢の良い福田の声にしては、ぼそりと呟いた程度の音量であったから、福田の仕事場兼自宅に押し掛けてきた男の耳には届かなかったのかもしれない。
押しかけてきた男──平丸は勝手にアシスタントの座る椅子に座っていた。
今日という日に限ってアシスタントが来ない日だった。週七日間のうち、毎日アシスタントが来るわけではない。ペン入れができる作業ができるまで、結局漫画家というのは一人で作業しなければならない。ちょうど一週間の中で今日という日はその日にあたっていて、たぶんどの作家も筆が早かろうが遅かろうが、今日という日はネームを作っているに違いないのだ。
だから平丸も福田と同じはずなのだ。同じ漫画家なのだから、平丸もネームを作って、編集に見せる。そういうことをしていなければならない日のはずなのだ。けれどこうして仕事中の福田の部屋に無遠慮にも押しかけてきている。
要するに平丸の逃亡癖が今週も出ていて、それが今回はたまたま福田のところだったということなのだと思う。
平丸の担当編集者である吉田からは、冗談なのか本気なのか判別のつかないお触れが出ている。
平丸が逃亡してきた時には吉田に連絡をしてくれというお達しだ。
働くことが嫌いだという平丸に、福田は理解することはできない。特に漫画を描いていたわけではないという理由には、到底理解が及ばない。
漫画が描きたくて、漫画家になりたくてようやっと掴んだ夢を離さまいとしている福田には、平丸の持っている価値観は到底理解できるものはない。
セクションペーパーにネームを書きながら、ずるずると平丸がコーヒーを啜る音を聞いていた。その特徴的な飲み方に、若干イライラする。
「福田くんのところにはコーヒーしかないのかい?」
「そーすよ。インスタントコーヒーしかねえっすよ」
「僕は紅茶が好きで、特にダージリンが、す」
「しらねーっすよ。俺は紅茶なんか飲まないんで」
福田は平丸の言葉に覆い被せるように言った。
紅茶なんか飲まない。これからもこの先も、飲む機会なんて殆どないだろう。仕事場で飲むのはコーヒーかビールくらいで、出先でも注文するのはコーヒーだ。スタッフも担当もコーヒー党ばかりで紅茶なんかティーバックすらない。飲まなくても困らない。
それに──
「いいよ、紅茶、心が安らぐというか、癒されるというか。特にユリタンが淹れてくれたお茶が……」
ぴたっとシャーペンを持っていた右手が止まってしまった。
どうせ出るだろうと思ったのだ。平丸が紅茶と言い出した瞬間から、その言葉が、その人物の名前が出るだろう事はある程度予測していた。
だから嫌だった。
だからこの話は、紅茶の話題を反らそうと思って平丸の言葉を遮ったのに、そんなことは平丸には全く通じなかったようだ。
イライラする。
イライラすることにイライラする。
どうしてこんなに心がざわつくのか、判っている。判っているけれどその感情を自覚する勇気はなかった。言葉に出すことは愚か、ぐっと飲み込むこともできない。持て余すその感情に、れっきとした名前があることも判っていたけれど、福田は見て見ぬふりをし続けてきた。
そのことが自分自身を嫌いにさせる要因だ。
だからまた、余計に自分が嫌になる。こんな風になってしまった現状に酷く憂鬱になる。
平丸が部屋にやってきたときから全く集中できなかったが、もっと集中できなくなってしまった。
これではネームを作ることが出来ない。夕方には雄二郎にファックスを送りたかったが、きっと無理だ。
平丸はやたらユリタンユリタンと繰り返していた。
福田は、はっ、と笑った。
嫌になる。
自分の知らない呼び方、呼び名。今何をしているだろう、今どんな風な感情を抱いているのだろう。平丸とどんな会話をしているのだろう。どんな風に、どんな様子で。二人の世界を築き上げ、何者もそこには進入できない世界を作っているのか。
嫌になる。
どうしても話したいのだろう。ようやく実った恋に、平丸は浮かれているのだろう。福田の変化に気付かずに、平丸は心底幸せな様子で、福田に語りかける。
歪むどころか、捩れてしまった福田の心に、それはかなりの刺激だった。
痛くて痛くて堪らない。
どうして平丸は福田の所に来たのだろう。嫌がらせだろうか。
そう思ったら、一泡吹かせたくなった。
少しはうろたえればいい。
少しは、少しは、少しは──
「平丸さん、俺、平丸さんに一つ言いわすれてたことがあるんすよ」
「え?なんだい?」
平丸の鼻がピノキオみたいに長く見える。得意になって話すその鼻を、へし折ってやりたい。
「俺、蒼樹嬢のこと好きっすよ」
「え!?」
言ってしまってから、福田は泣きたくなった。
今更言ったって、どうしようもない。本当に、どうしようもない。しかも平丸に言っても、どうにもならない。一泡吹かすどころか、ますます自分が傷ついた。
馬鹿みたいだ。
本当に。
気付きたくなかったその感情に、どうしようもなく気付いているんだと思い知らされて、馬鹿らしくなったけれど、自分を笑えなかった。
笑えないくらい、心が痛かった。
今にも掴みかからんばかりの勢いの平丸に、福田は精一杯笑った。情けない笑顔になったはずで、でもそれは平丸にはどんな風に見えただろう。
「嘘っすよ……なに、まじにとってんすか」
「本当かい!? 本当に!? 福田くん、それ本当だよね」
「当たり前じゃないっすか。なんで俺が蒼樹嬢なんすか」
福田は、ぐっと唾を飲み込んだ。これを言ったら、もっと傷つくのに。
「俺は蒼樹嬢のことは嫌いっすよ」
嫌いになれたらこんなに辛くないのに、どうして嫌いになれないのだろう。
嫌いにさせてくれたらよかったのに。
結局嫌いにさせてもらえるほど、福田は蒼樹に思いを告げることも、行動を移すこともしなかっただけだ。
嫌になる。自分が嫌で仕方がない。
「あと、平丸さん……今から吉田さん呼ぶっすけど、いいっすか?」
これ以上は耐えられなくて、福田はケータイを手に取った。
本当に馬鹿みたいだ。
DECO-CHU★
玄関ドアを開けて福田を出迎えた蒼樹の姿を、福田は頭のてっぺんから足のつま先まで、往復二回は見て首を傾げた。 インターフォンを押して応対した蒼樹がいつになく慌てているので、どうかしたのかと若干気を揉んでいたので、余計に蒼樹の行動が不可解だった。
「何してんだ……蒼樹嬢……?」
玄関先に出るときやゴミ捨てなど、わざわざ靴を履くのは面倒なために古くなったサンダルを玄関に用意している。そのサンダルを履いて、片手で玄関ドアを開けている蒼樹は、首を傾げる福田に慌てて叫んだ。
「みっ、見ないでくださいっ!」
「見ないでくださいって言われてもなあ……手で、でこ隠してちゃ、目も行くだろ。何かあったのか?」
左手は玄関のドアノブを握り、右手でなぜか額を隠している。しかもその様子は頑なだった。
「何も!何もないですから!気にしないでください。とりあえず、部屋に入ってください。」
気にするな、見るな、と言われても、気になるものは気になるし、気になるから見てしまう。
蒼樹が何を隠しているのか気になる。動揺して焦るほど、何を隠しているのだろう。福田が現れたことに対して、焦り、隠したいと思っていることは、明白だった。
福田に隠したい何か。
それは何だろう。
気になるから、ますます蒼樹の顔に目が行く。
見ないでくださいと喚く蒼樹を無視して、福田の両手が、にゅっと伸びた。
「おりゃっ!」
「きゃあ!」
額を隠していた蒼樹の両手を、福田の手が押さえつけた。案の定、激しい抵抗があったが、蒼樹と福田の体力さは、どう考えても福田のほうがある。蒼樹が福田に力で勝てるはずがなく、抵抗しようにもほとんどできない状態だった。
蒼樹は顔を真っ赤にして叫んだ。喚く蒼樹に対して、福田は、なんだ、と拍子抜けしてしまった。
「うあああああ!見ないでくださいよお!うううう、恥ずかしい……」
「なんだよ、寝癖かよ。」
両手を離した瞬間に、ぴょこんと上を向いた毛束が、蒼樹の体が揺れる度に、ぴょんぴょん跳ねる。
きゃんきゃん吠えているチワワか、ダックスフンドみたいだなと喚く蒼樹を見下ろしながら思った。
蒼樹は拍子抜けして軽く脱力している福田に、顔を赤くしながら眦をつり上げた。
「なんだよ、じゃないですよ!恥ずかしいじゃないですか!」
「まあ、確かに強力な寝癖みたいだな。」
いつもはきれいに整えられている蒼樹のボブカット。少し重めの毛足が特徴的だ。栗色の毛がみごとに上に向いている。どんな寝方をしたら、そんな強力な寝癖がつくのだろう。福田の場合、後頭部が鳥の巣状態になることはよくあるが、派手に前髪が立つことはない。
ぴょこんとたった前髪を掴んだ。
「そうなんです。朝から何をやってもダメで。シャンプーすれば直るんでしょうけど、そんな時間なんかなくて。福田さん来ちゃうし。」
「寝坊したんか。」
「そういうことだってあります。」
「珍しいじゃん。」
唇を尖らして、福田が掴んでいる前髪を、恨めし気に上目で見た。
デートの日だというのに、寝坊をしたうえに、寝癖までついて、しかもそれが全く言うことを聞いてくれない暴れ馬な寝癖だとは、今日は幸先がよくない。しかもそれが、福田にすべてばれてしまうなんて、恥ずかしいことこのうえない。
「夜更かしでもしたか?」
「し、してませんっ!」
実は今日のデートのために服を選んだり、メイクはどうしようかなどと悩んでいたりしたら、とっくに深夜だったのだとは、寝癖以上に恥ずかしい。自分自身の行動に、どれだけ福田とのデートが楽しみで浮かれていたのか、と思わず突っ込みたくなる。結局その夜更かしのせいで、寝坊という最悪の事態になってしまった。考えるだけでも恥ずかしい。
あまりにも浮かれすぎている。
それを福田に知られるのはもっと恥ずかしい。
だから慌てて否定をしたのだけれど、ぐさりと図星をつかれたものだから、動揺してしまって無駄に声が揺らいでしまった。
福田は蒼樹のそんな気持ちに気づいてしまったのかもしれない。くくっと笑いを押し殺しながら言った。
「まあ?いいんじゃねえの?」
「どこがですかっ!」
何がいいのかわからない。寝癖も寝坊も、そんな失態をしてしまった浮かれた自分も、福田には知られたくない恥ずかしい部分でしかない。
隙なく、卒なく、クールに行こう、とそこまでは思っていないが、好きな人に対して、出来れば失態はしたくない。今日の蒼樹は、実に失態ばかりだ。こんなはずでは……そう思わずにはいられない。
うう、と呻く蒼樹に、福田は相変わらず喉の奥で笑い声を押し殺して言った。
「でこ出してるのも、かわいいと思うぜ。新鮮。」
「かっ……!?」
開いた口が閉じられない。
呆れたわけじゃない。驚きすぎて、蒼樹は反応の仕方を忘れてしまう。かわいいだなんて、福田の口から飛び出てくるとは思わなかった。
「ちょっ、な、何を!何を言っているんですかっ!」
不本意ながら、昨夜の夜更かしは無駄ではなかったということなのか。跳ねる寝癖を両手で押さえつけて、蒼樹は福田と距離を取る。すでに両手は離されていて、蒼樹は福田の胸に手を置いた。
恥ずかしすぎて、顔が熱い。顔を見られたくなくてうつむいた。
顔を見られないぐらい離れたい。でも、離れたくない。
腕を少し伸ばしただけ距離。それが今の蒼樹の心境そのものを表している、精一杯の距離だ。
そんな蒼樹の頭上から、とうとう堪えきれなくなったのだろう、福田がケラケラ笑った。そして、もう一度手を掴まれる。
蒼樹は、ハッっとして顔を上げた。
「ほらよ、これ、貸してやる。」
「……髪留めですか?」
福田がポケットから出してきたのは、黄色地にピンクのドットがプリントされた髪留めだった。
「やってやるから、こっち来いよ。」
そう言われて、掴まれた手を引かれた。またしても距離が縮まって、蒼樹は俯いてしまう。
「ほら、顔上げろって。」
「うう、恥ずかしいです。」
「我慢しやがれってんだ。」
福田の指が蒼樹の額を掠めていって、寝癖で立った髪の毛に触れた。
毛束をくるりと捻って、髪留めでとめた。
「……手慣れてますね……。」
「仕事中は前髪あげてやってんだ、最近は。」
「そうなんですか。」
冬でも夏でも室内だろうが関係なしに、帽子をかぶっているのが福田さんの特徴である。その帽子をついに脱ぐとは、何か心境の変化でもあったのだろうか。そう思っていたら、福田が真面目な顔をして言った。
「そうしたら、涼しいのなー。俺の頭、蒸れてたんかな?」
「……今更ですね……」
今更当たり前のことを、さも最近気づきましたと宣言しているのだろう。逆に暑くないのかと、何回聞いたことだろう。その都度、これが俺のポリシーだなんて、大口を叩いていたのは、どこのだれだ。
今度こそ蒼樹は呆れて、開いた口が塞がらなかった。やれやれと首を振った。
でも確かに、額を出しているのは蒼樹も新鮮だった。額に空気がすーすー当たっている感覚がする。なかなか自分では前髪を上げようとは思わなかった。額を出すのが恥ずかしいと思う方だった。
けれど、福田がかわいいと言ってくれるなら、今度から前髪を上げるヘアスタイルもいいかもしれない。
器用にあげた前髪が気になって、手が伸びる。
「それにしても、水玉柄って……福田さんの趣味なんですか……?」
黄色とピンクの水玉柄なんて、福田の趣味とは到底思わなかった。けれど、それじゃあ誰かが買ってくれたのだろうか。
「ファンから貰ったんだよ。コミックスのコメント欄に、前髪が鬱陶しいとか書いたら、結構たくさん貰ったんだよね。」
「ファンですか……。」
きっとそのファンは女性だろう。じゃなかった、このセンスはなかなか考えつかない。
ファンに女性がいないとは思わない。蒼樹が少年ジャンプで女性漫画家として活躍しているように、少年ジャンプは少年を対象にしてはいるものの、読者は少年だけではない。少女もいるし、大人の男性も女性も、老若男女問わず幅広くいるはずだ。
福田の作品が少年向けだとしても、それが好きだという女性ファンもいるというのは理解できる。
しかしながら、顔の見えない女性ファンだろうがなんだろうが、自分以外の女性からのプレゼントと聞いて、嬉しい気分にはならない。
しかも頻度が高く身につけるものとなると、ますます嬉しくない。
蒼樹はむくむくと沸き上がる嫉妬心で、蒼樹はついつい
口を滑らしてしまった。
「わっ、私も福田さんにプレゼントしますっ!」
「な、なんだよ。いきなり。」
仕事で身につけるものをプレゼントできるなんて、この上なく嬉しいことだ。漫画道具はこだわりがあるだろうから、なかなかプレゼントすることはない。
仕事はほぼ毎日あるわけで、最近の仕事中は前髪を上げているということだから、毎日身につけるものということになる。
毎日身につけるものをプレゼントするというのは、かなり特別な印象を抱かせる。
「そうと決まれば、行きましょう!」
「はあ?まじで、いきなり、なんだあ!?」
「ほらっ!いきますよ!」
本当は、デートをする予定だったわけだ。蒼樹の寝坊と寝癖のせいで、二人とも忘れてしまいそうだった。
蒼樹はうまく寝癖が隠すことができたおかげで、安心して外に出られると、福田をせき立てたい気分だ。
ころころと表情が変わる蒼樹に、福田は部屋に来てから全く飽きないな、とまた笑った。
クールビューティーと言われた蒼樹はどこへなりを潜めているのだろう。その片鱗は全く見えない。
「そんじゃあ、それ、蒼樹嬢にやるよ。また寝癖なったときにでも、カモフラージュに使えば。」
「いやです。」
即答した蒼樹に、福田は思わず声を裏返した。
「はあ!?」
福田が使っているものを貰えるというのは、特別な存在であるというのを象徴しているようでうれしいが、女性から貰ったプレゼントだったら別だ。
他人からプレゼントされたものを貰って嬉しがる人なんて、ほとんどいないだろう。とくに好きな人や、恋人から貰うとなったらなおさらだ。
「福田さんが選んで買ってくれるやつがいいです。」
顔の見えない、誰だかわからないファンの存在だったとしても、嫌なものは嫌だ。
福田は驚いた表情でまじまじと蒼樹を見下ろした。
「なんか、今日の蒼樹嬢は素直だな。」
「今日ってなんですか。限定ですか。」
「うん。なんだろ、いつもと違えな。かわいい。」
寝坊はするし、強力な寝癖はつけているし。
いつもは前髪で隠れている額を出しているせいなのか、随分と素直な表情が見える気がする。
思わずしたくなる。
つるっとした額に唇を寄せた。
少しだけ、冷たいような、温かいような、唇が吸いつくような、とろけるような。
不思議な場所だった。
「キスもしやすいしな」
「っぅ〜……不意打ちはやめてくださいよっ!」
両手で額を隠して真っ赤になった蒼樹に、福田は思わず抱き寄せてしまいたくなった。
「まじで今日、かわいいな!」
「だから!今日って限定するの、失礼です!」
むすっと頬を膨らまして不機嫌を装いながら、しばらくは前髪をあげていようと、心に決めた蒼樹だった。
「何してんだ……蒼樹嬢……?」
玄関先に出るときやゴミ捨てなど、わざわざ靴を履くのは面倒なために古くなったサンダルを玄関に用意している。そのサンダルを履いて、片手で玄関ドアを開けている蒼樹は、首を傾げる福田に慌てて叫んだ。
「みっ、見ないでくださいっ!」
「見ないでくださいって言われてもなあ……手で、でこ隠してちゃ、目も行くだろ。何かあったのか?」
左手は玄関のドアノブを握り、右手でなぜか額を隠している。しかもその様子は頑なだった。
「何も!何もないですから!気にしないでください。とりあえず、部屋に入ってください。」
気にするな、見るな、と言われても、気になるものは気になるし、気になるから見てしまう。
蒼樹が何を隠しているのか気になる。動揺して焦るほど、何を隠しているのだろう。福田が現れたことに対して、焦り、隠したいと思っていることは、明白だった。
福田に隠したい何か。
それは何だろう。
気になるから、ますます蒼樹の顔に目が行く。
見ないでくださいと喚く蒼樹を無視して、福田の両手が、にゅっと伸びた。
「おりゃっ!」
「きゃあ!」
額を隠していた蒼樹の両手を、福田の手が押さえつけた。案の定、激しい抵抗があったが、蒼樹と福田の体力さは、どう考えても福田のほうがある。蒼樹が福田に力で勝てるはずがなく、抵抗しようにもほとんどできない状態だった。
蒼樹は顔を真っ赤にして叫んだ。喚く蒼樹に対して、福田は、なんだ、と拍子抜けしてしまった。
「うあああああ!見ないでくださいよお!うううう、恥ずかしい……」
「なんだよ、寝癖かよ。」
両手を離した瞬間に、ぴょこんと上を向いた毛束が、蒼樹の体が揺れる度に、ぴょんぴょん跳ねる。
きゃんきゃん吠えているチワワか、ダックスフンドみたいだなと喚く蒼樹を見下ろしながら思った。
蒼樹は拍子抜けして軽く脱力している福田に、顔を赤くしながら眦をつり上げた。
「なんだよ、じゃないですよ!恥ずかしいじゃないですか!」
「まあ、確かに強力な寝癖みたいだな。」
いつもはきれいに整えられている蒼樹のボブカット。少し重めの毛足が特徴的だ。栗色の毛がみごとに上に向いている。どんな寝方をしたら、そんな強力な寝癖がつくのだろう。福田の場合、後頭部が鳥の巣状態になることはよくあるが、派手に前髪が立つことはない。
ぴょこんとたった前髪を掴んだ。
「そうなんです。朝から何をやってもダメで。シャンプーすれば直るんでしょうけど、そんな時間なんかなくて。福田さん来ちゃうし。」
「寝坊したんか。」
「そういうことだってあります。」
「珍しいじゃん。」
唇を尖らして、福田が掴んでいる前髪を、恨めし気に上目で見た。
デートの日だというのに、寝坊をしたうえに、寝癖までついて、しかもそれが全く言うことを聞いてくれない暴れ馬な寝癖だとは、今日は幸先がよくない。しかもそれが、福田にすべてばれてしまうなんて、恥ずかしいことこのうえない。
「夜更かしでもしたか?」
「し、してませんっ!」
実は今日のデートのために服を選んだり、メイクはどうしようかなどと悩んでいたりしたら、とっくに深夜だったのだとは、寝癖以上に恥ずかしい。自分自身の行動に、どれだけ福田とのデートが楽しみで浮かれていたのか、と思わず突っ込みたくなる。結局その夜更かしのせいで、寝坊という最悪の事態になってしまった。考えるだけでも恥ずかしい。
あまりにも浮かれすぎている。
それを福田に知られるのはもっと恥ずかしい。
だから慌てて否定をしたのだけれど、ぐさりと図星をつかれたものだから、動揺してしまって無駄に声が揺らいでしまった。
福田は蒼樹のそんな気持ちに気づいてしまったのかもしれない。くくっと笑いを押し殺しながら言った。
「まあ?いいんじゃねえの?」
「どこがですかっ!」
何がいいのかわからない。寝癖も寝坊も、そんな失態をしてしまった浮かれた自分も、福田には知られたくない恥ずかしい部分でしかない。
隙なく、卒なく、クールに行こう、とそこまでは思っていないが、好きな人に対して、出来れば失態はしたくない。今日の蒼樹は、実に失態ばかりだ。こんなはずでは……そう思わずにはいられない。
うう、と呻く蒼樹に、福田は相変わらず喉の奥で笑い声を押し殺して言った。
「でこ出してるのも、かわいいと思うぜ。新鮮。」
「かっ……!?」
開いた口が閉じられない。
呆れたわけじゃない。驚きすぎて、蒼樹は反応の仕方を忘れてしまう。かわいいだなんて、福田の口から飛び出てくるとは思わなかった。
「ちょっ、な、何を!何を言っているんですかっ!」
不本意ながら、昨夜の夜更かしは無駄ではなかったということなのか。跳ねる寝癖を両手で押さえつけて、蒼樹は福田と距離を取る。すでに両手は離されていて、蒼樹は福田の胸に手を置いた。
恥ずかしすぎて、顔が熱い。顔を見られたくなくてうつむいた。
顔を見られないぐらい離れたい。でも、離れたくない。
腕を少し伸ばしただけ距離。それが今の蒼樹の心境そのものを表している、精一杯の距離だ。
そんな蒼樹の頭上から、とうとう堪えきれなくなったのだろう、福田がケラケラ笑った。そして、もう一度手を掴まれる。
蒼樹は、ハッっとして顔を上げた。
「ほらよ、これ、貸してやる。」
「……髪留めですか?」
福田がポケットから出してきたのは、黄色地にピンクのドットがプリントされた髪留めだった。
「やってやるから、こっち来いよ。」
そう言われて、掴まれた手を引かれた。またしても距離が縮まって、蒼樹は俯いてしまう。
「ほら、顔上げろって。」
「うう、恥ずかしいです。」
「我慢しやがれってんだ。」
福田の指が蒼樹の額を掠めていって、寝癖で立った髪の毛に触れた。
毛束をくるりと捻って、髪留めでとめた。
「……手慣れてますね……。」
「仕事中は前髪あげてやってんだ、最近は。」
「そうなんですか。」
冬でも夏でも室内だろうが関係なしに、帽子をかぶっているのが福田さんの特徴である。その帽子をついに脱ぐとは、何か心境の変化でもあったのだろうか。そう思っていたら、福田が真面目な顔をして言った。
「そうしたら、涼しいのなー。俺の頭、蒸れてたんかな?」
「……今更ですね……」
今更当たり前のことを、さも最近気づきましたと宣言しているのだろう。逆に暑くないのかと、何回聞いたことだろう。その都度、これが俺のポリシーだなんて、大口を叩いていたのは、どこのだれだ。
今度こそ蒼樹は呆れて、開いた口が塞がらなかった。やれやれと首を振った。
でも確かに、額を出しているのは蒼樹も新鮮だった。額に空気がすーすー当たっている感覚がする。なかなか自分では前髪を上げようとは思わなかった。額を出すのが恥ずかしいと思う方だった。
けれど、福田がかわいいと言ってくれるなら、今度から前髪を上げるヘアスタイルもいいかもしれない。
器用にあげた前髪が気になって、手が伸びる。
「それにしても、水玉柄って……福田さんの趣味なんですか……?」
黄色とピンクの水玉柄なんて、福田の趣味とは到底思わなかった。けれど、それじゃあ誰かが買ってくれたのだろうか。
「ファンから貰ったんだよ。コミックスのコメント欄に、前髪が鬱陶しいとか書いたら、結構たくさん貰ったんだよね。」
「ファンですか……。」
きっとそのファンは女性だろう。じゃなかった、このセンスはなかなか考えつかない。
ファンに女性がいないとは思わない。蒼樹が少年ジャンプで女性漫画家として活躍しているように、少年ジャンプは少年を対象にしてはいるものの、読者は少年だけではない。少女もいるし、大人の男性も女性も、老若男女問わず幅広くいるはずだ。
福田の作品が少年向けだとしても、それが好きだという女性ファンもいるというのは理解できる。
しかしながら、顔の見えない女性ファンだろうがなんだろうが、自分以外の女性からのプレゼントと聞いて、嬉しい気分にはならない。
しかも頻度が高く身につけるものとなると、ますます嬉しくない。
蒼樹はむくむくと沸き上がる嫉妬心で、蒼樹はついつい
口を滑らしてしまった。
「わっ、私も福田さんにプレゼントしますっ!」
「な、なんだよ。いきなり。」
仕事で身につけるものをプレゼントできるなんて、この上なく嬉しいことだ。漫画道具はこだわりがあるだろうから、なかなかプレゼントすることはない。
仕事はほぼ毎日あるわけで、最近の仕事中は前髪を上げているということだから、毎日身につけるものということになる。
毎日身につけるものをプレゼントするというのは、かなり特別な印象を抱かせる。
「そうと決まれば、行きましょう!」
「はあ?まじで、いきなり、なんだあ!?」
「ほらっ!いきますよ!」
本当は、デートをする予定だったわけだ。蒼樹の寝坊と寝癖のせいで、二人とも忘れてしまいそうだった。
蒼樹はうまく寝癖が隠すことができたおかげで、安心して外に出られると、福田をせき立てたい気分だ。
ころころと表情が変わる蒼樹に、福田は部屋に来てから全く飽きないな、とまた笑った。
クールビューティーと言われた蒼樹はどこへなりを潜めているのだろう。その片鱗は全く見えない。
「そんじゃあ、それ、蒼樹嬢にやるよ。また寝癖なったときにでも、カモフラージュに使えば。」
「いやです。」
即答した蒼樹に、福田は思わず声を裏返した。
「はあ!?」
福田が使っているものを貰えるというのは、特別な存在であるというのを象徴しているようでうれしいが、女性から貰ったプレゼントだったら別だ。
他人からプレゼントされたものを貰って嬉しがる人なんて、ほとんどいないだろう。とくに好きな人や、恋人から貰うとなったらなおさらだ。
「福田さんが選んで買ってくれるやつがいいです。」
顔の見えない、誰だかわからないファンの存在だったとしても、嫌なものは嫌だ。
福田は驚いた表情でまじまじと蒼樹を見下ろした。
「なんか、今日の蒼樹嬢は素直だな。」
「今日ってなんですか。限定ですか。」
「うん。なんだろ、いつもと違えな。かわいい。」
寝坊はするし、強力な寝癖はつけているし。
いつもは前髪で隠れている額を出しているせいなのか、随分と素直な表情が見える気がする。
思わずしたくなる。
つるっとした額に唇を寄せた。
少しだけ、冷たいような、温かいような、唇が吸いつくような、とろけるような。
不思議な場所だった。
「キスもしやすいしな」
「っぅ〜……不意打ちはやめてくださいよっ!」
両手で額を隠して真っ赤になった蒼樹に、福田は思わず抱き寄せてしまいたくなった。
「まじで今日、かわいいな!」
「だから!今日って限定するの、失礼です!」
むすっと頬を膨らまして不機嫌を装いながら、しばらくは前髪をあげていようと、心に決めた蒼樹だった。
サンライズ
息が真っ白だ。ダウンジャケットの中は何枚もヒートテックを重ねて、フリースも着込んだ。薄くても暖かい服が多いから、着ぶくれしないで済むのはうれしい。
同じようにダウンジャケットを来た福田と共に、砂浜に腰を下ろした。海風は想像していたよりも寒かった。
マフラーに顔を埋めて、鼻の頭と頬が寒さで真っ赤になっている。
ここまでバイクをはしらせて来た。
年越しはお互いに別々に過ごしたあと、蒼樹を迎えに行って、そのまま高速に乗った。途中サービスエリアに寄ることもせず、ノンストップでバイクを運転してきたから、顔が赤くなって当然だ。
寒そうにますます首を縮み混ませる福田を見ながら、蒼樹はポケットから缶コーヒーを取り出した。
「はい、どうぞ」
「サンキュー」
缶コーヒーを受けとると両手で抱え込むように握った。
「あったけー……」
冷えた指から缶コーヒーの温かさが伝わって、じんじんと痛くなってきた。頬や鼻先になで擦る。
その行為を見ていた蒼樹は、ふふ、と笑った。
「寒いなかありがとうございます。」
「いーえ。俺が連れていきたかったので。」
福田がまだ暗い海の先を見ながら、赤くなった鼻を擦って言った。蒼樹が見る福田の横顔には、寒さで目が潤んでいる。照れ隠しに蒼樹を直接見ないにだとわかっているから、蒼樹も照れ臭くなった。
「私ホッカイロ持ってきましたけど、使います?」
「まじで? いいの?」
「二個持ってきたので」
どうせそういうものは持ってこないだろうと思っていたから丁度よかった。蒼樹は左のポケットからホッカイロを取り出すと、福田のダウンのポケットに入れた。
静かに波が砂浜に押し寄せる。
ザアンザアンと白波が寄せるのをじっと見つめていた。吐き出す息は真っ白だ。
身体を縮こませる福田との隙間を埋めるようと、身体を寄せた。それに気づいた福田が
「なに?」
と、声を発さずに聞いてきたような気がしたので、えへへと
「寒いから」
と笑って言った。二人して小さく笑って、寄せあった身体を密着させた。押しくらまんじゅうするように押し付けあって、とうとう声を出して笑いあった。触れあった指先で、お互いに自然と手を繋いだ。
話をしなくても楽しかった。
初日の出を見に行こうと福田から誘われたとき、すごく嬉しかった。電話越しの福田の声はちょっと緊張しているみたいに、蒼樹の反応を伺っていて、蒼樹はどきどきしてどもりながら「いいですよ」と快諾した。
海風で寒くても、平気だった。
「あ!」
「お!」
「出てきました!」
まだかな、と思った矢先地平線がうっすらと染まりだした。
太陽の強大な力に引かれるように雲が細く引かれ、温度が急激に冷え込んでくる。引力に引かれ、太陽の魅力にとりつかれたように見いった。隣で福田がケータイのカメラで写真をとったのだろう、カシャッとシャッター音が聞こえてきた。それには目もくれず、自然と立ち上がって打ち寄せる波に近づいた。
靴先が波に濡れるのも構わずに太陽に引かれていった。
「おーい。濡れるぞー」
福田がそういうのが聞こえていないのか、聞く気がないのか、蒼樹はブーツの靴先を波の泡に濡らしながら、大きく息を吸った。
「ん?」
綺麗な新年の幕開けに、一言言っておきたくなった。言うというより、叫んでおきたくなった。
それは宣誓のようであった。
蒼樹はせーのと心の中で合図を出すと、海に向かって大声を張り上げた。
「今年もよろしくお願いしまーす!」
こんなに大声を出したことなんて人生の中でほとんど経験がない。慣れない発声は、最後の方はかすれ声になったけれど、すごく満足だった。
クルリと振り返ると、目を真ん丸にした福田が蒼樹を凝視していた。
福田の表情に、してやったりと蒼樹はにやりと得意げに笑った。
福田は立ち上がるとゆったりと蒼樹の隣まで歩いてきた。そうして、すぅっと息を吸い、背をのけぞると福田も海に向かって叫んでいた。
「つーかー! ずっとよろしくお願いしたいっすー!」
蒼樹の声よりももっとずっと大きくて、腹の底から響く太い声が、蒼樹の体の髄を震わせた。
「それって……」
「どうする?」
隣に立つ福田を見上げていた蒼樹に、冗談でいたわけではないと、真面目な顔で振り返った福田に、蒼樹はこれでもかと目を見開いて両手で驚きで塞がらない口を押さえた。
どうする?なんて、そんな……そんなこと……
「今……?」
「出来ればここで、今すぐ」
返事がほしいと言う福田に、ごくりと唾を飲み込むと、正面を向きなおした。
緊張した雰囲気が隣にたつ福田から伝わってくる。
そんなに緊張しないで、と思う。伝染してきてしまうじゃないか。それとも、こちらの緊張が伝わってしまっているのかも知れない。
太陽は地平線から顔をのぞき、空には極彩色のグラデーションが出来上がっている。本当にきれいだ。
新年の、二人の新しいスタートに相応しい。
もう一度だけ意を決すると、蒼樹は叫んだ。
「よろしくおねがいしまーすー」
恥ずかしさなんか吹っ飛ばして、蒼樹は絶叫する。
この海に、太陽に大地に、誓う。
幸せになろう、二人でと。
「いよっしゃーー」
「きゃああああ!?」
抱きついてきた福田の勢いに、後ろに倒れこみそうになった。くぐもった声で、
「やべえ……めっちゃ泣きそう」
なんて、福田が言うので、蒼樹は表情を揺るまでながら、
「笑ってください」
といった。
太陽が完全に昇りきる。二人の新しいスタートの始まりだ。
同じようにダウンジャケットを来た福田と共に、砂浜に腰を下ろした。海風は想像していたよりも寒かった。
マフラーに顔を埋めて、鼻の頭と頬が寒さで真っ赤になっている。
ここまでバイクをはしらせて来た。
年越しはお互いに別々に過ごしたあと、蒼樹を迎えに行って、そのまま高速に乗った。途中サービスエリアに寄ることもせず、ノンストップでバイクを運転してきたから、顔が赤くなって当然だ。
寒そうにますます首を縮み混ませる福田を見ながら、蒼樹はポケットから缶コーヒーを取り出した。
「はい、どうぞ」
「サンキュー」
缶コーヒーを受けとると両手で抱え込むように握った。
「あったけー……」
冷えた指から缶コーヒーの温かさが伝わって、じんじんと痛くなってきた。頬や鼻先になで擦る。
その行為を見ていた蒼樹は、ふふ、と笑った。
「寒いなかありがとうございます。」
「いーえ。俺が連れていきたかったので。」
福田がまだ暗い海の先を見ながら、赤くなった鼻を擦って言った。蒼樹が見る福田の横顔には、寒さで目が潤んでいる。照れ隠しに蒼樹を直接見ないにだとわかっているから、蒼樹も照れ臭くなった。
「私ホッカイロ持ってきましたけど、使います?」
「まじで? いいの?」
「二個持ってきたので」
どうせそういうものは持ってこないだろうと思っていたから丁度よかった。蒼樹は左のポケットからホッカイロを取り出すと、福田のダウンのポケットに入れた。
静かに波が砂浜に押し寄せる。
ザアンザアンと白波が寄せるのをじっと見つめていた。吐き出す息は真っ白だ。
身体を縮こませる福田との隙間を埋めるようと、身体を寄せた。それに気づいた福田が
「なに?」
と、声を発さずに聞いてきたような気がしたので、えへへと
「寒いから」
と笑って言った。二人して小さく笑って、寄せあった身体を密着させた。押しくらまんじゅうするように押し付けあって、とうとう声を出して笑いあった。触れあった指先で、お互いに自然と手を繋いだ。
話をしなくても楽しかった。
初日の出を見に行こうと福田から誘われたとき、すごく嬉しかった。電話越しの福田の声はちょっと緊張しているみたいに、蒼樹の反応を伺っていて、蒼樹はどきどきしてどもりながら「いいですよ」と快諾した。
海風で寒くても、平気だった。
「あ!」
「お!」
「出てきました!」
まだかな、と思った矢先地平線がうっすらと染まりだした。
太陽の強大な力に引かれるように雲が細く引かれ、温度が急激に冷え込んでくる。引力に引かれ、太陽の魅力にとりつかれたように見いった。隣で福田がケータイのカメラで写真をとったのだろう、カシャッとシャッター音が聞こえてきた。それには目もくれず、自然と立ち上がって打ち寄せる波に近づいた。
靴先が波に濡れるのも構わずに太陽に引かれていった。
「おーい。濡れるぞー」
福田がそういうのが聞こえていないのか、聞く気がないのか、蒼樹はブーツの靴先を波の泡に濡らしながら、大きく息を吸った。
「ん?」
綺麗な新年の幕開けに、一言言っておきたくなった。言うというより、叫んでおきたくなった。
それは宣誓のようであった。
蒼樹はせーのと心の中で合図を出すと、海に向かって大声を張り上げた。
「今年もよろしくお願いしまーす!」
こんなに大声を出したことなんて人生の中でほとんど経験がない。慣れない発声は、最後の方はかすれ声になったけれど、すごく満足だった。
クルリと振り返ると、目を真ん丸にした福田が蒼樹を凝視していた。
福田の表情に、してやったりと蒼樹はにやりと得意げに笑った。
福田は立ち上がるとゆったりと蒼樹の隣まで歩いてきた。そうして、すぅっと息を吸い、背をのけぞると福田も海に向かって叫んでいた。
「つーかー! ずっとよろしくお願いしたいっすー!」
蒼樹の声よりももっとずっと大きくて、腹の底から響く太い声が、蒼樹の体の髄を震わせた。
「それって……」
「どうする?」
隣に立つ福田を見上げていた蒼樹に、冗談でいたわけではないと、真面目な顔で振り返った福田に、蒼樹はこれでもかと目を見開いて両手で驚きで塞がらない口を押さえた。
どうする?なんて、そんな……そんなこと……
「今……?」
「出来ればここで、今すぐ」
返事がほしいと言う福田に、ごくりと唾を飲み込むと、正面を向きなおした。
緊張した雰囲気が隣にたつ福田から伝わってくる。
そんなに緊張しないで、と思う。伝染してきてしまうじゃないか。それとも、こちらの緊張が伝わってしまっているのかも知れない。
太陽は地平線から顔をのぞき、空には極彩色のグラデーションが出来上がっている。本当にきれいだ。
新年の、二人の新しいスタートに相応しい。
もう一度だけ意を決すると、蒼樹は叫んだ。
「よろしくおねがいしまーすー」
恥ずかしさなんか吹っ飛ばして、蒼樹は絶叫する。
この海に、太陽に大地に、誓う。
幸せになろう、二人でと。
「いよっしゃーー」
「きゃああああ!?」
抱きついてきた福田の勢いに、後ろに倒れこみそうになった。くぐもった声で、
「やべえ……めっちゃ泣きそう」
なんて、福田が言うので、蒼樹は表情を揺るまでながら、
「笑ってください」
といった。
太陽が完全に昇りきる。二人の新しいスタートの始まりだ。
乙女の花占い
どきどきするのは、少し走ってしまったせいだ、と言い訳して、顔が火照って熱いのはエアコンが効いているからだと自分を納得させた。
逢えばどきまぎして会話があまり続かなくなって、視線が合いそうになるとちょっと逸らした。
そんなへたくそな自分に、内心でため息をついて泣きたくなることもしばしばで、どうしたらいいのかなあ、なんて蒼樹はスーパーからの帰り道一人歩きながら思った。
これはきっと、なんとかっていう感情を、相手に対して持っているんだろうな、と考える。なんとかという感情は、口に出してしまっても、心の中で思ってもどちらも恥ずかしくて、蒼樹は一人なのにも関わらず顔を赤くして「違う違う」と首をぶんぶんと横に振った。
そんなことない。
福田にそんなことを思うはずがない。
だって、自分のことを嫌いだと言った男なのだ。いけ好かない女だと言われたこともある。そんなひどいことを本人の前でなんら躊躇いもなく言うような男のことを、そんな風に思うはずがない。
「違うもん! 絶対!」
口に出して、むくりと沸き上がる気持ちに否定する。違うと言いながら、どきどきは一向に収まる気配がない。
ひどい男なんだ、と繰り返す。ひどい男だ。全くひどい男だ。
乱暴で、粗野で、女心を微塵も理解できない男だ。他人のためになんでか親身になって、自分の苦労も厭わないで助けようとする。お節介で、お人好しで、努力家。蒼樹には想像つかないほどの努力をして、漫画家という道を歩んでいる男だ。逃げ道なんかつくらない、正々堂々と勝負する、一本気のある男。
粗野で乱暴で鈍感なのに、妙に時折優しくて、それが無自覚だったりする、最低な男だ。
そんな最低な男だから、そんな風に、どきどきしたり、赤くなったり、そんな思いをしたら、つらい目に遭うのはきっと自分の方だ。鈍感な相手には、蒼樹がこんな風にどきどきしたりしていることなんか伝わっていないだろう。片思いしかしたことのない蒼樹だったから、思いを伝える方法や効果的な伝え方なんてわからない。よけいに伝わりようがない。
「いやいや、伝えるとかそうじゃないし!違うし!伝えるものなんてなにもないし。何もない!」
独り言をつぶやく蒼樹は、明らかに挙動不審だった。通りには一人もおらず、そのことにも気づいていない蒼樹には幸いなことだったかもしれない。
ふと目に入った赤色に、蒼樹は足を止めた。
小さな公園のベンチの足下に、それは散らばっていた。椿の花びらが散っている。自然に落ちたものではない。誰かが花ごと垣根から取って、花びらを毟ったように見えた。それも一枚ずつだ。
「花占いかしら……」
蒼樹も昔やったことがある。幼稚園か小学生のころだったかと思う。好き、嫌い、と繰り返して、最後の一枚で占う。
蒼樹は椿の垣根に吸い寄せられるように近づいた。冬の冷たさにきっと澄み切った椿の香りが心地よい。すん、と鼻で吸うと、冷たい空気とともに肺に入っていく。
蒼樹はおおぶりの椿の花を指でつつくと、花の根本に指を這わせて、ぶち、と椿を取った。
「懐かしいなあ……」
椿の花を手に持ったまま、ベンチに座った。椿の花びらを外側から、一枚ずつ丁寧に取っていく。
「すき……きらい……、すき……きらい……」
記憶の中の小さい自分も、こうやってベンチに座って足をぶらぶらさせながら、花びらを一枚ずつ、好きか嫌いかとめくっていったものだ。
不思議なもので、花びらをめくっている最中は、わくわくしているものなのだ。最後の一枚が、好きと出るのか、嫌いと出るのか、たかだかそれだけのために、占いと言うにはお粗末なそれに、どちらが出るかなとわくわくしている。
けれど、枚数が少なくなって目に見えて分かってくると、わくわくはどきどきに変わっていって、結局自分はどちらを期待して占いをしているのかわからなくなる。
「すき……きらい……」
好きか嫌いか、花びらで運命を決めて「そうなんだ」と納得する方が難しいし、納得させようと思って花占いをしているわけではないと思う。特に、嫌いが出てしまったときの乙女の対応は矛盾がほとんどだ。もう一回、などと言って、好きが出るまでやり続ける。
結局好きなのだから花占いなどという乙女モードなことをしているわけで、要するに、今の蒼樹もそうなのだ。
「す……好き……」
最後の一枚。花弁に残したまま、蒼樹はどきどきする鼓動を聞きながら、じっとそれを眺めていた。
好き? 誰を? 私が? 彼を?
まさか……
そんなわけがないだろうと、蒼樹は慌てて垣根からまた椿の花を毟った。そうして、二度目の花占いに突入し、そして結局、三度目の正直だ、と自分に言い聞かせて、三度目の花占いを決行したのである。
「すき……」
そうして出た三度目の正直の結果に、蒼樹は恥ずかしさで頭を垂れた。
結局三回行った花占いの結果は、三回とも全て「好き」だったのである。
蒼樹はどきどきした胸を押さえつけるように、性懲りもなくもう一度花を毟ろうとして、結局その手を宙に浮かせたまま、花を取るのをやめた。
これで嫌いが出たら、今度はどうするのだろう。嫌いがでて「やった!」なんて思うのだろうか。嫌いが出たらそれはそれでショックで、また「ちょっと違う」、なんて言って花を毟るに違いない。
蒼樹はそこまで自分の未来の行動を想像して、ますます挙動不審に「う〜」などと唸っていた。
「好き、か、なあ……?」
私が、福田さんのことを好き。どきどきするのも、目を合わせられなくなってしまったのも、でも盗み見てしまって、かっこいいなあ、なんて考えてしまっていることが、好きということか。
「なに考えているのよ!私!」
福田のことをかっこいい、だなんて、そうか、そんな風に思っていたのかと、今更ながらにそのときの感情に気づいて、蒼樹はかあーっと顔に熱が集まっていくのを感じた。
ヒドい男なのに、そんな人に惹かれてしまうなんて、我ながらどうかしている。
蒼樹は花びらが一枚だけになってしまった椿をくるくると回した。
足下には大量の花びらが散っている。
「あーあ……」
好きと嫌い双方の思いを賭けられた花びらが、北風でちりぢりに散っていった。
いい加減寒くなってきた。今日は寒いからキムチ鍋にでもしようと思っていたところだ。雑貨屋で買った水玉模様のエコバックから長ネギや白菜がのぞく。
福田は今日はどうしているだろう。今日も毎度のごとくカップ麺なのかな、と思いを馳せたところで、ケータイが鳴った。
「あ!」
身構えていなかったせいで、蒼樹は着信名を見てあわてて通話ボタンを押して、ケータイを耳に当てた。
「あの」
『おー蒼樹嬢! これから暇?』
「へ?あ、はい、特には」
『鍋しよーぜ鍋。新妻くんのとこで集まってさー、ってあ、こら! 師匠!』
『こんにちわですー蒼樹せんせー! 水炊きです? ちゃんこです? それとも闇鍋にしますかー?』
「あ、こんにちわ」
『人の電話勝手に出んなよっ』
『いいじゃないですか。僕も蒼樹せんせーと話たかったですー』
『だからっていきなり取んな!』
『なんですー? 福田せんせーも蒼樹せんせーと話したかったですー?』
『そーいうんじゃなくて!』
『素直じゃないですねー』
『だから!』
電話に出ている蒼樹そっちのけで、電話の向こう側で子犬がじゃれつくような喧嘩を始めた福田と新妻に、蒼樹は驚きつつ、「あの」となんとか口を挟んだ。
『何だよ?』
「私も今日、お鍋にしようと思って材料買ってきたところだったんです」
『じゃー丁度いいじゃん』
「そうですね。」
でも一人分の材料しかないから、三人……もしくはそれ以上だとすると、絶対にこれでは足りない。そう言おうと思ったら、先に福田が口を開いた。
『今どこ? 迎えにいくわ。』
「え!? いい、いいです! 一人で……」
『ついでに足りない材料仕入れてこうぜ?』
「あ……」
そう言われてしまえば断るわけにはいかない。
蒼樹は三鷹駅まで行くと言って、電話を切った。駅に行く道すがら、カーブミラーに映った自分の姿を確認して、着替えてくればよかったと悔やんだが、そんなことをしていたら、たぶん中野の新妻のマンションにいるのであろう福田がすぐに来てしまう。
駅で福田を待ちながら、蒼樹は未だに花占いで使った花びらが一枚しか残っていない椿の花を持っていることに気づく。
食事に誘ってもらえてうれしい。二人きりではないけれど、二人きりだと会話が保たなそうだから、ちょうどいいかもしれない。
椿をそっとエコバックの中にしまって、蒼樹はどきどきしながら福田のハーレーが来るのを待っていた。
逢えばどきまぎして会話があまり続かなくなって、視線が合いそうになるとちょっと逸らした。
そんなへたくそな自分に、内心でため息をついて泣きたくなることもしばしばで、どうしたらいいのかなあ、なんて蒼樹はスーパーからの帰り道一人歩きながら思った。
これはきっと、なんとかっていう感情を、相手に対して持っているんだろうな、と考える。なんとかという感情は、口に出してしまっても、心の中で思ってもどちらも恥ずかしくて、蒼樹は一人なのにも関わらず顔を赤くして「違う違う」と首をぶんぶんと横に振った。
そんなことない。
福田にそんなことを思うはずがない。
だって、自分のことを嫌いだと言った男なのだ。いけ好かない女だと言われたこともある。そんなひどいことを本人の前でなんら躊躇いもなく言うような男のことを、そんな風に思うはずがない。
「違うもん! 絶対!」
口に出して、むくりと沸き上がる気持ちに否定する。違うと言いながら、どきどきは一向に収まる気配がない。
ひどい男なんだ、と繰り返す。ひどい男だ。全くひどい男だ。
乱暴で、粗野で、女心を微塵も理解できない男だ。他人のためになんでか親身になって、自分の苦労も厭わないで助けようとする。お節介で、お人好しで、努力家。蒼樹には想像つかないほどの努力をして、漫画家という道を歩んでいる男だ。逃げ道なんかつくらない、正々堂々と勝負する、一本気のある男。
粗野で乱暴で鈍感なのに、妙に時折優しくて、それが無自覚だったりする、最低な男だ。
そんな最低な男だから、そんな風に、どきどきしたり、赤くなったり、そんな思いをしたら、つらい目に遭うのはきっと自分の方だ。鈍感な相手には、蒼樹がこんな風にどきどきしたりしていることなんか伝わっていないだろう。片思いしかしたことのない蒼樹だったから、思いを伝える方法や効果的な伝え方なんてわからない。よけいに伝わりようがない。
「いやいや、伝えるとかそうじゃないし!違うし!伝えるものなんてなにもないし。何もない!」
独り言をつぶやく蒼樹は、明らかに挙動不審だった。通りには一人もおらず、そのことにも気づいていない蒼樹には幸いなことだったかもしれない。
ふと目に入った赤色に、蒼樹は足を止めた。
小さな公園のベンチの足下に、それは散らばっていた。椿の花びらが散っている。自然に落ちたものではない。誰かが花ごと垣根から取って、花びらを毟ったように見えた。それも一枚ずつだ。
「花占いかしら……」
蒼樹も昔やったことがある。幼稚園か小学生のころだったかと思う。好き、嫌い、と繰り返して、最後の一枚で占う。
蒼樹は椿の垣根に吸い寄せられるように近づいた。冬の冷たさにきっと澄み切った椿の香りが心地よい。すん、と鼻で吸うと、冷たい空気とともに肺に入っていく。
蒼樹はおおぶりの椿の花を指でつつくと、花の根本に指を這わせて、ぶち、と椿を取った。
「懐かしいなあ……」
椿の花を手に持ったまま、ベンチに座った。椿の花びらを外側から、一枚ずつ丁寧に取っていく。
「すき……きらい……、すき……きらい……」
記憶の中の小さい自分も、こうやってベンチに座って足をぶらぶらさせながら、花びらを一枚ずつ、好きか嫌いかとめくっていったものだ。
不思議なもので、花びらをめくっている最中は、わくわくしているものなのだ。最後の一枚が、好きと出るのか、嫌いと出るのか、たかだかそれだけのために、占いと言うにはお粗末なそれに、どちらが出るかなとわくわくしている。
けれど、枚数が少なくなって目に見えて分かってくると、わくわくはどきどきに変わっていって、結局自分はどちらを期待して占いをしているのかわからなくなる。
「すき……きらい……」
好きか嫌いか、花びらで運命を決めて「そうなんだ」と納得する方が難しいし、納得させようと思って花占いをしているわけではないと思う。特に、嫌いが出てしまったときの乙女の対応は矛盾がほとんどだ。もう一回、などと言って、好きが出るまでやり続ける。
結局好きなのだから花占いなどという乙女モードなことをしているわけで、要するに、今の蒼樹もそうなのだ。
「す……好き……」
最後の一枚。花弁に残したまま、蒼樹はどきどきする鼓動を聞きながら、じっとそれを眺めていた。
好き? 誰を? 私が? 彼を?
まさか……
そんなわけがないだろうと、蒼樹は慌てて垣根からまた椿の花を毟った。そうして、二度目の花占いに突入し、そして結局、三度目の正直だ、と自分に言い聞かせて、三度目の花占いを決行したのである。
「すき……」
そうして出た三度目の正直の結果に、蒼樹は恥ずかしさで頭を垂れた。
結局三回行った花占いの結果は、三回とも全て「好き」だったのである。
蒼樹はどきどきした胸を押さえつけるように、性懲りもなくもう一度花を毟ろうとして、結局その手を宙に浮かせたまま、花を取るのをやめた。
これで嫌いが出たら、今度はどうするのだろう。嫌いがでて「やった!」なんて思うのだろうか。嫌いが出たらそれはそれでショックで、また「ちょっと違う」、なんて言って花を毟るに違いない。
蒼樹はそこまで自分の未来の行動を想像して、ますます挙動不審に「う〜」などと唸っていた。
「好き、か、なあ……?」
私が、福田さんのことを好き。どきどきするのも、目を合わせられなくなってしまったのも、でも盗み見てしまって、かっこいいなあ、なんて考えてしまっていることが、好きということか。
「なに考えているのよ!私!」
福田のことをかっこいい、だなんて、そうか、そんな風に思っていたのかと、今更ながらにそのときの感情に気づいて、蒼樹はかあーっと顔に熱が集まっていくのを感じた。
ヒドい男なのに、そんな人に惹かれてしまうなんて、我ながらどうかしている。
蒼樹は花びらが一枚だけになってしまった椿をくるくると回した。
足下には大量の花びらが散っている。
「あーあ……」
好きと嫌い双方の思いを賭けられた花びらが、北風でちりぢりに散っていった。
いい加減寒くなってきた。今日は寒いからキムチ鍋にでもしようと思っていたところだ。雑貨屋で買った水玉模様のエコバックから長ネギや白菜がのぞく。
福田は今日はどうしているだろう。今日も毎度のごとくカップ麺なのかな、と思いを馳せたところで、ケータイが鳴った。
「あ!」
身構えていなかったせいで、蒼樹は着信名を見てあわてて通話ボタンを押して、ケータイを耳に当てた。
「あの」
『おー蒼樹嬢! これから暇?』
「へ?あ、はい、特には」
『鍋しよーぜ鍋。新妻くんのとこで集まってさー、ってあ、こら! 師匠!』
『こんにちわですー蒼樹せんせー! 水炊きです? ちゃんこです? それとも闇鍋にしますかー?』
「あ、こんにちわ」
『人の電話勝手に出んなよっ』
『いいじゃないですか。僕も蒼樹せんせーと話たかったですー』
『だからっていきなり取んな!』
『なんですー? 福田せんせーも蒼樹せんせーと話したかったですー?』
『そーいうんじゃなくて!』
『素直じゃないですねー』
『だから!』
電話に出ている蒼樹そっちのけで、電話の向こう側で子犬がじゃれつくような喧嘩を始めた福田と新妻に、蒼樹は驚きつつ、「あの」となんとか口を挟んだ。
『何だよ?』
「私も今日、お鍋にしようと思って材料買ってきたところだったんです」
『じゃー丁度いいじゃん』
「そうですね。」
でも一人分の材料しかないから、三人……もしくはそれ以上だとすると、絶対にこれでは足りない。そう言おうと思ったら、先に福田が口を開いた。
『今どこ? 迎えにいくわ。』
「え!? いい、いいです! 一人で……」
『ついでに足りない材料仕入れてこうぜ?』
「あ……」
そう言われてしまえば断るわけにはいかない。
蒼樹は三鷹駅まで行くと言って、電話を切った。駅に行く道すがら、カーブミラーに映った自分の姿を確認して、着替えてくればよかったと悔やんだが、そんなことをしていたら、たぶん中野の新妻のマンションにいるのであろう福田がすぐに来てしまう。
駅で福田を待ちながら、蒼樹は未だに花占いで使った花びらが一枚しか残っていない椿の花を持っていることに気づく。
食事に誘ってもらえてうれしい。二人きりではないけれど、二人きりだと会話が保たなそうだから、ちょうどいいかもしれない。
椿をそっとエコバックの中にしまって、蒼樹はどきどきしながら福田のハーレーが来るのを待っていた。
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