振り返れば、或る
久しぶりに一人でぶらぶらと街を歩く。自宅が仕事場だから、一歩も外に出ないことも少なくない。健康に悪いとは思っていても、特に用がないのに外に出る理由もなく、普段は基本的にインドア一辺倒だ。
それもこれも、ジャンプで一番になりたい、そう願って我武者羅に漫画を描いてきたせいだ。デビューする前から、今まで一度も気を抜いたことなんてない。作品がアニメ化して、人気作品の列に並ぶことができているのだとしても、それでも盤石な状態とは言い難い。週刊連載なんてそんなものだ。漫画は水ものだ。面白くないと思えば、すぐに読者は離れて行ってしまう。平丸や新妻のように、自分の描きたい話だけを書いて人気がでるような天才タイプなんか、あまり多くはいない。話を作りながら、原稿の向こうに読者の反応がちらつく。読者を引っ張り込めるようにしなければならない。読者の希望通りの流れにしようとは思っていない。けれど、あまりにちらつく読者の陰に、たまに酷く疲れることがある。
福田は街をぶらぶらと歩きながら、空を見上げた。曇天は目にまぶしい。太陽の光は雲の粒子に乱反射して、それなりに明るい。常日頃、屋内にいる福田には目の奥が痛くなるまぶしさだった。目頭を押さえて押し揉んだ。
「部屋に籠ってばかりいてはだめですよ」
いつだったかそう言われた。やけに口うるさい女で、逢うたびにイライラする女だった。見た目は運動しそうもないのに、健康のためだといって、軽いジョギングをしているのだと言った。何やら形にもこだわる女で、そこらへんのジャージなどではなく、ジョギング用の靴やら、スカートやら、なんやかんやと揃えていた。なんだかそれらを見るだけでおなかいっぱいだった。
「今度一緒に走りましょう」
と、言われたけれど、結局一度も走らずに終わったし、福田はジョギングウェアを買うこともなかった。
運動することは嫌いじゃない。たまに担当の雄二郎に誘われてフットサルをしたりする。そのたび体力の衰えを感じて、若年寄になった気分だった。
ゆったりと歩いて向かった先は、お気に入りのラーメン屋。最近見つけた店で、やはりとんこつラーメンがおいしい。
ラーメンばかり食べていないで、野菜も摂りなさいと、やはりあの口うるさい女に言われた。某漫画の主人公か!と内心で突っ込みつつ、適当に返事を返した記憶がある。呆れるどころか、イラつきが増したらしく、なぜかスーパーに寄って、白菜とベーコンの鍋を振舞われた。
「野菜って、白菜しかねーじゃねえか!」
と、言ったら、
「私はこれが食べたかったんです!」
なんて、数秒の沈黙のあと、苦しい言い訳をした女を思い出して、福田はくすりと笑った。後から知ったことだが、その女の得意料理らしい。といっても、大きく切った白菜の間にベーコンをはさんで、土鍋に無理やり押し込んで、味付けは塩コショウとコンソメだけの簡単料理だった。けれどそれが意外に、それもかなりおいしくて、あんなに大量にいれた白菜をぺろりと食べてしまった。
手料理を振舞われたのはあれが一回きりで、そのおいしかった白菜ベーコン鍋も、それから一度だって福田は作ったことはなかった。
あれから食生活が劇的に変化したということは全くもってない。劇的ではないけれど、たまに自炊をするようになった。確かに、ラーメンばかり食べているというのもどうか、と思うのも事実で、それが原因で体調を壊して休載するような話にでもなってしまったら、一気に今の地位から陥落してしまう。
そういう事例を身近な人間で知っているだけに、余計に気を付けるようになった。
漫画は水物。一度落ちた人気を再び取り戻すなんて、よほどの力がなければ無理だ。それも、並大抵のことではない。
今が安定しているように見えても、数年後にどうなっているかわからない。
かといって、いつでも後ろ暗い未来を想像していても仕方がない。そんな後ろ向きな想像ばかりしていたら、本当にそれに飲み込まれていってしまうような気がした。だから、いつだって、多少の辛いことがあっても、福田はいつだって前向きに捉えてきた。次を頑張ればいい。そうやって、今の地位まで駆け上がってきた。
平日の昼時。平日だろと休日だろうとお構いなしに人が溢れている。ラーメン屋は路地裏。アンダーグラウンドな雰囲気を醸し出す路地裏に構える小さな店。外観同様に店内も薄暗く小汚いのかと思いきや、真新しいテーブルと証明、アジアンテイストを意識した派手なガールズイラストが飾られた不思議な雰囲気のラーメン屋だった。店主は福田と同じくらいかそれよりも幾分年上の若い男で、つかみどころのない笑顔を浮かべるこれまた不思議な男だった。
店に現れた福田に、店主がにっこり笑って出迎えた。
店内には数人の客がいた。カップルが二組と、いかにもラーメン好きを自称していそうな男が二人。狭い店内では客がめい一杯入っているように見える。カウンター席に座り、ラーメンが出てくるのを待つ間、福田はパンツの尻ポケットからケータイを取り出した。手持無沙汰にケータイをいじる。メールや着信はなかった。ただ暇な時間をつぶすためにケータイをいじる。
服部雄二郎の名前が並ぶ着信履歴。その合間にアシスタントの名前。見事に女っけのない着信履歴に、福田は思いっきり自嘲した。数年前まで、口うるさい女の名前ばかりが着信履歴を占拠していた。ケータイの着信も、FAXの着信もその女からのものばかりで、まるで生活の一部を乗っ取られたみたいだった。それが楽しかっただなんて、遠い記憶に思いを馳せると、急に気分が沈み込む。いかんいかん、と首を振った。
ラーメンを食べ終わると、またぶらぶらとした。原宿駅で降りる。洋服とアクセサリーを買おう。今日はそう決めていた。数件のセレクトショップを覗き、シルバーアクセサリーの専門店へと足を運ぶ。洋服の入ったショップ袋が歩くたびに膝にあたった。その道姿、独特なヘアスタイルの人物を見つけて、福田は足を止める。似合っているのか似合っていないのかわからない白のスーツを着た姫カットの男の後ろ姿に、福田は声をかけようかどうしようか一瞬迷った。迷った末に、福田は声を掛けざるを得なくなった。
「あ」
振り返った平丸が、福田に気づいたからだ。そしてそのまま、勢いよく福田の元へ走ってくる。大抵、何が言いたいのか福田はすぐに思い浮かんで露骨に嫌な顔をした。
「福田くん!吉田氏には連絡しないでくれ!」
「まだ逃げてんすか……」
やはりと言って風に首をゆるゆると振ると、それに相反するように、体を前後に激しく揺す振られる。
「そんな呆れたような顔をしないでくれ!僕にとっては死活問題なんだ!」
がくがくと揺すられる頭で、仕事が嫌いで漫画を描くのをこうして逃げているような作家が、とんとん拍子に人気作家になっていったのだから、神様は不公平だなどと、信じてもいない神を恨んだ。新妻とは違うタイプの天才。天才なんて言葉、福田は嫌いだった。編集部は誰にでも天才つけたがる。天才と持て囃される作家が嫌いなわけではない。けれど、天から与えられた才能を生かすも殺すも自分自身なのであって、誰しも天才にも凡才にも成りえる可能性を秘めているのだというのが、福田の持論だった。
確かに新妻も平丸も、凡才の自分からみたら天才なのかもしれない。けれど、どんな天才にも努力なしでの成功はありえない。福田はそう思っていた。
だから、平丸の行動には時々不愉快な気分になる。これが平丸なのだとわかってはいるものの、漫画から逃げているのに、それが面白いなんて、どうやったってマネできない。
いつまでも肩を揺すり続ける平丸から強引に逃れると、福田はぐらぐらと揺れる頭を押さえた。酔いそうだ。
「いい加減逃げるの、やめたらどうっすか?」
「やりたくないものから逃げたっていいじゃないか」
「やりたくないんすか、漫画」
「しぶしぶといった状態だね。やらなくてもいいと言われたら、絶対にやらない」
「そうすか」
「でも、蒼樹嬢と約束してるんでしょ?」
「そうなんだ、ちゃんと漫画書いてくださいって約束したんだよ」
でれでれと鼻の下が伸びる平丸の顔を、アッパーで顎の下から元に戻してやりたくなる。
「っていうか、なんでそれを福田くんが知ってるの」
「何言ってんすか、自分で言ってたじゃないですか」
中井が蒼樹のところに泥酔して乗り込もうとしたとき、わけのわからない理屈を捏ねて、中井を丸め込んでしまったじゃないか。
中井とのことは屈辱的だった。自分の言葉は一つとして通じなかった。アシスタントに誘ったことに情けや同情が一つもなかったわけではないが、それでも中井に漫画に向き合って欲しかったのに、何も、これっぽっちも福田の気持ちが伝わることはなかった。うるさい、と切り捨てられ、真面目に聞いてくれることすらしてくれなかった。
自分の言葉が伝わらないことの惨めさ屈辱感は、福田を苛んだ。こんな堕落した男のことなどどうでもいいと、もう自分とは関係ない、知ったこっちゃないと思っているのに、蝕んでいく。その大きな存在に、苛立ちを隠せなかった。
どこかで、心の奥底、今でも中井に頑張って欲しいと思う気持ちがあるのだろうか。
そんな気持ち、屈辱的な気分が増幅されるだけで、もう捨ててしまいたい。
この屈辱感は、あの日、屈辱的な行為を受けた蒼樹よりも大きいかもしれない。
平丸の影には蒼樹の姿が滲む。それが、随分と福田に苦い思いをさせているなんて、福田自身も気付きたくなかった。
「……蒼樹嬢は……?」
「え?」
「蒼樹嬢、元気?」
けれど、平丸との会話で蒼樹の名前を出すことは自然なことだった。むしろ、それしか話題にできることがなかった。
「中井さんのこと、何か言ってる?」
「中井さんのこと? いや、特には聞いてないなー」
「そうすっか……」
元来彼女には潔癖なところがある。酔っ払いふざけるのも大概にしろという程に暴れまくった中井の前に、私を殴れと出て行った蒼樹の姿こそ、生来の姿なのだと思う。出会った頃より格段の取れた角のせいで忘れかけていたが、自分の納得のいかないことにはNOを突きつける度胸は昔からあったのだ。
何も話題にしないというところを見ると、かなり怒っているのだろう。
屈辱を受けたのだ、怒って当たり前だ。自分と同じように。
福田は少し俯いて小さく笑った。
彼女らしいと思って。
未練がましく彼女のことを考えてしまう自分を憐れんで。
いつだったか平丸に蒼樹のケータイ番号を聞いたときに、「愛の告白か」と言われた。
平丸にはそれを行う勇気があって、福田には蚤みたいなちっぽけなものしかなくて、態とらしく外野から応援していただけだった。
「なーんで、あんなことしてんだろうな」
「福田くん?」
今更言ったところで何も変わらない。
振り返るとそこにあるのは、苦くなってしまった楽しかったはずの思い出だけだった。
それもこれも、ジャンプで一番になりたい、そう願って我武者羅に漫画を描いてきたせいだ。デビューする前から、今まで一度も気を抜いたことなんてない。作品がアニメ化して、人気作品の列に並ぶことができているのだとしても、それでも盤石な状態とは言い難い。週刊連載なんてそんなものだ。漫画は水ものだ。面白くないと思えば、すぐに読者は離れて行ってしまう。平丸や新妻のように、自分の描きたい話だけを書いて人気がでるような天才タイプなんか、あまり多くはいない。話を作りながら、原稿の向こうに読者の反応がちらつく。読者を引っ張り込めるようにしなければならない。読者の希望通りの流れにしようとは思っていない。けれど、あまりにちらつく読者の陰に、たまに酷く疲れることがある。
福田は街をぶらぶらと歩きながら、空を見上げた。曇天は目にまぶしい。太陽の光は雲の粒子に乱反射して、それなりに明るい。常日頃、屋内にいる福田には目の奥が痛くなるまぶしさだった。目頭を押さえて押し揉んだ。
「部屋に籠ってばかりいてはだめですよ」
いつだったかそう言われた。やけに口うるさい女で、逢うたびにイライラする女だった。見た目は運動しそうもないのに、健康のためだといって、軽いジョギングをしているのだと言った。何やら形にもこだわる女で、そこらへんのジャージなどではなく、ジョギング用の靴やら、スカートやら、なんやかんやと揃えていた。なんだかそれらを見るだけでおなかいっぱいだった。
「今度一緒に走りましょう」
と、言われたけれど、結局一度も走らずに終わったし、福田はジョギングウェアを買うこともなかった。
運動することは嫌いじゃない。たまに担当の雄二郎に誘われてフットサルをしたりする。そのたび体力の衰えを感じて、若年寄になった気分だった。
ゆったりと歩いて向かった先は、お気に入りのラーメン屋。最近見つけた店で、やはりとんこつラーメンがおいしい。
ラーメンばかり食べていないで、野菜も摂りなさいと、やはりあの口うるさい女に言われた。某漫画の主人公か!と内心で突っ込みつつ、適当に返事を返した記憶がある。呆れるどころか、イラつきが増したらしく、なぜかスーパーに寄って、白菜とベーコンの鍋を振舞われた。
「野菜って、白菜しかねーじゃねえか!」
と、言ったら、
「私はこれが食べたかったんです!」
なんて、数秒の沈黙のあと、苦しい言い訳をした女を思い出して、福田はくすりと笑った。後から知ったことだが、その女の得意料理らしい。といっても、大きく切った白菜の間にベーコンをはさんで、土鍋に無理やり押し込んで、味付けは塩コショウとコンソメだけの簡単料理だった。けれどそれが意外に、それもかなりおいしくて、あんなに大量にいれた白菜をぺろりと食べてしまった。
手料理を振舞われたのはあれが一回きりで、そのおいしかった白菜ベーコン鍋も、それから一度だって福田は作ったことはなかった。
あれから食生活が劇的に変化したということは全くもってない。劇的ではないけれど、たまに自炊をするようになった。確かに、ラーメンばかり食べているというのもどうか、と思うのも事実で、それが原因で体調を壊して休載するような話にでもなってしまったら、一気に今の地位から陥落してしまう。
そういう事例を身近な人間で知っているだけに、余計に気を付けるようになった。
漫画は水物。一度落ちた人気を再び取り戻すなんて、よほどの力がなければ無理だ。それも、並大抵のことではない。
今が安定しているように見えても、数年後にどうなっているかわからない。
かといって、いつでも後ろ暗い未来を想像していても仕方がない。そんな後ろ向きな想像ばかりしていたら、本当にそれに飲み込まれていってしまうような気がした。だから、いつだって、多少の辛いことがあっても、福田はいつだって前向きに捉えてきた。次を頑張ればいい。そうやって、今の地位まで駆け上がってきた。
平日の昼時。平日だろと休日だろうとお構いなしに人が溢れている。ラーメン屋は路地裏。アンダーグラウンドな雰囲気を醸し出す路地裏に構える小さな店。外観同様に店内も薄暗く小汚いのかと思いきや、真新しいテーブルと証明、アジアンテイストを意識した派手なガールズイラストが飾られた不思議な雰囲気のラーメン屋だった。店主は福田と同じくらいかそれよりも幾分年上の若い男で、つかみどころのない笑顔を浮かべるこれまた不思議な男だった。
店に現れた福田に、店主がにっこり笑って出迎えた。
店内には数人の客がいた。カップルが二組と、いかにもラーメン好きを自称していそうな男が二人。狭い店内では客がめい一杯入っているように見える。カウンター席に座り、ラーメンが出てくるのを待つ間、福田はパンツの尻ポケットからケータイを取り出した。手持無沙汰にケータイをいじる。メールや着信はなかった。ただ暇な時間をつぶすためにケータイをいじる。
服部雄二郎の名前が並ぶ着信履歴。その合間にアシスタントの名前。見事に女っけのない着信履歴に、福田は思いっきり自嘲した。数年前まで、口うるさい女の名前ばかりが着信履歴を占拠していた。ケータイの着信も、FAXの着信もその女からのものばかりで、まるで生活の一部を乗っ取られたみたいだった。それが楽しかっただなんて、遠い記憶に思いを馳せると、急に気分が沈み込む。いかんいかん、と首を振った。
ラーメンを食べ終わると、またぶらぶらとした。原宿駅で降りる。洋服とアクセサリーを買おう。今日はそう決めていた。数件のセレクトショップを覗き、シルバーアクセサリーの専門店へと足を運ぶ。洋服の入ったショップ袋が歩くたびに膝にあたった。その道姿、独特なヘアスタイルの人物を見つけて、福田は足を止める。似合っているのか似合っていないのかわからない白のスーツを着た姫カットの男の後ろ姿に、福田は声をかけようかどうしようか一瞬迷った。迷った末に、福田は声を掛けざるを得なくなった。
「あ」
振り返った平丸が、福田に気づいたからだ。そしてそのまま、勢いよく福田の元へ走ってくる。大抵、何が言いたいのか福田はすぐに思い浮かんで露骨に嫌な顔をした。
「福田くん!吉田氏には連絡しないでくれ!」
「まだ逃げてんすか……」
やはりと言って風に首をゆるゆると振ると、それに相反するように、体を前後に激しく揺す振られる。
「そんな呆れたような顔をしないでくれ!僕にとっては死活問題なんだ!」
がくがくと揺すられる頭で、仕事が嫌いで漫画を描くのをこうして逃げているような作家が、とんとん拍子に人気作家になっていったのだから、神様は不公平だなどと、信じてもいない神を恨んだ。新妻とは違うタイプの天才。天才なんて言葉、福田は嫌いだった。編集部は誰にでも天才つけたがる。天才と持て囃される作家が嫌いなわけではない。けれど、天から与えられた才能を生かすも殺すも自分自身なのであって、誰しも天才にも凡才にも成りえる可能性を秘めているのだというのが、福田の持論だった。
確かに新妻も平丸も、凡才の自分からみたら天才なのかもしれない。けれど、どんな天才にも努力なしでの成功はありえない。福田はそう思っていた。
だから、平丸の行動には時々不愉快な気分になる。これが平丸なのだとわかってはいるものの、漫画から逃げているのに、それが面白いなんて、どうやったってマネできない。
いつまでも肩を揺すり続ける平丸から強引に逃れると、福田はぐらぐらと揺れる頭を押さえた。酔いそうだ。
「いい加減逃げるの、やめたらどうっすか?」
「やりたくないものから逃げたっていいじゃないか」
「やりたくないんすか、漫画」
「しぶしぶといった状態だね。やらなくてもいいと言われたら、絶対にやらない」
「そうすか」
「でも、蒼樹嬢と約束してるんでしょ?」
「そうなんだ、ちゃんと漫画書いてくださいって約束したんだよ」
でれでれと鼻の下が伸びる平丸の顔を、アッパーで顎の下から元に戻してやりたくなる。
「っていうか、なんでそれを福田くんが知ってるの」
「何言ってんすか、自分で言ってたじゃないですか」
中井が蒼樹のところに泥酔して乗り込もうとしたとき、わけのわからない理屈を捏ねて、中井を丸め込んでしまったじゃないか。
中井とのことは屈辱的だった。自分の言葉は一つとして通じなかった。アシスタントに誘ったことに情けや同情が一つもなかったわけではないが、それでも中井に漫画に向き合って欲しかったのに、何も、これっぽっちも福田の気持ちが伝わることはなかった。うるさい、と切り捨てられ、真面目に聞いてくれることすらしてくれなかった。
自分の言葉が伝わらないことの惨めさ屈辱感は、福田を苛んだ。こんな堕落した男のことなどどうでもいいと、もう自分とは関係ない、知ったこっちゃないと思っているのに、蝕んでいく。その大きな存在に、苛立ちを隠せなかった。
どこかで、心の奥底、今でも中井に頑張って欲しいと思う気持ちがあるのだろうか。
そんな気持ち、屈辱的な気分が増幅されるだけで、もう捨ててしまいたい。
この屈辱感は、あの日、屈辱的な行為を受けた蒼樹よりも大きいかもしれない。
平丸の影には蒼樹の姿が滲む。それが、随分と福田に苦い思いをさせているなんて、福田自身も気付きたくなかった。
「……蒼樹嬢は……?」
「え?」
「蒼樹嬢、元気?」
けれど、平丸との会話で蒼樹の名前を出すことは自然なことだった。むしろ、それしか話題にできることがなかった。
「中井さんのこと、何か言ってる?」
「中井さんのこと? いや、特には聞いてないなー」
「そうすっか……」
元来彼女には潔癖なところがある。酔っ払いふざけるのも大概にしろという程に暴れまくった中井の前に、私を殴れと出て行った蒼樹の姿こそ、生来の姿なのだと思う。出会った頃より格段の取れた角のせいで忘れかけていたが、自分の納得のいかないことにはNOを突きつける度胸は昔からあったのだ。
何も話題にしないというところを見ると、かなり怒っているのだろう。
屈辱を受けたのだ、怒って当たり前だ。自分と同じように。
福田は少し俯いて小さく笑った。
彼女らしいと思って。
未練がましく彼女のことを考えてしまう自分を憐れんで。
いつだったか平丸に蒼樹のケータイ番号を聞いたときに、「愛の告白か」と言われた。
平丸にはそれを行う勇気があって、福田には蚤みたいなちっぽけなものしかなくて、態とらしく外野から応援していただけだった。
「なーんで、あんなことしてんだろうな」
「福田くん?」
今更言ったところで何も変わらない。
振り返るとそこにあるのは、苦くなってしまった楽しかったはずの思い出だけだった。
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