煙の向こうに見える顔
彼女は意外にも庶民派だったのだろうか。
もうもうと立ち上がる煙の向こうに見えるかわいらしい顔を見て、平丸はどうしたらいいのか迷った。
「焼肉がいいです」
蒼樹がそう言ったので、平丸は盛大に「え!」と驚いた。
驚いた平丸に蒼樹がさらに驚いて、「え!」と重ねるように声を上げたのだった。
「平丸さん焼肉ダメでしたか?」
「いえ……!いえいえ、大好きですよ!」
「本当ですか!」
顔の前に手を合わせて、不安そうな顔をした蒼樹は平丸のその言葉にほっとしたように肩の力を抜いた。
実際のところ焼肉は好きでも嫌いでもないが、しいていうなら「食べない」かもしれない。
それを言うなら、蒼樹の好きなダージリンの紅茶も、お茶会で用意するケーキ類やスコーンも、平丸は日常的には「食べない」。
そもそも食に対してこだわりなどなく、彼女が好きだから用意するし、食べるし、彼女が食べたいと思えるものを食べればいい。
蒼樹が焼肉に行きたいなど予想外も予想外で、予想の斜め上を行った答えで、平丸は本当にどうしようか悩む。
今日の本来の平丸のプランでは、フレンチに連れて行く予定だった。だからそのために予約をしていたほどだったのだけれど、なぜに蒼樹に「何が食べたいですか?」などと聞いてしまったのだろう。
そこまでプランの中に組み立てていたのなら、「今日はフレンチを予約しているのですが……」と切り出せばいいものを、どうして自分は「何が食べたいですか」なんて聞いたのだろう。
三分前の自分の行動が理解不能である。
そして、聞いてしまったら蒼樹の希望をかなえてやりたいと思うのが男の性であって、今更「今日はフレンチなんです」なんて言えない。
もし言っても、蒼樹だったら「そうなんですか、おいしそうですね」と柔らかに笑んでくれただろう。そこに誇大な平丸の妄想が入っていたとしても、たぶん彼女は平丸に気を遣って「行きましょう」と言ってくれると思う。
だけれど、今彼女が食べたいのは焼肉なのだ。
こんな良家のお嬢さん然とした彼女が食べたいのは、じゅーじゅー肉が焼ける焼肉なのだ。
新宿にあるその焼肉店は少しもデートスポットという雰囲気がしなかった。個室といっても完全な個室ではなく、ついたてがある程度で、隣のどんちゃん騒ぎが否応なしに聞こえてくる。網の上にトングで肉を載せているのは、蒼樹だった。
「平丸さん食べないとこげちゃいますよ」
「は、はい」
そう言いながら、蒼樹はきらきらと煌くピンクのルージュをつけた小さな口の中に牛タンを押し込んだ。彼女は牛タンが好きなようで、先ほどからそればかりを食べているようだった。
網の置いてあるコンロから煙は坐れるといっても、人気店なのか満席な店内はうっすらと白い靄が掛かったように煙が充満していた。
せっかく着てきたスーツもにおいや脂がついてしまうし、蒼樹の服だってそうだ。
髪や身体全体が脂の匂いに塗れるというのに、彼女はそんなことはお構い無しにおいしそうに食べている。
結局焼肉なんてどこがいいのかわからなかった平丸は、「新宿に美味しいお店があるんです」といった蒼樹の提案を受け入れざるを得なかった。
フレンチがぱあになったのに続き、デートのエスコートは失敗続きだ。
平丸の中ではフレンチで食事をして、ワインを飲みすぎた蒼樹を介抱するといって六本木の平丸の自宅へ連れて行き、あわよくば頂いてしまおうという算段だったのだ。
そのためのムード作りも昨日までに部屋に施しておいたというのに。
蒼樹の手にある細身のグラスには高そうなワインでなくて、どこの居酒屋にもありそうなピーチウーロンハイで、肉を食べる合間にコクコクと飲んでいる。
どんな姿でもかわいいことはかわいいのだが、焼肉がディナーでは全くそんな雰囲気になりそうもない。
「平丸さん、どうぞ」
と、二人を分かつ炭火の網から蒼樹が平丸の皿に運ぶ最高の焼き加減の肉を、平丸はぎくしゃくと口に運んだのだった。
結局蒼樹がお酒に酔いすぎることも、ムードが高まることもなく、二人は平丸のポルシェに乗っていた。
送りますといった平丸に、蒼樹は笑顔で「ありがとうございます」と言ったものだから、もう平丸のマンションに連れて行くこともできないし、無理やり連れて行くことなど平丸にそんな勇気があるはずはなかった。
案の定ポルシェの中も二人分の焼肉臭が篭り始めていたし、そのことがわかっているのか蒼樹も最初は「いいです」と断っていたのだ。
「なんか、すみません。こんな高級車なのに、匂いのつく場所選んじゃいましたね」
車に乗り込んでしばらくすると、困ったように笑った蒼樹が言った。
自分の選択がミスだったと、謝っているのだろう。平丸は恐縮して、ぶんぶんと顔を横に振った。
「大丈夫です、別に車なんか。それより、蒼樹さんが焼肉を好きだとは驚きました」
「そうですか?でも、あそこ本当においしかったでしょう」
「あ、はい、そうですね」
「といっても、私も焼肉店でチェーン店以外で知っている店って、あそこしかないんですけど」
「そうなんですか?」
「ええ、焼肉なんて普段行きませんから」
「あ、蒼樹さんの秘密のお店ってことですね」
井の頭通りを走らせながら、平丸はちらりと助手席に座る蒼樹の姿を見た。すると、彼女は可笑しそうに口元に手を当てて微笑んでいた。
「秘密というか……前に福田さんに教えてもらったお店なんですよ。おいしかったから、また行きたいなって思っていて。でも一人で行くにはなかなか」
「え、」
思いも寄らなかった名前が蒼樹の口から出て、平丸は隣の蒼樹を凝視した。丁度信号待ちでよかった。そうでなければわき見運転か、急ブレーキで事故を起こしてしまうところだった。それって、
「福田くんと一緒に行ったってことですか?」
「はい、打ち合わせの帰りに」
しばらく蒼樹を凝視していた平丸は、蒼樹にいぶかしげに「平丸さん?」と声をかけられて信号が青に変わっていることに気付いて、あわててアクセルを踏んだ。
およそ一時間のドライブで、沈黙の時間のほうが圧倒的に多く、蒼樹もその沈黙を破ろうとせず窓の外を見ていた。
「今日はご馳走様でした」
部屋の前まで送ろうと思ったが、蒼樹に「ここでいいです」と断られてしまった。
車が発進するまではてこでもマンションの前で動かなそうな蒼樹に、何かを言おうとして平丸は口を開きかけた。
だけど結局何もいえず、「それでは」と一言、なんのムードもない別れの言葉言って、サイドブレーキを下ろしたのだった。
もうもうと立ち上がる煙の向こうに見えるかわいらしい顔を見て、平丸はどうしたらいいのか迷った。
「焼肉がいいです」
蒼樹がそう言ったので、平丸は盛大に「え!」と驚いた。
驚いた平丸に蒼樹がさらに驚いて、「え!」と重ねるように声を上げたのだった。
「平丸さん焼肉ダメでしたか?」
「いえ……!いえいえ、大好きですよ!」
「本当ですか!」
顔の前に手を合わせて、不安そうな顔をした蒼樹は平丸のその言葉にほっとしたように肩の力を抜いた。
実際のところ焼肉は好きでも嫌いでもないが、しいていうなら「食べない」かもしれない。
それを言うなら、蒼樹の好きなダージリンの紅茶も、お茶会で用意するケーキ類やスコーンも、平丸は日常的には「食べない」。
そもそも食に対してこだわりなどなく、彼女が好きだから用意するし、食べるし、彼女が食べたいと思えるものを食べればいい。
蒼樹が焼肉に行きたいなど予想外も予想外で、予想の斜め上を行った答えで、平丸は本当にどうしようか悩む。
今日の本来の平丸のプランでは、フレンチに連れて行く予定だった。だからそのために予約をしていたほどだったのだけれど、なぜに蒼樹に「何が食べたいですか?」などと聞いてしまったのだろう。
そこまでプランの中に組み立てていたのなら、「今日はフレンチを予約しているのですが……」と切り出せばいいものを、どうして自分は「何が食べたいですか」なんて聞いたのだろう。
三分前の自分の行動が理解不能である。
そして、聞いてしまったら蒼樹の希望をかなえてやりたいと思うのが男の性であって、今更「今日はフレンチなんです」なんて言えない。
もし言っても、蒼樹だったら「そうなんですか、おいしそうですね」と柔らかに笑んでくれただろう。そこに誇大な平丸の妄想が入っていたとしても、たぶん彼女は平丸に気を遣って「行きましょう」と言ってくれると思う。
だけれど、今彼女が食べたいのは焼肉なのだ。
こんな良家のお嬢さん然とした彼女が食べたいのは、じゅーじゅー肉が焼ける焼肉なのだ。
新宿にあるその焼肉店は少しもデートスポットという雰囲気がしなかった。個室といっても完全な個室ではなく、ついたてがある程度で、隣のどんちゃん騒ぎが否応なしに聞こえてくる。網の上にトングで肉を載せているのは、蒼樹だった。
「平丸さん食べないとこげちゃいますよ」
「は、はい」
そう言いながら、蒼樹はきらきらと煌くピンクのルージュをつけた小さな口の中に牛タンを押し込んだ。彼女は牛タンが好きなようで、先ほどからそればかりを食べているようだった。
網の置いてあるコンロから煙は坐れるといっても、人気店なのか満席な店内はうっすらと白い靄が掛かったように煙が充満していた。
せっかく着てきたスーツもにおいや脂がついてしまうし、蒼樹の服だってそうだ。
髪や身体全体が脂の匂いに塗れるというのに、彼女はそんなことはお構い無しにおいしそうに食べている。
結局焼肉なんてどこがいいのかわからなかった平丸は、「新宿に美味しいお店があるんです」といった蒼樹の提案を受け入れざるを得なかった。
フレンチがぱあになったのに続き、デートのエスコートは失敗続きだ。
平丸の中ではフレンチで食事をして、ワインを飲みすぎた蒼樹を介抱するといって六本木の平丸の自宅へ連れて行き、あわよくば頂いてしまおうという算段だったのだ。
そのためのムード作りも昨日までに部屋に施しておいたというのに。
蒼樹の手にある細身のグラスには高そうなワインでなくて、どこの居酒屋にもありそうなピーチウーロンハイで、肉を食べる合間にコクコクと飲んでいる。
どんな姿でもかわいいことはかわいいのだが、焼肉がディナーでは全くそんな雰囲気になりそうもない。
「平丸さん、どうぞ」
と、二人を分かつ炭火の網から蒼樹が平丸の皿に運ぶ最高の焼き加減の肉を、平丸はぎくしゃくと口に運んだのだった。
結局蒼樹がお酒に酔いすぎることも、ムードが高まることもなく、二人は平丸のポルシェに乗っていた。
送りますといった平丸に、蒼樹は笑顔で「ありがとうございます」と言ったものだから、もう平丸のマンションに連れて行くこともできないし、無理やり連れて行くことなど平丸にそんな勇気があるはずはなかった。
案の定ポルシェの中も二人分の焼肉臭が篭り始めていたし、そのことがわかっているのか蒼樹も最初は「いいです」と断っていたのだ。
「なんか、すみません。こんな高級車なのに、匂いのつく場所選んじゃいましたね」
車に乗り込んでしばらくすると、困ったように笑った蒼樹が言った。
自分の選択がミスだったと、謝っているのだろう。平丸は恐縮して、ぶんぶんと顔を横に振った。
「大丈夫です、別に車なんか。それより、蒼樹さんが焼肉を好きだとは驚きました」
「そうですか?でも、あそこ本当においしかったでしょう」
「あ、はい、そうですね」
「といっても、私も焼肉店でチェーン店以外で知っている店って、あそこしかないんですけど」
「そうなんですか?」
「ええ、焼肉なんて普段行きませんから」
「あ、蒼樹さんの秘密のお店ってことですね」
井の頭通りを走らせながら、平丸はちらりと助手席に座る蒼樹の姿を見た。すると、彼女は可笑しそうに口元に手を当てて微笑んでいた。
「秘密というか……前に福田さんに教えてもらったお店なんですよ。おいしかったから、また行きたいなって思っていて。でも一人で行くにはなかなか」
「え、」
思いも寄らなかった名前が蒼樹の口から出て、平丸は隣の蒼樹を凝視した。丁度信号待ちでよかった。そうでなければわき見運転か、急ブレーキで事故を起こしてしまうところだった。それって、
「福田くんと一緒に行ったってことですか?」
「はい、打ち合わせの帰りに」
しばらく蒼樹を凝視していた平丸は、蒼樹にいぶかしげに「平丸さん?」と声をかけられて信号が青に変わっていることに気付いて、あわててアクセルを踏んだ。
およそ一時間のドライブで、沈黙の時間のほうが圧倒的に多く、蒼樹もその沈黙を破ろうとせず窓の外を見ていた。
「今日はご馳走様でした」
部屋の前まで送ろうと思ったが、蒼樹に「ここでいいです」と断られてしまった。
車が発進するまではてこでもマンションの前で動かなそうな蒼樹に、何かを言おうとして平丸は口を開きかけた。
だけど結局何もいえず、「それでは」と一言、なんのムードもない別れの言葉言って、サイドブレーキを下ろしたのだった。
PR
Special thanx
About
sunday morning

http://3daymorning.3rin.net/
iwanoriojisan-webtool★yahoo.co.jp
http://3daymorning.3rin.net/
iwanoriojisan-webtool★yahoo.co.jp
