江古田まで
どうしようもないから、すぐに江古田まで出掛けよう。
「それじゃ頂いていきますね。ご苦労様でした」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げると、頭の上から「また連絡します」と山久の声が降ってきた。山久のぴかぴかに磨き上げられた革靴を見ながら、蒼樹はバレないように溜め息を小さく吐いた。
いつも派手なシャツを着ている男の足下は、実は落ち着いた靴を履いているのだと知った。
いつまでも頭を下げ続ける蒼樹を、「真面目だな」とでも思っているのだろうか、くすり、と山久が苦笑したような気がした。
玄関のドアノブを回した音がして、カツカツと靴音が去って行く。
バタンとしまった玄関ドアを蒼樹はぼうっと見ていた。
開けられた玄関から外の空気が入ってきた。
今日は随分と暖かいらしい。ふわりと軽くて温い空気の匂いがした。
そういえば、部屋の空気も暖かかった。
資料や漫画など書籍の多い部屋は、まるで古書店のように紙とインクの匂いが充満していた。
昨日までに原稿はほとんど終わっていたので、最終チェックと仕上げを行うだけだった。丁度午前中にそれをやっつけてしまえば、昼近くになって出社してくる山久に連絡を入れてもすぐに取りに来てくれるはずだ。
一人机に向かった。
一人で描いていたときと机の配置は変わらない。窓に向かって自然光を十分に取り入れた場所。
カーテンの隙間から外を見ると、いつもと変わらずテーブルとベンチしかない殺風景な姿しかない。
今日はスタッフは一人もいない。
連載を始めてから大して広くもない部屋が、一人でいると途轍もなく広く感じるようになるときがあった。
「逢いたいなあ」
一人が寂しいなんて、いつから感じはじめたのだろう。
「逢いたくなりました」
「やけに素直だな」
「疲れたんです」
「何かあったのか?」
「特には。でも酷く疲れました」
だから、電話をした。
通話履歴に一番名前が残っているから、番号を呼び出すのは簡単だった。
きっと、向こうも原稿が上がっていると思ったから。
いつもだったら、「今大丈夫ですか?」くらいの気遣いをするのだけれど、なんだか今日は出来なかった。電話に相手が出ると同時に、「逢いたい」と言った。
疲れた。
いろいろなことが。
仕事が嫌になったわけじゃない。嫌になるわけじゃない。
確かに今週はネームを起こすのが難しかったし、随分時間をかけたけれど。それでも、今だって、自分の作品が一番好きだ。
一番面白いか、と言われると以前のように「うん」とは即答できないかもしれないが。
電話の向こうは押し黙った蒼樹の真意を確かめるかのように、黙ったままだった。
それが拒絶されているように感じて、胸が苦しくなった。
胸が苦しくて、鼻の奥がつんと痛くなってきた。
ああ、だめだ。
「逢いたいです」
ひたすら、それだけを繰り返す女を、彼はどう思うのだろう。
ああ、だめだ。
苦しくて、声が掠れる。喉が張り付いて、うまく言葉を紡げなくなってくる。
ああ、だめだ。
それだけは、だめだ。
「逢いに行ってやろうか?」
彼は優しいから、悟ってしまう、今にも零れてしまう。
「いいえ、逢いに行きます」
だから、唇を噛んで、せめてもの強がりをする。
これから急いで着替えて、化粧をする。慌ててマスカラを瞼に落とさないように、ルージュはしないでリップクリームだけで。小さなポシェットに財布とケータイだけで十分だ。
だから、
「待っていてください」
今すぐ逢いに行くから、待っていて。
電話の向こうで、「おい」だの何だの言っているように聞こえた気がしたけれど、通話を切った。
電話を切ると、すぐにもう一度声を聞きたくなってもう一度履歴を呼び出した。福田真太と表示される名前に、堪えた涙がぽろりと落ちた。
どうしようもないから、すぐに江古田まで出掛けよう。
「それじゃ頂いていきますね。ご苦労様でした」
「よろしくお願いします」
深々と頭を下げると、頭の上から「また連絡します」と山久の声が降ってきた。山久のぴかぴかに磨き上げられた革靴を見ながら、蒼樹はバレないように溜め息を小さく吐いた。
いつも派手なシャツを着ている男の足下は、実は落ち着いた靴を履いているのだと知った。
いつまでも頭を下げ続ける蒼樹を、「真面目だな」とでも思っているのだろうか、くすり、と山久が苦笑したような気がした。
玄関のドアノブを回した音がして、カツカツと靴音が去って行く。
バタンとしまった玄関ドアを蒼樹はぼうっと見ていた。
開けられた玄関から外の空気が入ってきた。
今日は随分と暖かいらしい。ふわりと軽くて温い空気の匂いがした。
そういえば、部屋の空気も暖かかった。
資料や漫画など書籍の多い部屋は、まるで古書店のように紙とインクの匂いが充満していた。
昨日までに原稿はほとんど終わっていたので、最終チェックと仕上げを行うだけだった。丁度午前中にそれをやっつけてしまえば、昼近くになって出社してくる山久に連絡を入れてもすぐに取りに来てくれるはずだ。
一人机に向かった。
一人で描いていたときと机の配置は変わらない。窓に向かって自然光を十分に取り入れた場所。
カーテンの隙間から外を見ると、いつもと変わらずテーブルとベンチしかない殺風景な姿しかない。
今日はスタッフは一人もいない。
連載を始めてから大して広くもない部屋が、一人でいると途轍もなく広く感じるようになるときがあった。
「逢いたいなあ」
一人が寂しいなんて、いつから感じはじめたのだろう。
「逢いたくなりました」
「やけに素直だな」
「疲れたんです」
「何かあったのか?」
「特には。でも酷く疲れました」
だから、電話をした。
通話履歴に一番名前が残っているから、番号を呼び出すのは簡単だった。
きっと、向こうも原稿が上がっていると思ったから。
いつもだったら、「今大丈夫ですか?」くらいの気遣いをするのだけれど、なんだか今日は出来なかった。電話に相手が出ると同時に、「逢いたい」と言った。
疲れた。
いろいろなことが。
仕事が嫌になったわけじゃない。嫌になるわけじゃない。
確かに今週はネームを起こすのが難しかったし、随分時間をかけたけれど。それでも、今だって、自分の作品が一番好きだ。
一番面白いか、と言われると以前のように「うん」とは即答できないかもしれないが。
電話の向こうは押し黙った蒼樹の真意を確かめるかのように、黙ったままだった。
それが拒絶されているように感じて、胸が苦しくなった。
胸が苦しくて、鼻の奥がつんと痛くなってきた。
ああ、だめだ。
「逢いたいです」
ひたすら、それだけを繰り返す女を、彼はどう思うのだろう。
ああ、だめだ。
苦しくて、声が掠れる。喉が張り付いて、うまく言葉を紡げなくなってくる。
ああ、だめだ。
それだけは、だめだ。
「逢いに行ってやろうか?」
彼は優しいから、悟ってしまう、今にも零れてしまう。
「いいえ、逢いに行きます」
だから、唇を噛んで、せめてもの強がりをする。
これから急いで着替えて、化粧をする。慌ててマスカラを瞼に落とさないように、ルージュはしないでリップクリームだけで。小さなポシェットに財布とケータイだけで十分だ。
だから、
「待っていてください」
今すぐ逢いに行くから、待っていて。
電話の向こうで、「おい」だの何だの言っているように聞こえた気がしたけれど、通話を切った。
電話を切ると、すぐにもう一度声を聞きたくなってもう一度履歴を呼び出した。福田真太と表示される名前に、堪えた涙がぽろりと落ちた。
どうしようもないから、すぐに江古田まで出掛けよう。
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