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SLOW LIFE 【1】

 ついこの間、世間ではゴールデンウィークという大型連休があったばかりで、心地の良い春の時期だったというのに、ゴールデンウィークを過ぎてしまってからは暑い日が続いていた。春なんて一体どこへ行ってしまったのだろうと、首を傾げたくなるほど連日二十五度近くの夏日を記録していて、早速福田は箪笥から半袖のTシャツを取り出していた。ほとんどを部屋の中で過ごしているという不健康な生活を送っているせいで、生白い腕が太陽の下に晒されるたび、不甲斐なく思うのだ。
「少し焼きてえなあ……病人みたいだろ、これじゃ……」
 たぶん、一日でも外で過ごせば健康的な肌色になるはずなのだ。
「ツーリング行きてえ」
 結局ゴールデンウィークも溜まりに溜まった家事などをしている間にあっという間に過ぎ去ってしまって、結局どこにも遊びに行かなかった。
 バイクに乗っていないわけではないが、計画を立てて遊びに行くということがしたい。
 原稿の合間の息抜きのように当てもなくふらふらするのでも、見知った家の周りを走るのでもなく、遠出をしたいものだ。
 ぶらぶらと歩道を歩いていると、みゃあ、と音がした。
「ん?」
 福田は立ち止まった。空耳かと思った。するともう一度、みゃあと音がする。
 どこだ。
 音の出所を探して、福田は辺りをきょろきょろと見渡した。
 歩道と車道の間にある植え込みの下に、段ボール箱が押し込まれていた。
 まさかな。
 そう思いながら、段ボール箱に近づくと、みゃあ、みゃあと福田を呼ぶように鳴く声がして、福田は恐る恐る段ボール箱の中を見た。
「どうしたの、お前」
 福田の予想通り、段ボール箱の中にいたのは仔猫だった。産まれたばかりというわけではなかったが、福田の気配に気付いて仔猫はみゃあみゃあと何度も鳴き、福田を見つめた。
「どこの子? 捨てられたのか?」
 猫の状態を見るに、ついさっき捨てられた状態のようだ。福田が出掛けるときには段ボール箱に気付かなかったのだから、たぶんそうだ。
 ミカン箱よりも若干小さい段ボール箱の中に毛布とネコ缶が入っていた。
「ひでぇことする奴がいたもんだなあ……」
 真っ黒な毛並みの黒猫だった。そっと手を伸ばすと、すぐに近寄ってくる。おでこを指でくりくりと撫でてやると、もっと撫でろと言わんばかりに頭を押し付けてくるので、福田はふっと笑みを零した。
「缶詰めとかそのままいれられてもな……、こいつじゃ開けられねえっつうのな? とりあえず開けてやっから。親切な人が現れるといいんだけどなあ」
 段ボール箱にいっしょに入れられているネコ缶の蓋を、ばりっと剥がしながら言った。お腹は空いていないようで、黒猫は蓋の開いたネコ缶の中身を、表面だけぺろりと舐めただけで、みゃあ、とまた鳴いた。
「腹が減ったら、食べな」
 そう言って黒猫をひと撫でして立ち上がると、きょとんとした目で見てくる黒猫に、じゃあね、と立ち去ろうした。
 けれど、それを敏感に悟ったのか、黒猫がびゃあびゃあと鳴き出した。
 行かないで、行かないで。
 必死な黒猫の鳴き声に、福田はその場を立ち去れなくなってしまった。
 突っ立ったまま、段ボール箱の側面にがりがりとつめを立てている黒猫の姿を見下ろした。黒猫の世界は、今、小さな箱の中だけで、その小さな箱が幸せをもたらす世界でないことを、黒猫は知っているのだろう。
 捨てられてしまったことをわかっていて、手を差し伸べてくれる誰かをこうして待っているのだ。
「ああああ、もう、んな、鳴くなつの! ううう、どうすんだ、これ。どうする、俺! どうすればいいのよ、俺!」
「福田さん……? 何やっているんですか……」
 福田は掛けられた声の主を振り返った。黒猫の悲壮な視線に項垂れた福田の姿を、まるで気味の悪いものでも見るかのような冷たい視線を送る女は、福田の数歩離れた位置で立ち止まっていた。
「んな目で俺を見るな!」
「明らかに怪しい人ですよ」
「判ってるけど! 判ってるけど、その目、まじでやめろっつーの」
 しれっとして可愛げのないことをいう女との付き合いは、短いようで長く、浅いようで深いといった、福田にとっては複雑な女だった。たぶん、それは彼女のほうでも同じで、どうして気の会わない二人がこういう関係になったのか、当人たちが一番理解していないという奇妙な状況になっている。
 こういう関係とはつまり、恋人同士であるということだ。
 マキシ丈のワンピースにボレロを羽織った格好の蒼樹が、福田の隣に立った。片耳に髪の毛をかけていて、いつもと違う横顔に少しどきりとした。蒼樹は目の前にある段ボール箱を見て言った。
「猫?」
「そ。捨て猫っぽいんだよなー。」
「餌付けしたりするとなつかれちゃいますよ。」
「段ボールに入ってたやつを開けてやっただけだよ。」
 福田は体を曲げて黒猫を撫でた。福田が顎の下に指を入れて擽ると、黒猫は気持ちよさそうに目を細める。
「随分なついていますね。あら?」
 蒼樹が何かに気づいて声をあげる。指をさしたのは、福田が持っていたレジ袋だった。
「コンビニ……じゃないんですか?」
 蒼樹はレジ袋のロゴが、コンビニのロゴではなかったことが気になったようだ。
「おう、スーパー行ってきた。」
「福田さんがスーパーマーケット……」
「なんだよ。行っちゃ悪いかよ。」
「いえ、イメージにないだけです。」
 狐に摘まれたように、目を丸くした蒼樹の表情に、福田は盛大に顔をしかめた。確かに珍しいことかもしれないが、そこまで驚かなくていいだろうと思う。自炊しないわけではない。時間がないから、いつもコンビニで済ませてしまうだけだ。
 不貞腐れたように唇を突き出した。
「俺のイメージってどういうものなわけ」
「コンビニでとんこつラーメンを買って食す、という感じでしょうか? しかも、カップ麺」
「……間違ってないけどさ。」
 それは日ごろの福田の行いの全てで、否定すべき点など毛頭なく、福田は、はあと溜め息をついた。
「何を買ってきたんですか?」
 蒼樹がレジ袋の口を指で引っかけて中を見ようとする。隠すつもりはないが、また小言を言われそうで福田は焦った。なんのつもりか知らないが、彼女の小言はまるで母親のようで、とにかく小うるさいのだ。
 だからさりげなく袋を自分のほうへ引き寄せようとしたが、蒼樹は既に袋の中を覗き込んでいた。
「ネギに、ミョウガに、お豆腐……冷奴?」
「まあな」
「で、ビール」
「な、なんだよ、その目は! いいじゃねえか、別にビールくらい。」
「ビールがダメだとは言っていません」
 蒼樹はそう言うが、明らかにビールのつまみだけ買いました、といったレジ袋の中身に、彼女は多いに不満を持っていることは、彼女の顔を見れば明らかだ。もっと身になるものを食べろと言いたいに違いない。
 けれど、気温も上がって唐突に冷奴が食べたくなったのだから仕方がない。
 夏の本番はまだまだ先だというのに、もう涼を求めてしまう。スーパーマーケットもそういった客のマーケティングを行っているのか、豆腐売り場には、豆腐サラダや冷奴に丁度よさそうな豆腐が並んでいて、福田はどれを買おうか迷ったくらいだ。喉ごしの良い、つるっとした豆腐や、ほとんど豆乳のような豆腐、枝豆豆腐など多種にわたっていた。その中で豆腐の味の濃いものを買ってきた。
 豆腐サラダでも良かったが、薬味のきいた冷奴のほうが、涼を求めるには丁度よいと思った。冷奴をつまみにビールで喉を潤そう。昼間からではあるが、仕事が一段落したのだ。これは、ささやかな自分へのご褒美だ。
 そんな考えが蒼樹のお気に召すとは全く思わないが、当たりだったようだ。
 彼女はあまり酒を飲まないから、余計かもしれない。
「ビール腹になんてならないでくださいね。メタボは嫌いです」
「……毒があんなあ……それ……」
「そうですか? 気のせいじゃないですか?」
 怖いくらいのさわやかな笑顔で言われても、余計に毒があるように感じてしまう。誰のこと言っているのか、たぶん、己の想像している人物と、彼女の考えている人物は同一人物だ。
「あんた、結構根に持つタイプだよな」
「何のことだかさっぱり判りません」
 蒼樹にこれだけの印象と影響を与えた人物は、知っている限り一人しかいない。
 それは印象と影響力の深さでは福田にも同じことが言える人物だったわけで、救いようがないなと、見放している部分もあれば、まだ放っておけない、そんな気持ちがあることも確かだ。そうやって人を突き放せない己のお人好し加減に少々呆れる。
 その点、師匠である新妻のわかりやすい態度には敬服を覚える。
 新妻の判断基準はすべて漫画だ。
 漫画を頑張っているか、頑張っていないか、全てはそれである。
 自分のことを置き去りに話が進んでいることが判っているのか、足下からみゃあと催促するような鳴き声がして、福田も蒼樹も黒猫を見た。
 相変わらず、段ボール箱の側面にがりがりと前脚をかけて、段ボール箱から出ようとしていた。
「こいつどうしよう……。」
「福田さんのマンションって、ペット可なんですか?」
「確か平気だったはずだけど」
「じゃあ、福田さんが拾って差し上げたらいいのでは?」
「えー……?」
「だって、この子を引き取ってくれる親切な人が現れる保証なんかないじゃないですか。福田さん、猫慣れてそうですし」
 素っ頓狂な声を出した福田に、蒼樹は真面目な顔をして言った。真面目な顔をして冗談をいうような人物ではないことは、福田はよく知っていたので、少し引き攣った表情で蒼樹を見た。
 蒼樹がこんな風に話すときは、もう何を言っても譲らない、そういう頑なな意思があるときだ。
「ここまで福田さんに懐いているんですから、このまま福田さんが拾ってあげなかったから可哀そうです」
「そんなにこの猫のことが気になるんだったら、蒼樹嬢が拾ってやったら?」
「うちはペット不可なので。それに、今言ったように、すごくこの子は福田さんに懐いているように見えました。福田さんも、それが判っているからこの場から離れられなかったのではないですか?」
 蒼樹の実に的確な指摘に、福田は「うっ」と言葉を詰まらせた。いつから蒼樹が福田のことを見ていたのかわからなかったが、もしかすると、最初から見ていたのかもしれない。
 そう思い至ると、途端に恥ずかしくなってくる。
 猫に話しかけているところまで見られていたとなると、今までの福田のイメージを覆しているのではないだろうか。そう思うと恥ずかしい。
 福田は黒猫と蒼樹を交互に見た。そしてもう一度、「うっ」と言葉を詰まらせてしまう。見なけりゃよかった、そんな風にさえ思ったが、もう見てしまったものは遅い。
 福田は赤くなった顔を隠すように、口元を手で覆った。
 視線が泳ぐのが自分自身でも判ったが、どうしようもなく泳いでしまう。
(動揺するな、俺!)
 と、自己暗示をかけてもコントロール出来そうになかった。
「だめですか?」
 そう聞く蒼樹のしゅんとした顔が、可愛いなんて、そんなの反則だ。
 上目遣いでお願いという常套手段を、まさか蒼樹が使ってくるなんて思いもしなかった。あまつさえ首まで小さく傾げてこちらを見てくるなんて、狙っているとしか思えない。
 彼女の場合、狙ってやっているわけがないので、これは無意識にやっていることなのだ。
「福田さん?」
「はあ、もう、勘弁しろって……」
 惚れた弱みというやつなのか、これが。
 福田は空を仰ぎ見た。まだ夏の空には程遠かったが、白い雲が浮かんだ青空だ。
 じりじりと太陽が首や腕を焼いていく。みゃあみゃあと鳴き続ける黒猫と、上目遣いのおねだりを続ける蒼樹を見下ろした。
「お前、うちくる?」
 福田を見上げた黒猫が、みゃあ、と鳴いた。これは返事だろうか。
 確か、動物は人間の言葉や表情がわかるのだったか。そんな漫画があった。
 ひょい、と黒猫を抱き上げて、ヘーゼルの瞳を覗き込む。瞳孔に自分の姿が映っていた。
 福田は抱き上げた猫をもう一度段ボール箱の中に戻すと、アスファルトに直に置いたビニール袋も一緒に段ボール箱の中にいれた。
 一気に狭くなった箱の中で、何事かと黒猫がばりばりと段ボール箱を引っかいた。
「福田さん?」
 黒猫と同じように何事かと訝しげに蒼樹が福田の名前を呼んだ。段ボール箱を抱えると、案外重たかった。
「うち来るんだろ?」
「……行きますけど?」
「なら早く帰ろうぜ。結構重いんだよ、これ」
「え」
 驚く蒼樹を置いて先に歩きはじめた。福田の背後で、蒼樹が「ちょっと待ってください」とヒールで駆けてくる音が迫る。
 今日は我が家に黒猫がやってきた。

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