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暑い夏には

 キャビネットの上に置かれているファックスマシンが、ピーという電子音を立てた。それを聞いて、ファックスに近寄ると、無事送信されました、とモノクロの液晶画面にメッセージが表示されていた。
 それを確認した蒼樹が次にとる行動は一つしかない。
 福田に電話をかけることだ。
 ポケットから携帯電話を取り出した。通話履歴から福田の電話番号を呼び出すこともあるし、アドレス帳から探すときもある。
 どちらにせよ、蒼樹の指は無意識の行動にように自然に福田の電話番号を探り当て、迷うことなく通話ボタンを押し、耳に電話を押し当てる。その行動は、もう体に刻み込まれてしまっていて、何を考えるわけでもなく福田に電話をかけられるようになっていた。
 数回の呼び出し音のあと、声を潜めた福田が電話越しに出た。
「どした?」
「福田さん……?」
 福田が声を潜めるということが珍しい。蒼樹は不思議に思って、福田の名前を上げ調子で呼んだ。その直後に騒々しい声が聞こえてきて、蒼樹は思わず、耳から携帯電話を離し、電話中と表示されている画面をまじまじと見てしまった。
 福田真太の名前が液晶の中にある。
 携帯電話のスピーカーは思いの外よく響くし、よく拾う。遠くで話していても、福田と誰かの声が蒼樹の耳に届いてくる。
「福田先生、誰ですかー? 蒼樹先生ですかー?」
「え? 新妻さん?」
 予想もしなかった新妻の登場に、蒼樹は戸惑いを隠せなかった。新妻の声に被せるようにして、福田が「電話中だ」とあしらう声が聞こえてくる。
 どうして新妻がいるのだろう。蒼樹は困惑しながら再度携帯電話を耳に当てた。丁度福田が喋るところだった。
「もしかして、ネーム送ってくれたのか?」
「あ、はい。あの……」
「あーミスったなあ……すまん、もう一回送ってくれねえか? 新妻くんのところに」
「え?」
「俺さ、今、新妻くんのところにいるからさ」
 蒼樹が福田の言葉にますます困惑したことは言わずともわかるだろう。蒼樹は目を点にしたまま、福田の言葉に耳を傾け、最終的に「はい」と、戸惑い気味に頷くほかなかったのである。



「どういうことなんでしょう、これは」
 ぶつぶつと独り言を言いながら、蒼樹はカートを押していた。二段になっているカートの上にだけカゴを置き、蒼樹は手に取ったレタスをカゴの中にそっと置いた。
「なんで私は、こうしてスーパーで野菜を買っているのでしょうか」
 連れがいない状態。正真正銘の独り言に、誰かが答えてくれるわけはない。独り言を聞き咎めた人がいたら、少し可笑しな人だと誤解されてしまうかもしれない。それなのにぶつくさと独り言が出てしまう蒼樹の心境は、どうしてなのだと問えば、少しは混乱も解消するかもしれないという、根拠のない理由のためだ。
 そうして自分自身に問うてもわかる問題ではない。成り行きでこうなってしまっただけで、この買い物は、蒼樹のためだけの買い物ではなかった。夕飯の買い出しをするために、スーパーにはほどよく人がいる。生鮮売場はひんやりと冷えていて、外のうだるような暑さに晒されていた体には、気持ちがよかった。長居してしまえば体が冷えてしまって寒くなってしまうのが生鮮売場の特徴だが、長居をするほどの買い物量ではない。
 真っ赤な宝石のようなトマトが数多く並んでいた。最近はトマトの種類が豊富で、値段もピンからキリまであったが、蒼樹は中サイズほどのつるりとして表面に艶のあるトマトを選ぶと、それも一緒にカゴに入れた。
 ほかにどんな野菜が必要だろうか。
 蒼樹は顎に指をやり、うーんと考え込んだ。
 具体的なことを指示されていない。
 野菜コーナーの周りをうろうろとしながら、蒼樹は想像を巡らしていた。
 そうしてレジをすぎ、ビニール袋の買ったものを詰め込むと、予想以上に荷物が重たいことに気づいた。
 これを持って電車に乗り、中野まで行かなくてはならない。中野で買い物すればよかったか、と今更ながら後悔した。三鷹から中野まで数駅しか離れていない。たかが数十分の辛抱ではないか。自宅からスーパーへ帰るのと大した差じゃないと考え直した。
 蒼樹はスーパーを出ると駅へと向かった。



 電車を降りて、改札を通り抜ける頃には、すでに汗をかいていた。普段エアコンで快適な部屋で過ごすことの多い蒼樹の体は、じりじりと焦がすような外の暑さを感じるだけで、玉のような汗がふつふつと沸き上がってきているのを感じていた。
 目的の新妻の部屋までは駅からは目と鼻の先だ。
 蒼樹が歩を進めようとした矢先、隣から声をかけられた。
「蒼樹嬢」
「福田さん」
 待っていたのか、それともたまたま遭遇しただけなのか、福田が蒼樹の隣に立っていた。どこかで貰ったのか、うちわを持っていた。暑さに顔をしかめていた蒼樹に、持っていたうちわで扇いでくれた。
「買ってきてくれた?」
「重たいです」
「すまん。持つわ」
 冗談気味に言った不平不満に、福田はすかさず手を出した。気を遣われたことに、蒼樹は逆に謙遜してしまって、首を振った。
「あ、いえ、そういうわけでは」
「いいから、貸して」
 福田は半ば奪いとるように蒼樹からスーパーの二ビール袋を受け取った。
 すいません、と蒼樹が言うと、気にすんな、と返ってきた。
「エアコンが壊れたんですって?」
「そうなんだよー突然壊れてさー。電気屋行ったんだけど、今、夏で特需じゃん? 在庫ないから待ってくれって言われて。どうしようかなって、雄二郎に相談しようかと思ったんだけど」
 福田の部屋のエアコンが昼頃突然壊れてしまったのだという。ちょうど日が高くなって一日で一番暑くなる時間帯に壊れてしまった。エアコン無しで仕事はなかなかできない。汗が垂れ、原稿用紙が湿らないようにタオルやアームカバーで防いだとしても、これだけじりじりと暑いのだ。エアコンなしで、作業をすることはなかなか難しい。
 福田の編集担当を長年している雄二郎との関係はすこぶる良好なようで、福田が何かあると真っ先に相談する相手は雄二郎になっていた。
 福田は雄二郎のことを適当な人間だと言っているが、なんだかんだいいながらも福田や新妻のサポートをしているところをみると、それが仕事とはいえ、面倒見のよさが雄二郎にはあるのだろうなと思う。
 それから福田とも新妻とも相性が良いのだろう。
 いくら優秀な編集、優秀な作家同士でも、性格や相性の不一致があれば、なかなかそれが作品に生きてくるとはいいがたい。
 マンガは作家だけが作るものではない。編集と二人三脚で作るものだ。
 蒼樹は青葉の頃を連載するにあたって、編集替えがあった。今回担当編集になった山久とは良くも悪くもない状態だと言える。周囲の人間から言わせれば、山久の編集としての能力はなかなか高いものがあるようだ。確かにそうなのかもしれないと、連載が順調にいき始めてからそう思うようにもなれたが、初めは山久の提案や考えに反発して仕方がなかった。担当替えを申し入れようと思ったこともある。
 現在は連載も順調にいっていることから、山久とは良好な関係を気づけているとは思うが、それでも福田や雄二郎、新妻のような、信頼関係があるかというとそうではないだろうと思う。山久という男もまた、一筋縄ではいかないような、腹に本音を隠し持っているような気がしてならない。山久に対して、本音の一部しか言えない蒼樹と同じように。
 信頼関係を築くには、まず自分の心から開くべきなのだ。
 それは福田とこういう関係になったことで、嫌と言うほど教わった。
 福田真太という人間は、それは隠しもせずに自身のことを暴露するからだ。この人は信用できる、そう思わせることの要因は嘘をつかないことだ。
 相手が遠慮無しにものを言うものだから、売り言葉に買い言葉というように、こちらも遠慮無しにぽんぽん言葉が出てしまう。
 まるで福田と雄二郎のように。蒼樹と福田の信頼関係もそれに近いしいものが、すでに二人の間にはある。
「あわよくば、上がり込もう……とか、思ったんでしょう」
 エアコンが壊れて雄二郎に電話した福田の狙いは、宿を求めることだったのではないだろうか。蒼樹はそんな問いを込めて言うと、福田は破顔した。
「当たり。でも、そしたら新妻くんのところ空いてるよとか、雄二郎が言うから」
「それで来たと……」
 そんなことだろうと思ったと、蒼樹がやれやれと首を振る。
「迷惑なんじゃないですか、それ」
 相性のあっている三人ではあるが、それ故に蒼樹からすると、とても適当なところがあるように思えた。その緩さがほどよい関係性を作っているのかもしれない。けれど、それとこれとは別だ。
 新妻は人気連載作家の一人であり、彼の仕事を邪魔することは編集部としても許されないだろう。
「わかってるよ。でも新妻くんが無問題ですっていうからさ。まあ……誰かの存在が新妻くんに影響するなんてことなんて、ないとは思うけどね。悪影響って意味で」
 新妻のアシスタントをしていた福田だからこそわかることだ。それでも、新妻に迷惑をかけることになってしまうことは事実だ。
「私のところでも、お部屋は余ってないですから無理ですしね……」
 新妻に迷惑をかけるだろうと指摘できても、蒼樹の部屋にも余裕がない。今は連載のためにアシスタントの作業テーブルなどを置いているせいもあって、蒼樹のパーソナルスペースしかない状態だ。
 うちに来ませんか、とは福田には言えない。
 うーんと唸る蒼樹のとなりで、福田はいやいやと手振りまでして拒否をした。
「……余ってても、さすがにそれはできん」
「なんでですか」
「なんで、なんでも。できんから、できん」
 できないものはできないと訴える福田に、蒼樹は理解できないといった表情で福田を見上げる。
 その途方もない意識の差に、福田はどうしてくれようか、と頭を抱えたくなった。少年誌にパンチラを書くことに対して異様なまでに拒否していたはずの蒼樹だ。少年たちが将来変態になったらどうするのだと本気で思っていたような女だ。
 だったらわかりそうなものなのに、逆にそういう変に純粋なところがあるからこそわからないのだろうか。
 それとも男として見られていないのか、そう考えるとベコベコに凹みそうになる。
 仲間と書いてルビはライバル、なんて冗談半分本気半分で言うことはあっても、女と男が一つ屋根の下にいるにはそれなりの理由が必要ではないだろうか。エアコンが壊れたから、蒼樹の部屋に一晩の宿を借りに行きましたと、雄二郎に言えるだろうか。
 いや、言えない。
 絶対にそれだけは言えない。仮にそれが事実になったとしても、言えないだろう。厭らしくにやけて追及の手を緩めない雄二郎を想像する。
 何かあっても、何もなくても、口の軽い雄二郎にバレることだけは、進退窮まる。
「別に、部屋とかきれいですよ。普通に福田さんの仕事場よりは格段にきれいです」
「そういう問題じゃないうえに、酷いことを平気で言うな!見てもない癖に!」
 確かに部屋は汚いが、蒼樹が福田の部屋へあがったことはない。
「見なくてもだいたい想像つきます」
「想像すんなよ!」
「新妻さんのところよりも汚いですか?」
「いや、どっこいどっこい……って新妻くんにも失礼なこと言ってるぞ、アンタ」
「でも汚いじゃないですか。そこでご飯食べれますかね?」
「俺が掃除したから大丈夫だ」
「福田さんが? 掃除を?」
 胡散臭そうにじろじろと福田の顔を見る蒼樹に、本当に失礼な奴だなと福田は言った。
「掃除ができないわけじゃなくて、やる時間がないだけなんだよ!」
「それって、よく言い訳に使われそうな言葉のように聞こえますけど」
「本当だし!」
 どれだけ言っても、福田の言葉は信用しないか、とうんざりしたところで、蒼樹が笑いながら言った。
「いつか、掃除しにいきますね」
 蒼樹は本当によく笑うようになった。
 今まで福田に対してこんな風に笑ったことなどなかった。福田の知る限り、ライバルだと呼べる人たちに対して、蒼樹は打ち解けようとはしなかった。それに愛想笑いですらもしなかった。
 その蒼樹が愛想笑いどころか、心からの笑顔を見せるようになっていた。
 楽しいときや、困ったとき、くすりと微笑んだとき。
 いろいろな表情を持っていたのだなと、気づかされた。
 蒼樹の笑みは図星を指されたことにムキになっていることに対して笑っているわけではなかった。それとは違うもっと柔和なものだった。
 柔らかな表情をする蒼樹に、福田は少しばかり焦り、戸惑った。こういう表情をする蒼樹にどう受け答えをしたらいいのか、まだわからなかった。
「なんでだよ、来なくていいし」
「お礼です」
「は?」
「私のために、指導をしてくださる、そのことに対するお礼です」
 福田は驚いてぱちくりと大きく一度瞬きをした。そうすれば何かが変わるのではないかという期待を込めているかのようだ。
「……お礼に掃除って……なんだそりゃ……」
「勤労奉仕させていただきますよ?」
「……わけわかんねー……」
 別に蒼樹のために、蒼樹を助けているわけではない。
 そう言おうと口を開いても、その言葉は全く出てこなかった。口をもぐもぐと動かして、出てこない言葉を飲み込んだ。蒼樹のためじゃないということなんて、ここまできたらその言葉にはほとんど信憑性がない。照れ隠しにそうやって怒鳴ることもできやしない。
 蒼樹の為じゃないと言ってしまったら、絆が切れてしまうと直感的にわかっている。
 しかし恥ずかしいものだ。
 福田の気持ちを知ってか知らずか、蒼樹はにこにこしていた。
 福田は二の次が告げず、とぼとぼと歩いていた。無言で、かなりゆっくり歩く。一度会話が途切れてしまうと、もう一度会話の糸口を掴むのに苦労する。
 福田がどうしようかとぐるぐると思考回路をハムスターの回し車のように高速回転させていると、蒼樹が、でも、と口火を切った。
「なんでしゃぶしゃぶなんですか? 暑いのに」
 福田に電話をかけた蒼樹は、ちょうどよかったとばかりに、福田から新妻のマンションで、しゃぶしゃぶをやるから来ないかと誘われたのだ。
 福田から食事に誘われて、蒼樹は正直なところ心が躍ってしまった。本当にいいのかと、なんども確認をしてしまうほどだ。そして、新妻のマンションに来るついでに、野菜を買ってきてほしいと頼まれたために、スーパーへ寄ったのだ。
 新妻の部屋に転がり込んだ福田は、なにもせずに居候するわけにはいかないと、食事を奢ろうとでもしたのだろう。もしくは作ると言ったのかもしれない。家主の要望とあれば、暑くてもしゃぶしゃぶにしないわけにはいかないと思ったのではないだろうか。
「冷しゃぶが食べたいんだとよ。なのに、新妻くん、スーパー行ったら肉しか買わないんだよ。かごに野菜入れると怒るんだよ」
「なるほど」
「ついでに買ってきてもらって悪かった」
「いえ」
 新妻が偏食だとは初耳だ。あの風変わりな雰囲気の新妻を想像すれば、偏食家であっても納得してしまう。
 スーパーで買ってきた野菜は福田が持っている。反対側の手には別のビニール袋を持っていて、蒼樹はそれを指しながら聞いた。
「福田さんは?」
「俺は飲み物。酒と、ウーロン茶。あんたも飲む?」
「お酒を?」
「そう」
「じゃあ少しだけ」
「飲めるんだ?」
「飲めますよ。普段飲まないだけで」
「へえ、意外」
 交友関係が少ないせいで飲み会に誘われる経験があまりないが、飲もうと思えば飲めるのだ。二日酔いや悪酔いするような飲み方はしないし、普段から好き好んで飲むわけではないが、全く飲めない、お酒が嫌いというわけではない。
「なんかカクテルとか好きそうなイメージ」
「うーん……あんまりお酒は詳しくないので」
「甘いお酒のほうが好きっしょ」
「そうですね」
 苦みの強いものや辛口のお酒よりは、口当たりの良い、いわゆる女性向けのお酒のほうが好きだ。口当たりの良いお酒は、ついつい量を飲んでしまうと言われるそうだが、自制心の強い蒼樹はそこまで飲んだことはなかった。
「じゃあ、よかった」
「え?」
「ビールだけじゃあれかなと思って……つか、蒼樹嬢がビール飲むのを想像できなかったから、チューハイとか梅酒にしといた」
「梅酒好きです」
「よかった」
 持っていたビニール袋の口を少し広げて蒼樹に中身を見せてくる。梅酒といっても、明らかに女性向けの商品ラインナップを展開している見たことのあるラベルに、福田が蒼樹のために考えて選んできてくれたことが伺い知れた。
 そのことに蒼樹は胸がほっこりと温かくなった。小さな心遣いがうれしく思った。
「じゃー今度、梅酒のおいしい店行こうぜ。すげー種類多いところ知ってるからさ」
「本当ですか?」
「蒼樹嬢がいいならな」
 片眉だけを器用につり上げて、どうする、と問う福田の姿に蒼樹は頷いた。断る理由なんて何もなかった。



「新妻くん、買ってきた」
「お邪魔します」
 過去に二度、新妻のマンションを訪れたことがある。そのどちらも福田組の集会場に使われたためだ。
「ウェルカムでーす」
 玄関を抜け、部屋のドアを開けると、スウェットやヘッドフォンの間など、至る所に羽根箒を差し込んでいる新妻が二人を出迎えた。相変わらずのハイテンションぶりに蒼樹は思わず福田の背後に回ってしまう。福田は馴れたもので、新妻の奇抜な格好には何一つつっこみを入れない。
 何度かその姿を見てはいても、福田ほど交流があるわけではないので、新妻の人となりがいまいち掴めず、蒼樹にとっては福田組の中で、一番距離間の遠い人物かもしれなかった。
 ドアを閉めた途端に、蒼樹はぶるりと背筋を震わせた。
 それに呼応するように福田も腕をさすり、思わず声を上げた。
「ってか、寒っ!」
 背筋が震えたのは、室温が異常に低かったからだ。外が非常に暑いせいで、そう感じるのかと思ったが、涼しいを越えて、福田の言ったとおり寒いくらいだった。
「何度設定なんですか!?」
「十八度設定ですけど」
「なんでこんな寒いんだよ」
「外に買い物に出て、暑いかと思いまして」
「暑いけど、ここまで寒くしなくたっていいじゃねーかよ」
「涼しいレベル超えてますよ」
 福田と蒼樹が口を揃えて抗議しても、新妻は、
「寒いですか?」
 と、首を傾げるだけだった。新妻なりの気遣いを見せたつもりだったのだろうが、気遣いにも限度というものがある。
 話の通じない新妻に、福田は地団太を踏む。
「北国育ちだとそうなんの!? ねえ!? そうなんの!?」
「知りませんケド」
「新妻さん、夏でもそのスウェットなんですね」
「涼しくなったんで、スウェット着たです」
「俺が出ていくときには普通にTシャツだったぞ!」
「え」
 福田が詰め寄っても懲りた様子のない新妻に、福田は半狂乱に近い状態で、きぃ、と声にならない叫び声をあげた。
 福田がそんな状態になることを目の当たりにして、蒼樹は新妻と福田の関係性のディープな一面を見た気がした。きっとアシスタント時代も、持論を展開し、常識からズレた行動をとる新妻に福田は手を焼いていたのだろう。福田は案外常識人だ。マンガに関しても正攻法を取るし、言葉遣いは乱暴ではあるが、考え方は至って常識的だ。
 仲はいいが、その中でも苦労をしたのだろう。
 福田は腕をさすりながら、イスの上で不安定な体制を取る新妻に言った。
「もう普通のしゃぶしゃぶでよくない? 寒いし」
「でも冷しゃぶ用のお野菜しかないですよ。 トマトとかレタスとか」
 蒼樹が福田に頼まれたのは、冷しゃぶをするのに必要な野菜だ。レタスにキュウリ、トマト、タマネギ、セロリ、水菜。この中で温しゃぶできる野菜を、しいてあげるとしたら水菜しかない。あとはサラダにでもするしかないだろう。
 確かに氷水でしめた冷しゃぶを食べる気持ちには、この寒さでは失せてしまう。
 買ってきた野菜をどうしようかなどと、蒼樹が考えていると、冗談か本気かわからない真面目な顔で、新妻が福田と蒼樹に詰め寄った。
「それもしゃぶしゃぶしますか?」
「しねーよ! なんでだよ!」
 即答で新妻の提案を拒否した福田と、「ラジャーですー」とへらりと敬礼した新妻の、二人をやりとりを見ながら蒼樹は、うらやましくもあり、新妻とつきあうのは大変そうだなあと福田に同情してもいた。
 蒼樹は苦笑したまま、準備をしましょう、と福田と新妻の背を押したのだった。



「秋名さんは呼ばないですか?」
 結局福田の提案が採用されて温しゃぶへと変更され、テーブルがないためフローリングに直に座って食べることにした。だしをつくり、サラダを作ったところで、なにも手伝っていない新妻がキッチンにたつ福田と蒼樹の背後から首だけを出してそう言った。
「俺、知らないし、秋名くんの番号」
 タマネギの皮を剥きながら、新妻のほうを振り返りもせずに言う福田の隣で、トマトを湯剥きしようと水を入れた鍋を火にかけようとしていた蒼樹がその手を止めた。
「呼びます?」
 そう言うと、新妻は飛びかからんばかり反応した。
「呼んでほしいです! 人がたくさんいたほうがいいですし!」
「秋名くん、来るかねえ」
「どうでしょう。断られそうな気もしますけど……」
 ポケットから携帯電話を取り出し、秋名の番号を呼び出す。携帯の画面をのぞき込むように隣に立った福田を振り扇ぎながら、蒼樹は新妻にもう一度呼びますか、と確認した。新妻は頷き返した。
「僕がどうしても来てほしいっていったら、来ますヨ」
 新妻が自信満々に言い切ったので、福田は驚いた。昔の蒼樹にそっくりだと言われるぐらい、絶対的な自信に溢れて、他者を認めようとはしない気の強さのある秋名のことを理解しているような口振りだ。
「新妻くん、秋名くんのこと把握しちゃってんの……?」
 エスパーと影で噂されるくらいに、漫画に関係したことであれば、新妻の言った事や指摘が外れることはない。漫画を通して、秋名愛子がどういう人間なのか、把握し扱い方を熟知しているのか。
「なんとなくです」
 新妻はにやりと含みのある笑みを浮かべた。
 知らない間に、新妻と秋名の間に何かあったのだろうか。蒼樹と福田は興味が湧いて、思わず顔を見合わせていた。もし秋名が新妻の言った通りここに来たら、さり気なく聞いてみよう。二人は無言で心を通わせて小さく笑いながら頷きあった。
「なに二人して見つめあってるんです?」
 そう新妻に言われて、福田と蒼樹が同時に抗議の声を上げたのは言うまでもない。

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