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嘘吐きの恋

 たまに嫌になることがある。  現状と自分自身に嫌になることがある。
 その現象は、最近特に酷く感じるようになっていた。そのことに戸惑いを隠せない。戸惑うことに更に戸惑い、混乱する。
 全く自分は一体何がしたいのだろう。そんな風に思う自分が、また嫌だった。
「あんた、本当に何しに来たんだ……」
 そんな台詞を言っても、押しかけてきた男は何も聞いてはいなかった。
 それはいつもの威勢の良い福田の声にしては、ぼそりと呟いた程度の音量であったから、福田の仕事場兼自宅に押し掛けてきた男の耳には届かなかったのかもしれない。
 押しかけてきた男──平丸は勝手にアシスタントの座る椅子に座っていた。
 今日という日に限ってアシスタントが来ない日だった。週七日間のうち、毎日アシスタントが来るわけではない。ペン入れができる作業ができるまで、結局漫画家というのは一人で作業しなければならない。ちょうど一週間の中で今日という日はその日にあたっていて、たぶんどの作家も筆が早かろうが遅かろうが、今日という日はネームを作っているに違いないのだ。
 だから平丸も福田と同じはずなのだ。同じ漫画家なのだから、平丸もネームを作って、編集に見せる。そういうことをしていなければならない日のはずなのだ。けれどこうして仕事中の福田の部屋に無遠慮にも押しかけてきている。
 要するに平丸の逃亡癖が今週も出ていて、それが今回はたまたま福田のところだったということなのだと思う。
 平丸の担当編集者である吉田からは、冗談なのか本気なのか判別のつかないお触れが出ている。
 平丸が逃亡してきた時には吉田に連絡をしてくれというお達しだ。
 働くことが嫌いだという平丸に、福田は理解することはできない。特に漫画を描いていたわけではないという理由には、到底理解が及ばない。
 漫画が描きたくて、漫画家になりたくてようやっと掴んだ夢を離さまいとしている福田には、平丸の持っている価値観は到底理解できるものはない。
 セクションペーパーにネームを書きながら、ずるずると平丸がコーヒーを啜る音を聞いていた。その特徴的な飲み方に、若干イライラする。
「福田くんのところにはコーヒーしかないのかい?」
「そーすよ。インスタントコーヒーしかねえっすよ」
「僕は紅茶が好きで、特にダージリンが、す」
「しらねーっすよ。俺は紅茶なんか飲まないんで」
 福田は平丸の言葉に覆い被せるように言った。
 紅茶なんか飲まない。これからもこの先も、飲む機会なんて殆どないだろう。仕事場で飲むのはコーヒーかビールくらいで、出先でも注文するのはコーヒーだ。スタッフも担当もコーヒー党ばかりで紅茶なんかティーバックすらない。飲まなくても困らない。
 それに──
「いいよ、紅茶、心が安らぐというか、癒されるというか。特にユリタンが淹れてくれたお茶が……」
 ぴたっとシャーペンを持っていた右手が止まってしまった。
 どうせ出るだろうと思ったのだ。平丸が紅茶と言い出した瞬間から、その言葉が、その人物の名前が出るだろう事はある程度予測していた。
 だから嫌だった。
 だからこの話は、紅茶の話題を反らそうと思って平丸の言葉を遮ったのに、そんなことは平丸には全く通じなかったようだ。
 イライラする。
 イライラすることにイライラする。
 どうしてこんなに心がざわつくのか、判っている。判っているけれどその感情を自覚する勇気はなかった。言葉に出すことは愚か、ぐっと飲み込むこともできない。持て余すその感情に、れっきとした名前があることも判っていたけれど、福田は見て見ぬふりをし続けてきた。
 そのことが自分自身を嫌いにさせる要因だ。
 だからまた、余計に自分が嫌になる。こんな風になってしまった現状に酷く憂鬱になる。
 平丸が部屋にやってきたときから全く集中できなかったが、もっと集中できなくなってしまった。
 これではネームを作ることが出来ない。夕方には雄二郎にファックスを送りたかったが、きっと無理だ。
 平丸はやたらユリタンユリタンと繰り返していた。
 福田は、はっ、と笑った。
 嫌になる。
 自分の知らない呼び方、呼び名。今何をしているだろう、今どんな風な感情を抱いているのだろう。平丸とどんな会話をしているのだろう。どんな風に、どんな様子で。二人の世界を築き上げ、何者もそこには進入できない世界を作っているのか。
 嫌になる。
 どうしても話したいのだろう。ようやく実った恋に、平丸は浮かれているのだろう。福田の変化に気付かずに、平丸は心底幸せな様子で、福田に語りかける。
 歪むどころか、捩れてしまった福田の心に、それはかなりの刺激だった。
 痛くて痛くて堪らない。
 どうして平丸は福田の所に来たのだろう。嫌がらせだろうか。
 そう思ったら、一泡吹かせたくなった。
 少しはうろたえればいい。
 少しは、少しは、少しは──
「平丸さん、俺、平丸さんに一つ言いわすれてたことがあるんすよ」
「え?なんだい?」
 平丸の鼻がピノキオみたいに長く見える。得意になって話すその鼻を、へし折ってやりたい。
「俺、蒼樹嬢のこと好きっすよ」
「え!?」
 言ってしまってから、福田は泣きたくなった。
 今更言ったって、どうしようもない。本当に、どうしようもない。しかも平丸に言っても、どうにもならない。一泡吹かすどころか、ますます自分が傷ついた。
 馬鹿みたいだ。
 本当に。
 気付きたくなかったその感情に、どうしようもなく気付いているんだと思い知らされて、馬鹿らしくなったけれど、自分を笑えなかった。
 笑えないくらい、心が痛かった。
 今にも掴みかからんばかりの勢いの平丸に、福田は精一杯笑った。情けない笑顔になったはずで、でもそれは平丸にはどんな風に見えただろう。
「嘘っすよ……なに、まじにとってんすか」
「本当かい!? 本当に!? 福田くん、それ本当だよね」
「当たり前じゃないっすか。なんで俺が蒼樹嬢なんすか」
 福田は、ぐっと唾を飲み込んだ。これを言ったら、もっと傷つくのに。
「俺は蒼樹嬢のことは嫌いっすよ」
 嫌いになれたらこんなに辛くないのに、どうして嫌いになれないのだろう。
 嫌いにさせてくれたらよかったのに。
 結局嫌いにさせてもらえるほど、福田は蒼樹に思いを告げることも、行動を移すこともしなかっただけだ。
 嫌になる。自分が嫌で仕方がない。
「あと、平丸さん……今から吉田さん呼ぶっすけど、いいっすか?」
 これ以上は耐えられなくて、福田はケータイを手に取った。
 本当に馬鹿みたいだ。

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